第五章(4)
エリスの持って生まれた紋章の特性は『見える』ことだ。エリスの左目には右目とは違った形で景色が映る。
例えばキールの紋章。彼の特性は『移動』だ。昨日知ったのだが、キールは一級の紋章師で二級以下の紋章師のように予備動作を必要とせずに紋章術を使用できる。だが、エリスの目を持ってすれば彼がどこで消え、どこから現れるのか見抜ける。
キールの紋章術は例えるならトンネルだ。入り口と出口が設定され、入り口から入り、出口から出る。移動距離はゼロで、どこから現れるかわからない。強力無比な紋章術だ。
しかし、エリスの目にはその出入り口がはっきりと見ることができる。コアが紋章によって変化させられた部分だけ、違う色に見えるのだ。キールのような一級の紋章師が相手でもエリスのその優位性は揺らぐことはない。
とはいえ、その絶対的な目だけで入学を許されるほどリルアルドの騎士学校は甘い場所ではない。まったく戦えないでは話にならない。
キールに連れ出してもらい、このリルアルドにやって来た日からエリスはアインから戦う術を教わった。ろくに喧嘩もしたことがない村娘のエリスにアインが叩き込んだのは、意外にも格闘術だった。血反吐が出るほど繰り返されたアインの修行のおかげで、どうにかエリスは騎士学校に入ることができた。理由の半分以上がその左目が要因であり、それでも補欠合格ではあったのだけれども。
そのエリスは巨大な木が乱立する森の開けた場所で敵と対峙していた。
「えー。マジで僕の相手はあんたなわけ? 正直、一番まずそうな相手なんだけど」
キールと同じく小回りの利く小振りな剣を持った年下の少年は、明らかに落胆した表情を見せた。どうやらこのエリスよりも年下の少年はアインに近しいようで、戦いに快楽を求める人種のようだ。
だとすれば、エリスでは彼を楽しませることはできない。実力も場数もまだまだ足りない。それをエリスは自覚している。
ただし、昨日とは違い、今日のエリスは最初から戦うつもりでこの場にいる。左手をわずかに前に出す形で構えるエリス。その両腕は鉄の籠手に覆われていた。打撃の威力を底上げするだけでなく、防御にも使えるエリスの武器。
「僕を楽しませる気がないなら、さっさと死んじゃってよ。他の人を探しに行くからさ」
少年が動いた。瞬きすらも許されないほどの短い時間。その間に何度か金属音が鳴り響く。エリスの手甲と少年の剣がぶつかり合った音だ。
「……へえ」
少年がエリスから一旦離れて口元を曲げた。
同じ場所で訓練を受けて似たような武器を使うのである程度予測はしていたが、やはりキールと似たような戦法を取るようだ。型らしきものはなく、縦横無尽に剣を振るう。その速度は凄まじいが、見切れないほどではない。
アインが体捌きと共に鍛え上げたのはエリスの動体視力だった。エリスには戦闘の才能が微塵もなかった。しかし、唯一アインが光明を見出したのが、その動体視力だった。元々から目はいい方だ。普段は左目を隠しているので、そんな部分はほとんど見せられないが。
その動体視力をさらに鍛えてもらった結果、エリスは相手の攻撃を見切り、籠手で防御する術を身に付けた。そして、攻撃を叩き込む。それが騎士学校に入るまでの間、血反吐が出るほど繰り返し、今も鍛え続けているエリスの基本的な戦法だ。
「あははっ。ごめんごめん。戦闘向きって雰囲気でもないから侮ってたけど、お姉さんも騎士学校の生徒だもんね。僕を楽しませてくれるに決まってるよね」
少年は笑う。その笑みは新しいおもちゃでも買ってもらえたかのような年相応の子供らしいもので、エリスにはかえってそれが恐ろしく感じられた。
そんなエリスに聞き慣れた声がかけられる。
「エリス、気後れしない。あんたには頼りになるお姉さまが付いてるんだから」
いつもと違う槍を持ったフィーネが現れた。
不敵な笑みとは裏腹にその顔色が悪く見えるのは気のせいではない。鎮痛剤を打ってもらってはいるが、本来ならば彼女は戦える状態ではない。そのため、いつもは実戦経験が乏しいのでサポート役に徹するエリスが、今回は主戦力に回らなければならなかった。
その緊張が伝わったのか、フィーネは槍を構えながら安心させるような口調で言った。
「教官の言ったことなんて気にしなくていいから。あんたは私が守ってあげる」
そのフィーネの言葉に安堵し、そんな自分にエリスは嫌悪感を抱いた。騎士学校の生徒になったのにいつだって守ってもらってばかりだ。そんな弱い自分がエリスは前々から嫌いだった。
そんな苦虫を噛み潰したかのような心境にいるエリスの耳に少年の嬉しそうな声が響いた。
「あはは。昨日のお姉さんも僕と遊んでくれるんだね。てっきり銀髪のお兄さんとフレッドの相手をするんだと思ってたけど嬉しい誤算だ。――けど、いいの? フレッドの相手をあのお兄さん一人に任せちゃって。あの人、死んじゃうよ?」
その宣告にエリスは体を硬くする。あのフレッドという青年が桁外れの強さなのは昨日の時点で理解している。何しろキールでさえも手も足も出ない相手だ。
それを言葉で聞かされるとその光景に現実味が増す。エリスにとって誰かがこの場からいなくなるというのは恐怖以外の何物でもない。体が震え出しそうになるのをフィーネが止める。
「はっ。あの馬鹿が簡単にくたばるわけないでしょ。それよりもこっちに集中した方がいいわよ。ガキのくせに他に色目使ってると、あんたの方が死ぬから」
フィーネは少年にそう返して槍を握り直す。エリスもそれに呼応して拳を構えた。
「心地いい殺気だ。それじゃあ始めようかっ!」
少年は剣をエリスに向かって投げ付けた。エリスの喉めがけて飛んでくるその剣を左の籠手で防ぐと、少年がフィーネに突進する姿が映った。
フィーネは本調子ではない。エリスはすぐにフィーネの援護に回ろうとし、彼の左手の指の先から何かが伸びていることに気付いた。
糸だ。無論、普通の糸ではないことがエリスの左目が証明している。あれは紋章によって作られたものだ。それが伸びる先はエリスの斜め前方――先ほど弾き飛ばした剣の柄に結び付いている。
それを認識すると同時に、その剣の切っ先が再びエリスの方を向いて襲いかかってきた。
「――っ!?」
エリスはそれをもう一度籠手で止めると、少年に目を戻す。その指先から伸びる紋章術の糸は一本ではない。剣に結び付いている人差し指の他に、中指からも糸が伸びている。
その糸が辿り着いた先はフィーネの背後の地面。いや、そこに落ちている拳ほどの大きさの石だ。それがゆっくりとフィーネの背後で持ち上がった。それに気付く余裕もないまま、フィーネは少年の剣を槍の柄で受け止めた。
浮遊する石が何をしようとしているのか、エリスはすぐに悟る。警告なんて間に合わない。それにあの少年の戦闘能力は下手な騎士学校の卒業生よりも高い。背後からの攻撃に手が回るような状況ではない。それどころかエリスが警告を発すれば、彼女の集中力が切れてしまう可能性もある。そうなれば、フィーネは殺されてしまう。
止められるのは自分しかいない。エリスは無意識のうちに駆け出していた。
キールほどではないにしても、俊敏性には多少自信がある。腕力はあまりなく威力を少しでも上げる意味もあり、エリスは俊敏性も鍛え上げている。未だ発展途上ではあるが、速度だけは武器を持たない分、フィーネたちよりも速く動ける。
その速度を持って、フィーネと少年が互いの武器を交える場所を駆け抜ける。フィーネが「エリス!?」と困惑した声を上げたが、それに答えている余裕はなかった。フィーネの背後にはあの石が迫っている。
それを渾身の力で叩き割り、エリスは横に回り込んでフィーネと少年の戦いに割って入る。細かく回転率の高い左拳を何度か繰り出して、フィーネと少年を引きはがすことに成功した。
少年は後ろに跳んで二人との間に距離を作る。フィーネはエリスの横に並んで口を開く。
「ありがと。助かったわ。で、エリス、あいつの紋章術の正体って見えた?」
「ええ。左手の指から糸状に伸ばしたコアが見えてます。あれを結び付けたものを操る特性があるんでしょうね。それぞれの指から一本ずつ。ですから、操れるのは五つが限度だと思われます。予備動作はたぶん左手の指の動きでしょうね」
「おおっ。マジで? 僕の紋章の特性上、物を操るっていうのはすぐに見抜かれるけど、まさかコアを糸にしてることまで気付かれるとは思わなかった。しかも、操れる数まで。ははっ。びっくりしたー」
純粋な驚きはあったものの、紋章術の特性が見抜かれたことに対する焦りのようなものは、少年の表情には一切現れなかった。目が輝いており、むしろどこか楽しそうにすら思える。
「万物はコアの影響を受けている」
少年が呟いた。それはあるコアの研究者の著書に記された一節。あまり本など読まない人間でも大勢が知っているほど有名なものだ。
「考えてみれば当たり前だよね。コアはあらゆる場所に充満している。その中に入ってて影響を受けないなんてことはありえない。僕らは息までしてるんだからさ」
その通りだ。このエリスたちを取り囲む巨大な木々もコアが何らかの影響を及ぼして成長したとされている。呼吸をする人間も少なからずコアを吸い込んでいるのは間違いない。それがあるからこそ、エリスの左目もコアの影響だと仮説が立てられたりしているのだろう。
少年は左手の人差し指を動かした。それに呼応して、エリスに投げ付けた剣が少年の周囲を浮遊する。
「僕の紋章の特性はね、そのコアに干渉して操ることができるんだ。さっきお姉さんが言ったみたいに五個までしか操れなかったり、重過ぎると持ち上げられなかったりと制限も多いんだけどね。あ、あと意思を持ったりするのは操れない」
「なるほどね。だから、死体は操れたわけね。それにしてもずいぶんと気前がいいじゃない。そんな風に弱点をベラベラと喋っちゃってさ」
「別に僕の紋章については守秘義務はないからね。でも、せっかくの命のやり取り。それなりに緊張感がなければ面白くないでしょ」
その感覚はもはや狂気に近い。『銀』という環境は人をそれほどまでに歪ませるようだ。
エリスは少年に感じる恐怖を断ち切って拳を構える。その時に気付いた。横に並ぶフィーネの顔色が悪いことに。息も多少荒い。体力自慢のフィーネがあれだけの戦闘で疲れるとは考えにくい。その原因は明らかだった。
「フィーネさん、怪我の具合はどうですか?」
エリスは小声で、また少年に唇を読まれないようにしてフィーネに訊ねた。フィーネも同じように会話の内容を知られないように注意しながら硬い声で答える。
「大丈夫――って言いたいところだけど、正直厳しい。鎮痛剤が効いてるおかげで痛みは感じないけど、他の感覚まで麻痺してるからね。反応がどうしても遅れる」
それを裏付けるようにフィーネの服には短い攻防であったにもかかわらず、いくつもの切り傷が刻まれていた。その下の皮膚も斬られているので服に血が滲んでいる箇所もあるが、幸い致命傷になりそうなほど大きなものはないようだ。今のところは。
気遣う言葉でもかけるべきかと迷っていると、その開きかけたエリスの口を少年の殺気がつぐませた。見るとその頭上には剣だけではなく、投擲用と思われる鉛筆のような矢が三本浮かんでいる。彼の紋章術で操られているのがエリスには一目でわかった。
「作戦会議は終わった? そろそろ我慢の限界なんだよ。焦らされた分、楽しませてよねっ!!」
少年は二人に向かって駆け出した。それに呼応してフィーネ、ほんの一瞬の差ではあったがそれに続く形でエリスが足を前に踏み出させた。
先に少年の右手に持った剣とフィーネの槍がぶつかる。その刹那、少年の左手の指が動く。
「あはっ!!」
少年は右手の剣を二度三度と槍にぶつけながら、鉛筆状の矢をフィーネの頭上から飛ばす。
「フィーネさん、背中を借ります!」
エリスは断りを入れてから返事も待たずにフィーネの背中に土足で飛び乗る。そして、そのフィーネの背中を足場にしてもう一段跳躍すると、降ってくる矢を籠手で弾き飛ばした。そのまま体勢を変えて空中から少年に流星のように襲いかかろうとする。
そのエリスはフィーネの方を見ている少年の口が緩んだのを見逃さなかった。左手の人差し指が動く。そこから伸びる糸の先はエリスの真横。目の端で鋭い切っ先を携えた少年の剣が飛んできているのを捉えた。
エリスは血の気が引いた。空中では身動きが取れない。籠手で防ぐことはまだ可能だが、着地地点は二人の間だ。攻撃もできずに不用意に着地をすれば、少年はその隙を逃さずにエリスを切り刻むだろう。
間近に迫る死神の気配にエリスは冷たい汗を流す。その汗ごと吹き飛ばすような風がエリスの下から吹き上げた。フィーネが紋章術を使って小柄なエリスの体を押し戻す。それによってエリスはどうにか剣を回避できた。
だが、その代償は大きかった。
「ぐぅ……っ!!」
フィーネの呻き声が聞こえてきた。眼下に目をやると、フィーネの太ももに少年の剣が突き立てられている。
それを見た瞬間、エリスの頭が一気に冴え渡った。風のおかげで少し離れた場所に着地したエリスは少年の下に駆け寄る。少年はフィーネの太ももに突き刺した剣の柄から手を離し、紋章術で先ほどエリスを攻撃したもう一本の剣を手繰り寄せて右手で掴んだ。
矢のような速度で迫るエリスに少年は右手の剣を突き出した。素早い一撃だが、エリスは戸惑わずに左足で地面を強く踏み締める。それを軸にして体を半回転させて剣の切っ先を避け、その勢いを利用して少年の脇腹に肘打ちを食らわせようとする。
「うお……っとぉ」
少年は軽やかに跳び上がり、後退しながら紋章術で操っている矢をエリスに向かって飛ばしてきた。その矢を迎撃しようとするエリスだが、行動を起こす前に突風が吹き荒れた。激しい逆風が矢の進行を阻み、その奥にいる少年の小柄な体まで森の奥へと押しやる。エリスの傍らに立つフィーネの紋章術による風だ。
エリスは一旦息を吐き出した。退かせはしたが、あくまでも一時的なもの。すぐに戻ってくるのは間違いない。気を抜く暇なんてあるはずもない。
それでも、エリスはフィーネに肩を貸して近くの木の幹まで移動させた。木の幹が太いおかげで、二人分の体を隠すことができた。すぐに見つかるだろうが、気休めぐらいにはなる。
フィーネの怪我の具合を確認し、エリスは思わず顔を引きつらせた。剣が太ももを貫いており、そこから夥しい量の血が流れ出し服を汚している。
「……抜かない方がいいわね」
フィーネは額に脂汗を滲ませながら言った。この大した医療器具もない状況では抜いたところで、いたずらに出血を増やすだけだ。確かに抜くべきではない。
「さて、どうしたものか……」
フィーネは槍を杖代わりにしながら呟いた。脇腹の怪我に加えてこの怪我。絶体絶命と言っても過言ではない。
それでも対策を練ろうとするエリスにフィーネがやけに落ち着き払った声で言った。
「ま、こうなったら仕方ないか。エリス、あんたは教官と合流しなさい。あの人が負けるってことはあり得ないと思うから」
「ちょ、ちょっと待って下さい。フィーネさんはどうするつもりなんですか?」
「あのガキを止める役が必要でしょ? こんな体たらくでも時間は稼げるわよ」
騎士学校の生徒なので、常に死は隣り合わせだ。覚悟は当然のようにあるので、見せかけだとしてもフィーネは冷静に告げる。むしろ、動揺を露わにしたのはエリスの方だった。
「そんなことしたら、フィーネさんが……っ!」
「死ぬでしょうね。だけど、あんた一人であのガキとタイマン張らせるわけにはいかないでしょ? はっきり言うけど、あいつとあんたじゃ実戦経験に差があり過ぎる。勝ち目なんて万に一つぐらいしかないわよ。――っと、別れを惜しむ時間も与えちゃくれないみたいね」
エリスも気付いている。隠す気もないらしい獣染みた殺気がこちらに戻ってくる。
怖いとエリスは思った。エリスは自分が臆病だと誰よりもよく知っている。だから、騎士には向いていない。戦うのは怖いし、誰かに敵意を向けられるのは慣れそうにない。
だが、今抱いている恐怖心は明らかにいつも感じるそれらとは違った。
エリスは思い知らされた。この世にはそんなものよりももっと恐ろしいものがあるのだと。
その恐怖心に突き動かされるようにしてエリスは身を隠していた木の幹から出て行った。
「ちょっ……! エリスっ!?」
逃げる様子のない妹分の姿にフィーネは声をかける。それには答えずにエリスは正面を睨んだ。そこには右手に剣を持った少年の姿。
怖い。あの少年の殺意も、フィーネのエリスの行動をとがめるような声も怖い。
エリスは気を抜けば震え出しそうな足で地面に立ち、拳を構える。逃げるつもりがないことを悟ったフィーネがその肩を掴んだ。
「あんた、正気? あいつとまともにやり合ったら十中八九死ぬわよ。怖いんでしょ? 肩、震えてるわよ」
「はい、怖いです。だけど、戦うことが怖いんじゃありません。フィーネさんが私の前からいなくなることが怖いんです」
ここで逃げることを選択すれば、間違いなくそうなる。
それは嫌だ。ここはエリスがようやく手に入れた居場所なのだ。それを壊されたくない。
ならば、どうするべきなのか。答えは決まっている。
――壊されたくないのなら守るしかない。
これが覚悟というものなのだろう。そう決意すると震えは止まった。
そんなエリスの姿を見て、フィーネは怒るかもしれないと思ったが、意外にも笑った。
「ったく、妹分の反抗期が生死がかかったこんな時だとはね。けど、そこまで言ったからには引く気はないんでしょ?」
「はい。ごめんなさい」
「わかった。この状態じゃまともな援護なんてできないでしょうけど、できるだけのことはしてあげる。その代わり負けるなんて許さないからね」
「――はいっ!」
エリスはその言葉に後押しされて駆け出した。少年も手負いのフィーネよりもまずは近付いてくるエリスを倒すべきと判断したようで、にやりと口元を曲げて投擲用の矢を投げてきた。
いい加減、その攻撃にも慣れてきた頃合いだ。ほとんど速度を落とすことなく、エリスはその一本目を避けた。しかし、それは牽制。避けられるのを前提とした攻撃だ。もう一本の矢がエリスの死角から迫っている。
だが、エリスの左目にはそれを操る糸がはっきりと見える。それも体を捻って避けると、木の幹に矢が突き刺さった。体を回転させたため、一瞬だけエリスの視界から少年の姿が外れる。
その刹那、少年はエリスが予想していなかった行動に出た。右手に持っていた剣を投げてきたのである。彼にとってはエリスを迎撃するために必要だったはずの武器。それが投げられるとは思っていなかったので、エリスは思わず足を止める。
「――つぅっ!!」
横に跳んでそれをかわすが、完璧には避け切れずに首の辺りに痛みが走った。掠めたようだが、幸いにも頸動脈は切れていない。少しばかり血が流れた程度だ。ならば、このまま駆け抜ける。
あとほんの少しの距離というところで、エリスの左目はターゲットの指からエリスの背後に糸が伸びていることに気付いた。それが伸びる先はエリスの斜め後ろ。先ほど投げた剣しかあり得ない。
エリスは背後を一瞥する。やはりエリスに向かって剣が飛んできている。しかも、最悪なのはあちらの方が微妙に早いということ。このままではエリスが少年に攻撃を当てるよりも先に剣が突き刺さってしまう。
かと言って立ち止まるわけにもいかない。その剣のさらに後ろ、最初に放たれた牽制の矢の先端がエリスに向けられているのだ。遠距離攻撃ができないエリスがこの離れた距離で防戦を演じれば間違いなく殺される。
「そのまま走りなさいっ!!」
フィーネの声がエリスの逡巡を断ち切った。目の端でフィーネが左手をかざしているのを捉えた。いつの間にか彼女がエリスの背後に移動して左手を掲げている。おそらくは足が痛むのを我慢して前転でもしたのだろう。髪に落ち葉が絡まっている。
エリスはフィーネの声に従って前を向く。それと同時にエリスの腰の辺りを何かが押した。その正体はフィーネの風。それをエリスにだけ当てるためにフィーネは移動したのだ。
それによって少年との距離が一気に縮まった。
少年の顔に初めて緊張が走る。予想外の加速で少年は面食らったようだが、それでも積み重ねてきた戦闘経験というものは嘘を吐かない。少年は予備と思われるナイフを紋章術で操り、右手でそれを掴む。それを目にも止まらぬ早業でエリスの前に突き出した。
その攻撃を避けれたのはほとんどは運だ。少年の眼前にまで迫ったエリスが体を回転させようとしたためにそのナイフを避けれただけ。しかし、この機会を逃すわけがない。エリスはその伸ばされた少年の右手を掴んだ。そして、引っ張る。
体を半回転させる。エリスの攻撃が先ほどは不発に終わったものだと少年も理解したのかもしれないが、今度は腕を掴まれているので逃げられない。
左腕で防御を試みようとしているようだが、それが間に合わないことも計算済みだ。少年が左腕をほとんど使わない理由。それは彼の紋章術が原因ではない。
あの黒い化け物となった爆破の紋章を持つ青年。フィーネも脇腹を痛めたあの一撃を、この少年も武器越しとはいえ受けている。その後遺症がこの左腕だ。痛みで動きがわずかに鈍くなっているとエリスは推測していた。そして、その推測は正しかったらしい。
遠心力を上乗せした見事な一撃。エリスが装備している籠手で攻撃していれば更なる威力も期待できたが、これでも充分なダメージは与えられた。
「がはっ!!」
骨が折れる嫌な感触がエリスの肘を突き抜けると同時に、少年の口から霧状の血が飛び散った。次いで白目をむく少年。脇腹に突き刺さった肘を外し、掴んでいた手をエリスが離すと、少年は仰向けに倒れた。
エリスの背後でガシャンと音がし、そちらに目を向けると少年が操っていた剣や矢が腐葉土の上に落ちていた。それらも少年も動かない。どうやら完全に意識を断ち切れたようだ。
「はぁ……」
息を吐き出す。それで緊張が解けたのか、今になって足が震え出し、エリスはその場に尻もちをついた。息を整えていると、フィーネが槍を杖代わりにして近付いてきた。
「お疲れ様。あんたの成長をこんな間近で見られるとは思わなかったわ。姉貴分としては嬉しい限りね」
「あはは。そのセリフ、なんだか凄く年寄り臭く聞こえますね」
エリスがそう言うと、「生意気」と槍の柄で頭を軽く小突かれた。それで自分はこのかけがえのないものを守れたのだと実感する。
だが、まだ完全に守れたわけではない。フィーネも同じように感じているようで、まだ続いているであろう戦いの方角を見つめる。
「援護に行きたいところだけどね……」
フィーネは呟いて自分の足に視線を落とした。まだ剣が突き刺さったままで血でぐっしょりと濡れている足。
「とにかく救護班と合流しましょう。この辺りに待機しているはずですから」
エリスはどうにか立ち上がり、フィーネに肩を貸す。
まだ終わっていない戦い。この守るべき居場所を与えてくれた恩人が戦っている方向をエリスは微かに見た。言いようない不安はあったが、エリスは心のどこかで確信もしていた。彼ならばきっと負けることはない。




