第一章(3)
リルアルドという島国は縦に長い。馬で縦断する場合は約五時間。横断する場合は二時間半程度かかるとされている。つまり、縦の方が横よりも二倍近く長いというわけだ。
ただし、これは馬の疲労度も何も考えずに最初から最後まで最高速度で走り抜けたというありえない過程の話である。それにリルアルドは高い山もあるし、深い森もある。実際に縦断すれば、夜通し走って一日以上かかるとされている。
リルアルドに住む総人口は二百万人と少し。これは大国クロムガルドと比べると約六分の一に値する。この二百万人の四分の一が王都に住んでおり、リルアルドの中ではそこが一番の賑わいを見せていた。
主要な国の産業は傭兵業。他国に自国の兵力――騎士を貸し与えることで金銭や物資を調達する。そのため、この国の騎士たちは精鋭であり、その強さは他国にも有名だ。もっとも、金をもらって戦いに参加するその様から『戦争屋』などという蔑称で呼ばれていたりもするわけだが。
その蔑称が示すように、リルアルドの騎士たちは戦争に貸し出されることもある。その場合は自国の騎士を敵味方に分けて戦わせるわけにはいかないので、金払いがいい国に『同盟』という形で貸し出すことになる。
とは言え、最近では戦争に介入することなく、海賊や野党の殲滅、魔獣退治が専らになりつつある。
そんなリルアルドは王政の国であり、当然、王が治めている。先代国王が亡くなったのが、六年前のこと。現在の王はまだ若かったし、先代の王もまだ亡くなるとは思っていなかったので、王位は譲られてはいなかった。今の王が即位したのは、その直後のことだった。
現国王の名前はユーゼス・リルアルド。先代国王の実の息子であり、二十一歳で即位し、今現在二十七歳という若い王だ。あまりに若すぎる即位だったので、懸念する声も聞かれたが、蓋を開けてみれば優れた手腕で国を動かしている。
そんな国王の妹であるルカ・リルアルドはお付きのメイドが持ってきてくれた紅茶に口を付けた。彼女とはもう何年もの付き合いになるので、ルカの好みも完璧に把握されている。熱すぎず、ぬるすぎない。茶葉も綺麗に開いているようで、香りも上々。
それを味わいながら、ルカは手に持った本をめくる。ただし、意識は部屋の真ん中に集中させられている。
そこには高級そうなソファーに深く腰かけた男性がいる。男性にしては長めの髪を後ろに束ねた人物。ユーゼス・リルアルド。彼こそが現在この国を治める王で、ルカの十三歳も歳の離れた兄である。
ユーゼスは普段気にしている鋭い目つきを、さらに鋭くして眼前の女性を睨んでいた。それから「おい」と声をかけた。
「一応、俺は国王だぞ。それなりの態度を取れよ」
不機嫌そうな声。王にそんな風に声をかけられても、その女性は意に介した様子もなく、対面のソファーに寝転がったまま起き上がろうともしない。救いなのはここが謁見の間のような公式の場ではなく、王族が使う私室の一つであることだろう。
「何よー。呼び出したのはそっちでしょー? お昼も近いんだから、摘まめるものぐらい出しなさいよー」
不遜な態度にそんな言葉。ユーゼスの眉間のしわはますます深くなる。
女性の名はアイン・フォルセティ。赤い髪と勝気な目が特徴的な女性で、この国の上位騎士でもある。それも精鋭揃いの上位騎士の中でも『最強』と噂される人物だ。
かつては大国、クロムガルド帝国の十二に分けられた騎士団の一つ、『赤』を任され、数々の功績を挙げた女傑でもあるらしい。
そんな女性がなぜリルアルドにやってきたのか。その経緯をルカは知らない。だが、誰にでも媚びへつらったりしないこの女性のことを、ルカはとても気に入っていた。
それはおそらく兄のユーゼスも同じなのだろう。しかし、今回はそのアインの態度がユーゼスの不機嫌に拍車をかけている。その根本的な原因はユーゼスでも、アインでも、ここにいる誰でもない。
アインの態度――というか、姿勢を正すのは無理だと、長い付き合いから感じ取ったのか、ユーゼスは諦めたように小さくため息を吐いてから話し始めた。
「単刀直入に訊く。あの娘はおまえの影響で好き勝手に動いてるのか?」
「あの娘? どの娘のこと?」
「とぼけるな。イヴのことに決まってるだろ」
ニヤニヤと笑うアインに対してユーゼスは苦虫を噛み潰したような表情で言った。
イヴ・ハーデルラント。現在、この城で預かっている少女の名だ。もちろん、この城で預かっているのだから普通の少女ではない。彼女は最強の紋章師を生み出せる一級の彫り師であるらしい。真偽のほどを確かめる術をルカは持ち合わせていないが、こうしてこの城で保護することになったのだから本当なのだろう。
そんな彼女は騎士学校の生徒であり、今朝も普通に登校していた。それもユーゼスが知らないうちに。
それを聞いたアインが首を傾げた。
「門番とかに知らせてなかったわけ? 知ってたら止めるでしょ」
「あの娘が一級の彫り師なんておいそれと言える話じゃない。どこから情報が漏れるかわからないし、よからぬことを企む人間だって出てくるかもしれない。知ってるのは俺とルカ、その側近の何人か、それから一部の上位騎士ぐらいものだ。それに止めなくても、あんな襲撃があった後だぞ。学校に行くなんて思わないだろ、普通」
「あの子、ぼーっとしてるけど、意外と行動力はあるわよ。何しろクロムガルドに軟禁されてたのに、それから逃げ出してきたぐらいなんだから。どうしても城に縛り付けておきたいなら、牢屋にでも監禁することね。一級の彫り師ってこと以外は普通の女の子なんだから」
「何の罪もない少女にそんなことできるわけないだろ」
アインの意見は至極真っ当なものだ。それがわかっているからこそ、ユーゼスの表情はますます険しいものになる。
「国王としての判断がそれなら、イヴの行動に対して誰も文句言えないわよ。あんた自身も含めて。まったく、そんなんだから校長とかが苦労するんじゃないの」
アインは呆れたように言う。それがユーゼスの国王としての最大の欠点だ。非情になれない性格。国を治める立場としては甘すぎるのだ。もっともそのおかげで民衆から絶大な支持を得ているという側面はあるが。
ちなみに『校長』とは騎士学校の校長の老人のことだ。この国を治めるユーゼスを補佐する立場も兼任していたりする。
「自分が甘いってことぐらい自覚してるさ。だから、いずれ厄介事を起こすかもしれないあの小娘を追い出すこともできないし、民として守ってやりたいと思ってるんだろ。それで本題なんだが、おまえをこうして呼び出したのは……」
「いいわ。大体わかってる。イヴを守ってやれってことでしょ?」
アインが引き継いだ言葉にユーゼスは首肯した。
「そういうことだ。仮にここに軟禁した場合、クロムガルドと同じように脱走される可能性もある」
そうなれば火種はなくなるかもしれないが、それがまずいことは成人もしていないルカにだってわかる。他国に一級の彫り師がいるなんて事態は、それだけ脅威になりかねない。
「だから、イヴをこっちの手札にする。ただ、野放しにしてればこの前みたいなことになりかねない。そこで勇名を馳せてるおまえに護衛させる。クロムガルドは当然として、セレスティア、ファブニールもおまえのことは知ってるだろうしな。だから、あの娘が騎士学校に通うというのもそこまで悪い手じゃないのかもしれない」
「そうね。あたしはあの騎士学校の教官だし。そうなると、あの子はあたしの小隊に入らせるってことになるわけ? 遠征とかも行かせることになるかもしれないけど」
『遠征』とは騎士学校の任務のことであり、この国の傭兵業の一環だ。国内での魔獣退治などもあるが、他国に行くことだってある。
ユーゼスはもちろんその危険性を理解しているのだろう。多少、迷うような間を見せてから言った。
「仕方ないだろ。あいつだけ特別扱いはできない。そうなれば、もっと多くの国に勘付かれる可能性があるからな。だから、おまえに任せるんだ。おまえに対抗できる相手はそんなにいないだろ」
アインは得意気に「まあね」と鼻を鳴らした。
「参考までに訊いておきたいが、クロムガルド内だったら誰がおまえに匹敵する?」
「そうねー。からめ手なしだったら、『黒』、『青』の騎士団長ってところね。あれから何年も経ってるし、何人か入れ替わってるから確かなことは言えないけど。それにまだ見ぬ猛者ってのもいたかもしれないしね」
「『蹂躙』の『黒』に、『閃電』の『青』か。その辺りが水面下で動くということはありえないだろうな」
ルカもその二つの騎士団は知っていた。有名すぎる騎士団だ。
「ま、イヴをあたしの小隊に入れるってのはいい案だと思うわよ。周りの連中もイヴの事情は知ってるし、キールもいるからね」
「キール……。一級の紋章師だという例の小僧か」
その名前に反応したのはユーゼスだけではない。ルカもだった。
「確かその小僧は昔、『銀』に所属してたって話だったな」
キール。数日前のイヴを拉致しようとした実行部隊と交戦し、そのうちの一人を見事討ち取った騎士見習いの名だ。その実行部隊だった『銀』という組織に在籍していたというのは初耳だったが。
「なるほどな。確かにこれ以上ないぐらい適任の部隊ではあるか。そういう奴がいるなら、仮に似たような暗部組織が狙ってきても、鼻が利くだろうな」
ユーゼスは納得するように頷いたが、アインは「それだけじゃないんだけどね」と含み笑いを見せた。
ルカは開いていたがまったく頭に入ってこなかった本をそこで閉じた。それから立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
「そう言えば、そのキールとかいう小僧に一つ話があるんだが……」
そんなユーゼスの声が聞こえたが、扉を閉めると同時にそれも遮断された。
ルカはまだ成人もしていない十四歳の少女だが、いずれは国の政にかかわるようになる身だ。だから、政治的な話に興味を持たなければならないという自覚はあるし、毎日そういう勉強もしている。
だが、国の政にかかわる身とは言っても、ルカは十四歳の少女なのだ。それ以上に別のことに興味があっても仕方がないことだった。
「キール。キール・カウンティか……」
彼とは直接の面識はないが、ルカはその名前を何度も耳にしていた。イヴが何度となく口にしていた名前だ。
一級の彫り師なんて肩書きに関係なく、ルカはイヴのことを気に入っていた。彼女には裏表がない。気後れもしない。王族だろうが、普通に接してくれる。それが普通の人にとっては何よりも難しく、ルカにとっては何よりも嬉しい。友達や姉ができたように感じる。
そのイヴから何度も聞いた名前。キール・カウンティ。
イヴは彼のことをよく話してくれる。その頻度や雰囲気からルカはイヴが彼に好意を抱いていると思っていた。イヴが自覚しているのかどうかはわからないが。それに一説によると、イヴは彼とキスまでしたらしい。
十四歳の少女であるルカ。そういう色恋沙汰は決して嫌いではないし、年相応に興味がある。むしろ大好物だ。
それに最近できた姉に近い人物のお相手。確かめておきたいという衝動は抑えられない。
ルカはその衝動に突き動かされたまま、唇を悪戯っぽく曲げた。




