プロローグ
腐葉土の柔らかい土の感触を靴の上から足の裏に感じながら、銀髪の子供――キール・カウンティは草木の香りが充満する森を駆け抜けていた。後ろには何もないし、何も聞こえない。だが、キールの鍛え上げられた感覚は背後の殺意を鋭敏に感じ取る。
「――ちっ」
キールは一瞬駆ける速度を緩めると、腰に差してある剣を二本とも引き抜いた。それを何度か振ると、甲高い金属音が奏でられた。腐葉土の上に散らばるのは、小型のナイフだ。切るというよりは投げ付ける方が向いている。キールに飛んできて叩き落したものだ。
「……はぁっ」
息を漏らした。飛んでくる量が半端ではなかった。致命傷になるものだけを選んで叩き落したが、何本かはキールの小さな体に埋め込まれてしまった。
「くそっ、大人げなさ過ぎだ――ろっ!」
キールは自分の投擲用のナイフを五本ほど取り出して、攻撃された方に投げ返した。手加減なし、容赦なく投げ付けたのだが、致命傷になったのはたった一人だけのようだ。さすがは鍛え上げられた『銀』の精鋭だと言うべきだろう。
心の中で称賛を送るキールへの返礼は、空を切る音だった。それを剣で防ぎ、あるいは体を捻って避けるが、やはり全てを避けるのは無理がある。しかも、最悪なのはその中の一本が足に突き刺さったことだ。これでは遠くまで逃げるのは難しい。
それでも、キールは足を引きずりながら少しでも歩みを進めようとする。そんな手負いの状態でも容赦なくナイフの雨はキールに降り注ぎ、体を傷付けていく。
そんなキールの耳に届くのは水の音。とにかくその方向に歩みを進めて、やがて森を抜けた。
意識が薄れている。体には何本ものナイフの感触。まるで昔他国で見たサボテンという針だらけの植物にでもなった気分だ。
体の感覚が鈍い。痛みも感じない。あるのは寒いという感触だけだ。
「まずいな……」
血を流し過ぎたようだ。この状態は非常にまずい。
死の足音が身近に感じられる体の状態もそうだが、水の音の正体は崖の底にある川。しかも、背後に土を踏む気配。この状態で大きな反撃はないと踏んだようで、追手が姿を現したようだ。その判断は正しい。
振り返って感情の乏しいキールにしては珍しく笑った。無論、力のない笑みではあったが。
「追手の頭はおまえかよ……」
もう一人の戦友とは違う綺麗な金色の髪をなびかせた少女。もう少し表情を豊かにすれば、男にモテるようになるだろうなと予想させる女だ。
ただし、それは表の世界での話だ。キールたちの世界では美人だろうが、何だろうが関係ない。任務の達成率こそが全てだ。
その手には飾り気のない一振りの細い剣。切るよりも、突くことに特化したものだ。それが彼女――リリーの愛用している武器だ。
リリーは表情を押し殺したまま、真っ直ぐにキールに向けて剣を構える。
「せめて楽に殺してあげる」
三文小説のようなセリフ。静かな口調だが、彼女の声は微妙に震えているように感じた。
「話したこともないような知らない奴なら嫌だけど、おまえに殺されるならまだマシか……」
「なら、武器なんて構えないで大人しく死んで」
そうは言われるが、キールは愛用の剣を逆手に構える。だが、万が一にも勝ち目がないことはわかっている。
背後は崖で下は川。しかも、結構な激流のようだ。この出血で体力も失っている状態で川に入れば、『死』以外には結果はあり得ない。
さらに相手はこの年齢で幹部候補に数えられている凄腕の戦士だ。この怪我では満足に剣を合わせることもできないだろう。それに彼女の背後にはこちらを伺う何人もの刺客の気配。
「裏切り者には死あるのみ。何度もそういう場面には遭遇してきたけど、まさかあなたにこんなことを言うことになるなんてね」
地を蹴ってキールに迫るリリー。
鋭く連続で突き出される剣。意地でそれを何度か止めたが、朦朧とした意識ではそれを防ぎ切るのは無理だった。そのうちの一撃が腹部に刺さった。血を失い鈍くなったはずの神経を走る痛み。次いで口の中に鉄に似た味が広がる。慣れ親しんだ血の味。致命傷だと見るまでもなく理解した。
立っていられなくなり、キールは一歩足を後退させた。「あ」と思った時にはもう遅かった。そこには地面がなく、キールは宙に身を躍らせていた。強烈な浮遊感。意識ももうほとんどない。
そんなキールの耳に微かな声が届いた。
「さよなら。今更だけど、あなたのこと、弟みたいに思ってた」
『銀』の構成員に相応しくない湿った声。それを耳に染み付かせたまま、キールは水面と激突した。
「――っ!」
そこでキールは体を起こした。そこは水の中などではなく、見慣れた自分の部屋だった。
夢なのはとっくの昔にわかっていた。あれは五年ほど前に経験した事実だ。あの出来事の後にキールはイヴ・ハーデルラントに命を救われて、今に至るのである。
『銀』に所属していた頃のことなんて思い出したくもないが、それでも思い出すとすれば、真っ先に出てくる顔の一つに、先ほどの少女の顔がある。
リリー・オーキス。キールにとっては戦友であり、フレッド・シーカーと並んで戦地を共にした仲だ。
あれから五年。『銀』は闇に包まれた組織だ。過酷な任務の中で命を失う人間は決して少なくない。なので、今彼女が生きているのかは知らない。
だが、もしも生きているのなら、今のキールをどう思うのだろうか。
苦楽を共にし、おそらくは彼女が好意を抱いていたフレッドを殺したキールを。




