第五章(6)
辺り一面深い闇だ。上下の感覚すらもなく、自分が天に昇っているのか、それとも下に落ちているのかもわからない。それどころか自分が本当にここにいるのかもわからない。直感的に『食われているんだ』と思った。
それに抗う術もないまま、キールの精神が食い尽くされようとしていた時、何かが聞こえた。
「キール、今の自分を否定しないで」
イヴの声だ。今の自分を否定するなとは言われたが、結局望んだものは何一つ手に入らなかった。偽物の自分。それを演じてきただけで自分の本質は育ってきた『銀』にあるのだろう。もっと格式を重んじる国に行って、真っ当な騎士になるという選択もできたのに、この戦争屋と呼ばれるリルアルドにやってきて、『銀』の時代に培った暗殺術を捨て切れない。暗殺なんて非日常のものに怯え続ける。それらがいい証拠だ。
「どんな生い立ちだったとしてもキールは間違ってない。ここにいることに意味がないなんて思わないで。意味はあるよ。私には感情が見える。フィーネとエリスがあなたに向けてる感情は『感謝』。それはここにいるキールが無意味なんかじゃないって証明なんだよ」
違う。フィーネもエリスも出会えたのはただの偶然だ。
そう思いながらも、キールは何かパキッと小枝が折れたような音を聞いた。それは卵の殻が割れる音にも似ている。
「それは私も同じ。キールが外の世界に引っ張り出してくれたから、私はここにいる。それを間違ってるなんて思わないで。私たちを助けたことを……私たちが助けられたことを間違いだなんて思わないで。それはキールが否定できることじゃないんだから」
そうなのかもしれない。偶然だとしても、彼女たちはキールと出会えたことを間違いと感じてはいない。それはキールが否定できるものではないし、否定していいものでもない。
だとすれば、ここにいることは無意味なんかじゃない。
キールは目を見開いた。真っ黒な空間。そこにひびが走り、光が漏れている。
「――これはそのお礼」
その光景を見つめる――というよりは感じているキールの耳にイヴの声が届く。それはどこか緊張感に彩られているように思えた。
そして、キールの意識は強制的に外に放り出されていた。唇に触れた感触によって。
ぼやけた視界の中で焦点を合わせる。視界に飛び込んできたのはイヴの閉じられた目。ここまで接近して眺めたことはなかったので知らなかったが、どうやらまつ毛は長い方のようだ。
そんなことを考えたのは、この状況を容易には理解できなかったからだろう。
「ん、ん――――――っ!?」
イヴとキスしている。その現実に頭が付いていかない一方で、直接伝わるイヴの体温と唇の柔らかさに驚いてもいた。
短いような長いような時間が流れ、イヴは「ん」と小さく呻いて唇を離す。その深緑の瞳がキールを至近距離から捉えた。その目はわずかに潤んでおり、頬は紅潮していた。
その触れ合っていた唇からはほっと安堵の息が漏れた。
「よかった。一か八かだったけど、元に戻れたみたいだね」
イヴは「えへへ」といつも通りの締まりのない笑みを浮かべる。
その言葉でキールは意識を失う直前、自分がどんな目に遭ったのか思い出し、手のひらを確認する。そこに巻き付いていた黒いツタのような紋様は一切見受けられなかった。
困惑するキールにイヴは言う。
「キール、あなたがいくら自分を否定しても絶対に変わらないものがある。それはフィーネもエリスも、もちろん私もキールが大好きだってことなんだよ。ここにいる自分が間違いかどうか迷った時、そのことを思い出して」
それを聞いて、キールは自分の中にわだかまっていたものが解けるのを確かに感じた。そして、「ははっ」と嬉しそうに笑う。
自分の本質――『銀』の呪縛からは簡単に逃げ出せないのかもしれない。イヴには『今の自分を否定しないで』と言われたが、これから先、そのことで悩むかもしれない。
それでもいいとキールは思った。
悩むかもしれないけど、ここにいる今の自分を支えてくれるものがある。
なら、それは紛れもない『本物』だ。
それに気付けた瞬間、右肩に刻まれた紋章に温かな感触を感じた。紋章を見ると、あの魔人化した青年とは――あるいは先ほどまでとは明らかに違うであろうまばゆい輝きを発していた。
「そっか……。それがお祖父ちゃんの言ってた『墨が魅せられた』って状態……」
イヴは呟く。その意味はよくわからなかったが、本能で理解できたこともある。紋章は今、自分に頭を垂れている。もう紋章が暴走するなんてことはない。
自分の人生はこんなものに食い尽くされるほど安いものではないのだ。
不意にその殺意を感じ取り、キールはイヴを抱え上げた。
「キール――――っ!!」
長剣を持ったフレッドがキールに斬りかかってきた。キールはイヴを連れてその場から紋章術で自分の剣が落ちている場所に移動した。
イヴを下ろし、二本の剣を拾い上げる。それを逆手に構えながら、キールは「離れてろ」とイヴに告げた。視線の先には長剣を構えて走ってくるフレッドの姿がある。
キールはそれを迎え撃ち、剣を合わせる。相変わらずその太刀筋は鋭いが、違和感がある。冷静さに欠けている。感情任せに振るわれているので、次の太刀筋が読め、防御はそれほど難しくない。
激しく切り結ぶ中、フレッドは激情に任せて叫ぶ。
「おまえ、逃げるつもりか!? 自分の本質から! 自分の運命から! 許されるわけがない! おまえだけが居場所を見つけられるなんてっ!!」
「そういうことか、フレッド……」
キールはようやく戦友のことを理解した。キールの考えが正しいと証明するように服の隙間から覗くフレッドの首筋や肩が黒く彩られつつある。紋章による浸食が始まったようだ。きっかけはキールがここにいる自分を肯定したことだと思われる。
つまり、フレッドは嫉妬しているのだ。『銀』ではない居場所を見つけたキール――自分と同じ生き方をしてきたはずの存在に。
紋章に浸食される感触は想像を絶する。心が冒されているのだからそれも当然だ。その浸食の影響もあり、フレッドの太刀筋がさらに乱れる。キールはその隙に間合いの外に紋章術で移動する。
紋章の暴走による影響か、フレッドは一度苦痛に顔を歪ませたが、すぐに憎悪に塗れた視線をキールに向けた。底知れない憤怒で精神を支え、暴走を抑え込んでいる。
キールはその怒りを真っ直ぐに受け止めながら、それに答える。
「おまえも『銀』を抜けたかったんだな」
キールとフレッドが似ているのは境遇だけではない。願望までもが同じだった。闇の中に生きながらフレッドもまた、まともな世界で生きたいと願っていた。
フレッドが再度顔を憎悪に歪めると、キールに襲いかかってくる。紋章の浸食による不快感は並大抵のものではない。しかし、今のフレッドはキールに対する憎しみがあらゆる苦痛を凌駕しており、その速度は少しも緩められていない。
だが、キールは慌てたりしない。今のキールは先ほどまでとは違う。イヴが言うように『墨が魅せられた』ためなのか、今までできなかったことができると本能で確信していた。
左手に持った剣をフレッドに投げる。空気を切り裂いて進む剣だが、フレッドの前ではそんなものは弾かれるだけで意味はない。いたずらに貴重な武器を減らしただけ。
しかし、フレッドがその攻撃を防ぐために振った長剣は意外にも空を切った。フレッドが目測を誤ったわけではない。その剣が唐突に消失したのだ。
驚くフレッドの左足を背後から突如として現れた剣が貫いた。キールが投げた剣だ。
これがキールの新しく得た紋章術。自分だけではなく、自分が触ったものまでも移動させられる特性である。
「――ぐっ!?」
予期せぬ攻撃にフレッドはバランスを崩しかける。しかし、すでに憎悪の念が痛みを凌駕しているのか、それとも紋章に飲み込まれつつあることで痛みが麻痺しているのか、フレッドは倒れ込まずに斬りかかってきたキールの剣を長剣で受け止めた。
刀身の長さの異なる剣がぶつかり合う。キールの小回りの利く剣を活かした連続攻撃に防戦を余儀なくされるフレッドだが、決して負けてはいない。その合間に鋭い攻撃を差し込んでくる。一瞬の判断ミスが命取りの攻防だ。
年齢が違うのでフレッドが一歩前を行く形ではあるが、あまりにも境遇が似過ぎた二人。だからこそ、キールにはわかる。
「俺の紋章術は『逃避』という願いが具現化したものだっておまえは言ったな。今度は俺がおまえの紋章術の正体を言い当ててやる。おまえの紋章術は『束縛』だ。自分は『銀』から逃げられないという心が具現化したものが、おまえの紋章術だ」
それを肯定するようにキールの背後で鉄の擦れる音が聞こえた。キールは一歩足を前に踏み出して紋章術でイヴの隣に移動した。
「……そうだ、キール。それが俺の本質だ」
フレッドはゆっくりと振り返りながらキールを睨む。『ここでしか生きられない』というフレッドの呪いにも似た信念。それだけを信じてフレッドは自分自身を封じ込めてきた。
クロムガルドの汚れ役――『銀』。進んでその『銀』に入りたがる奇特な人間など滅多にいない。キールやフレッドのように捨てられた人間を拾ったり、孤児を人買いから購入したり、あまり表沙汰にはできない方法で構成員は集められる。
そんなクロムガルドの暗部部隊。そこから抜け出して普通の暮らしに戻ったりなんかできない。辞めることすらも困難だ。そんなことを企てれば殺されてしまう。キールも実際に致命傷を負わされている。ここにいられるのは奇跡に等しい。
だから、フレッドはまともな世界に行くことを諦めてしまった。この闇の中から逃れられないと決め付けてしまった。運命という『鎖』で自分を束縛したのである。
「だけどな、フレッド。そんなものは俺に言わせてもらえばただの言い訳だ。そんな『鎖』に縛られてると思い込んで、『一歩』を踏み出さなかったおまえはただの負け犬なんだ」
頬の辺りまで紋章に浸食されてしまったフレッドにキールは言葉の刃を突き刺す。鋭い瞳でフレッドは睨んでくるが、キールは怯んだりしない。
「確かに俺とおまえは似た者同士だ。けど、選んだ道は決定的に違う。おまえはその場に留まることを選び、俺は一歩足を踏み出すことを選んだ。俺を羨ましがるんなら、おまえも足を進ませるべきだったんだ」
それがキールとフレッドの差。その差が片方の紋章を輝かせ、片方の紋章を暴走させた。
その言葉を聞いて、信じ込んできたものが瓦解したのか、フレッドの皮膚が全て黒に染まった。『銀』という運命に依存していたのだから、どのみち救う術はなかったとはいえ、かつての戦友だ。その姿が哀れに思えた。
決着は付けなければならない。キールは空いている左手でイヴの背負っている矢筒から一本矢を取り出した。それをイヴに手渡す。
「一回だけでいい。援護を頼む」
「任せて」
イヴは頷き、その矢を紋章に飲み込まれたフレッドに向けた。
理性を失くした赤い目がキールとイヴを捉える。見えもしないのに、その背中からは不気味な波動を感じる。あそこに紋章が彫られているのだろう。
長年の癖なのか、それとも捨て切れない執念なのか。フレッドは紋章を暴走させながらも、長剣を握り締めて二人に駆けてきた。キールはそれに合わせて走り出す。
身を低くして走るキールをイヴが放った矢が追い越した。理性は働かないので、おそらくは本能だと思われる。フレッドは長剣でそれを払おうとしたが、それはキールが触れたものだ。
キールは紋章術を発現させ、フレッドの背後に矢を出現させる。その矢はフレッドの背中に突き刺さった。
左足に剣が刺さったまま走っていることから考えても、痛覚が完全に麻痺しているのは予想していた。それでも、刺さった衝撃からか一瞬だけ体が硬直する。
それを見逃さずにキールは紋章術でフレッドとの距離を潰す。同時に二人が剣を振るい、キールはそのままの勢いでフレッドの背後まで駆け抜けた。
佇む二人。キールは振り返ろうとしないし、フレッドも動こうとしない。たった一瞬の交差。それで決着は付いていた。
今際の際に意識を取り戻したのか、フレッドの舌打ちが聞こえてきた。
「ちっ……。完膚なきまでに俺の負けだな……。おまえの言ったとおりだ。絶望して歩みを止めた人間と、希望を求めて一歩を踏み出した人間。これがその差か……」
キールの手には先ほどまで握っていた剣がない。その剣は今、刀身の半ばほどまでフレッドの胸に埋め込まれていた。その致命傷を受けたフレッドは力なく笑う。
「だけどな、やっぱり信頼できる仲間たちに囲まれてるその『まともな世界』ってのは、おまえには不釣り合いだと思うぞ。おまえは俺と同じ闇の中の存在だ。その『銀』としての本質にどこまで抗えたのか、いつか聞かせて、くれ……」
妬みのような、あるいは呪いにも似た言葉を言い残し、フレッドの体が腐葉土の上に倒れ込む音をキールは聞いた。見るまでもなく彼は死んだのだと、キールは確信していた。
戦友だった人間が死んだというのに、喪失感のようなものはない。それはフレッドの言った言葉が正しかったことの証明なのかもしれないが、答えなんてわかりはしないとキールは自分に言い聞かせた。
それにそれ以上考えるだけの余裕もなかった。
キールは全身の力が抜けて膝から崩れ落ちる。次いでとんでもない疲労感が津波のように押し寄せてきた。イヴが自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきたが、それに反応する間もなく、その濁流の中にキールの意識は飲み込まれてしまった。




