第五章(3)
ソフィアにとってアイン・フォルセティは憧れの存在だった。紋章術なしで『赤』の騎士団長にまで上り詰めた女傑。紋章を使わない単純な戦闘ならば、十二の騎士団長の中でも最強だと思われる。
昔と変わらない振るいたいように振るわれる彼女の剣。まさに疾風怒濤。あらゆる方向からアインの剣がソフィアに迫る。
だが、ソフィアだってこの五年、漫然と過ごしてきたわけではない。その三分の一は右手の剣で防ぎ、三分の一は左手に作り上げた氷の刃で防御する。残りは体捌きで何とか凌ぐが、服が斬られ、いくつかの切り傷がソフィアの体に刻まれた。
ソフィアは息を吐き出して、細かい氷の刃をアインの頭の上に作り出すと、それを雨のように降らせる。それが剣で砕かれる間にソフィアはアインから距離を取った。
「さすがですね。『血風』の技量は未だに健在というわけですか」
「当然。『赤』は辞めたけど、せっかくの才能を錆びつかせるはずないでしょ。あんたみたいな小娘に遅れは取らないわよ」
アインは不敵に笑い、右手に持った剣の切っ先を下げた。
彼女の剣は完全に我流だ。ソフィアはアインに戦い方を教えてもらっていた時期もあるが、あの自由奔放過ぎる剣は真似しようと思っても真似できなかった。
相手は今でも伝説と名高い『血風』。ソフィアではどうあがいてもアインに勝てない。しかし、それは剣での話。彼女よりも勝っている部分がソフィアにはある。
ソフィアは息を吐き出して、紋章術を発現させる。変換されたコアが空気中の水分に付着し氷の細剣を作り上げる。その姿を見て、アインは嘲笑する。
「なりふり構わず殺しに来たってわけ? 昔は何が何でも剣であたしを打ち負かそうとしてたくせに。そういう真っ直ぐなところ、結構好きだったのよ」
「もう五年も前の話でしょう。昨日も言いましたが、あの頃とは立場が違うんですよ。今の私は『赤』ではなく、『銀』の一員です。『銀』では冷徹に任務を遂行することだけが求められる」
ソフィアの紋章術は氷ができた瞬間ならばある程度操れる。ソフィアはその細剣をアインに向かって飛ばした。
高速で飛ぶ氷の剣。アインは先頭の一本を斬り伏せる。ソフィアは彼女の性格を熟知している。てっきり粉々に砕くと思ったのだが、意外にもその太刀筋は柔らかく繊細なものだった。
――いや、違う。あれは飛んでくる剣を迎撃したわけではない。剣の速度を殺したのだ。
その氷でできた剣の柄を握り、アインは自前の剣と合わせて振り、飛来する他の氷の剣を全て叩き落としていく。氷の剣の強度は同じなのでまともにぶつければ折れるのだが、そんな様子はない。おそらく角度を微妙に変えて折れないようにしているのだろう。
相変わらず状況判断能力が高い。そして、頭の中で思い描いた対応を瞬時に実現できる身体能力。ソフィアが憧れたその姿は変わっていない。
一度ソフィアは歯を噛み締めると、息を吐き出す。氷の剣を迎撃するアインの頭上に一際大きな氷の塊を用意する。あれだけの大きさならば、弾くことはできないだろう。
氷の細剣を射出し続け、ソフィアは氷の塊をアインの頭上に落下させようとする。それを見透かしたのか、アインは左手に持っていた氷の剣をソフィアに投げ付ける。ソフィアは自前の剣でそれを弾くが、そのわずかな隙にアインは後方に下がり氷の塊の落下範囲から逃れる。
アインが逃れてしまったのでせっかく作り上げた氷の塊に意味はなくなってしまった。とはいえ作った以上、重力に逆らうことはできずに氷の塊は地面に落下した。大きな地響きと土煙が巻き起こる。
その土煙で一瞬だけアインの姿がソフィアの視界から消えた。その隙にアインはソフィアに死角から接近し、剣を薙ぐように振った。鋭い一撃だったが、ソフィアは何とかそれを自分の本物の剣で受け止める。
「これだけ接近すれば、あの鬱陶しい氷は出せないわね。それとも、あんたの紋章術はあたしだけを射抜けるほど精密な射撃ができるのかしら?」
その答えは否だ。先ほどの攻撃は矢のような正確なものではない。その証拠にアインの周りにも氷の剣は刺さっていた。もっとも、それは氷塊によって押し潰されてしまったが。
「……もう見抜かれるとは思いませんでした」
「昨日も同じ攻撃を見せたでしょ。気付かない方がどうかしてるわ」
剣を交えたまま、アインは唇を曲げた。
ここで決めるつもりのようで、剣の圧力と共に新兵ならば、触れただけで戦意を喪失して失禁してしまいそうなほどの殺気をソフィアにぶつけてきた。
ソフィアは表情一つ崩さずに、その剣の圧力に対抗する。鉄の軋む音が奏でられる。
その刃を見て、ソフィアは呟いた。
「その剣、安物ですね」
アインのことだから、その辺の武器屋で適当に仕入れた一品だろう。新米騎士が初任給で買うようなもの。手入れはされているようだが、アインの腕には不釣り合いな剣だ。
ソフィアは奥歯を噛み締めると同時に剣に込める力を強めた。
「……なぜですか?」
「何がよ?」
「なぜ、あのまま『赤』に留まらなかったのですか? あなたなら富も名声も腐らせることはなかったはずだ。それにこんな安物を使わずとも、魔剣が与えられていたでしょう……!」
コアに干渉し、紋章術と同じく様々な現象を起こせる剣が世界には存在している。それは魔剣と呼ばれ、非常に希少な代物である。
クロムガルド帝国の『赤』の騎士団長には代々王よりその剣が授けられる。あの魔剣はアインがクロムガルドの騎士を辞める際に王に返還されたと聞いている。アインが魔剣に執着していないことも知っていたし、騎士を辞めるのならば王に返すのは当然だと頭ではわかっているのだが、ソフィアはどうしても納得できなかった。
「一度手にしたものを全て捨てて……! あなたは一体何がしたいのですか……っ!?」
ソフィアは『銀』から与えられた任務を果たす際、あらゆる感情を排除する。一瞬の判断ミスが死を招くこともあるし、何よりそうしなければ心が耐えられない。そのため、普段のソフィアの性格を知っているテオからは二重人格を疑われたりしている。
これは言うなれば、『銀』という名の仮面だ。今、その仮面が剥がれ落ち、感情の一部がそこから顔を覗かせていた。その感情も一緒くたに詰め込んで、ソフィアはアインの剣を弾いた。予想外だったのか、アインはバランスを崩し、ここが千載一遇の機会と踏んで攻めかかる。
本来ならば、ここで紋章術を使うべきだと頭では理解している。しかし、『銀』に入って押し込めることを覚えたはずの感情がソフィアの体を前に前にと突き動かす。
「あなたほどの騎士は世界でも数えるほどしかいない! 王直々に止められたはずだ! 部下たちも憧れこそすれ、妬みなんかしなかった! それを全て捨てる必要があったのですか!?」
アインは最初の一太刀こそ驚いたように受け止めたが、その剣も言葉も見透かしたように剣で捌きつつ、唇をおかしそうに曲げた。
「ソフィア、あんたさ、何と戦ってるつもりなの?」
その一言で動揺を見せたソフィアに今度はアインが斬りかかる。何とか防ぐことはできたが、その一撃は凄まじくソフィアは大きく後退させられた。剣を握っていた手が痺れる。
ソフィアはアインを睨んだ。その視線の意味を理解しているようで、アインは肩を小さく持ち上げて言う。
「仮にも部下だったんだから、あんたの事情はある程度把握してたわよ。コールゼン家はクロムガルドの中でも有力貴族だったしね」
当たり前の話だが、クロムガルドは王だけで政治を行っているわけではない。それを補佐する貴族たちが存在しており、ソフィアの実家――コールゼン家はその一翼を担う家柄だ。しかし、それはアインの言ったとおり、『だった』という過去形の話。コールゼン家はソフィアが成人する頃にはすっかり没落してしまっていた。別の貴族の手によって。
不幸だと言えば不幸なのかもしれないが、ソフィアにとっては幸いなことも多かった。下らない政略結婚の道具にされることもなく、幼い頃からの夢だった騎士にもなれたし、配属された先は憧れの『赤』の騎士団。もっとも、その没落貴族であるが故に『銀』に配置替えさせられ、完全に闇の組織の住人にされてしまったのも事実だが。
だが、ソフィアに刻まれた心の傷で一番深いのは家が没落したことでも、『銀』に落とされたことでもなかった。
ソフィアには母がいない。彼女が小さい頃に母は外に男を作って出て行ってしまった。それ以降、母には会っていないので理由は不明だが、きっと留守がちだった夫と何一つ不自由がない退屈な生活に嫌気が差したのだろうとソフィアは推測している。
小説のような物語でよくありそうな話だと自覚しているが、捨てられた本人に刻まれた心の傷は紛れもない本物だ。荷物をまとめて出て行く母の姿を今でも鮮明に覚えているし、母にとって自分は捨ててもいい存在だったのかと思い悩んだことだって何度もある。
そんな弱い自分を払拭したくて、ソフィアは剣の道に没頭した。仮にも貴族の娘だったので父はいい顔はしなかったが、没落してしまったのでそれほど大きな障害もなく騎士見習いになることができた。そうして、ソフィアはアインと出会ったのである。
アインは性格的には傍若無人を絵に描いたような性格ではあったものの、面倒見がよく、一人で剣を振っていたソフィアに暇を見つけては稽古を付けてくれていた。彼女の剣には天賦の才があり、ソフィアには真似できない。それでも、アインの後ろを歩きたかったのだ。
それを裏切られた。一方的なものだと自覚できないほど子供ではなかったが、その気持ちを拭い去ることはできなかった。
その原因をアインは笑いながら口にした。
「あんた、あたしに母親の姿を重ねたんでしょ。だから、『銀』に落とされても抵抗もせずに憧れとは程遠い任務に文句も言わずに従事する。自暴自棄になってね。そう言うのなんて言うか知ってる? ――『ガキ』って言うのよ」
「……黙れっ!!」
ソフィアは激情に身を任せてアインに剣を振る。渾身の力を込めて、彼女と再び剣を交差させる。それはアインを斬るのが目的ではなかった。悔しいがソフィアの剣の腕では彼女を斬ることはできない。だが、こうして剣を交差させればほんの数秒間だけであろうと、足止めができる。
その間にソフィアは息を吐き出して、アインの膝から下の肌に接する空気中の水分を凍らせた。昨日のように簡単にはがれるようなものではない。いくらアインであってもその楔から逃れるには時間がかかる。
アインの舌打ちが聞こえた時にはソフィアは彼女の剣が届く範囲から抜け出しており、紋章術を使用する。先ほどと同じような氷の剣を作り上げ、それをアインの逃げ場を一切残さないように全方位に配置していった。
「今のあなたなら倒せる……! 『赤』を辞め、魔剣を持たないあなたなら……っ!」
アインは今やリルアルドの上位騎士だ。彼女を殺せば戦争になる危険性は非常に高い。
それを理解していながらも、ソフィアは止まらない。かつての憧れはすっかり憎しみに彩られてしまった。
その圧倒的に不利な状況を前にして、アインはおかしそうに笑った。
「今のあたしなら倒せるって? あんた、何を勘違いしてるの?」
その呟きを無視して氷でできた剣を彼女に浴びせかけようとした時、ソフィアは異変に気付いた。力任せに壊すには時間がかかるはずのアインを束縛する氷。それが溶けている。
いや、目を引くべき異変はそれではない。アインの足が燃えているのだ。あれは紋章術によるものだとすぐに悟った。
失念していた。アインが宿しているのは四級の紋章。『火』を操ることができるが、コアの制御ができずに自分の体まで燃やしてしまうという欠陥品。なので、彼女が紋章術を使用するとは思ってもみなかった。実際、アインが戦うところは何度も見たものの、紋章術を使用するところは一度も見たことがない。
呪縛が文字どおり溶け、ソフィアは慌てて氷の剣で彼女の体を貫こうとする。あれが突き刺されば勝てる。それと同時に炎を足にまとわりつかせたまま、アインはソフィアに駆け寄る。
「魔剣がなかろうが、『赤』を辞めようが、紋章がカスだろうが、それがあんたがあたしに勝てる絶対の保証になるわけじゃないでしょうが……っ!」
檻から解き放たれた猛獣はソフィアが迎撃する暇など与えずに剣を振り下ろした。これまで食らったことのないような衝撃を肩から反対側の脇腹にかけてソフィアに与え、その勢いのまま地面を転がった。
「あたしが最強なのはね、どんな状況でもあたしを張り続けるからよ。何かに、他人に影響されたりしない。自分の道は自分で決める。そのあたしがふてくされたあんたに負けるわけないじゃない」
転がって足の火を消したアインは剣を鞘に収める。せめてもの情けのつもりか斬られた感触はなかった。剣の腹で殴られたものと思われるが、ソフィアはその場に崩れ落ちて動けなくなる。すぐに意識を失ってしまうだろう。
その意識を必死につなぎ止めて、ソフィアは問いかける。
「どうしていなくなったりしたんですか、団長……?」
それはあの時、空っぽになった騎士団長の部屋で呟いた言葉。あの時は答える人間が誰もいなかったが、今はいる。答えるべき人間が。
「あたしはいずれクロムガルドを去るつもりだった。理由は色々あるけどね。きっかけもそれなりにあったし」
アインはパンパンと多少なりとも火傷を負ったにもかかわらず、叩いて汚れを落として言葉を続ける。
「あたしは確かに最強よ。ただ、それは騎士としての話。人としては普通と何も変わらなかったってことよ」
ソフィアにはその言葉の意味はわからない。アインもその部分について語る気はないようだった。
「一応、あんたはあたしの弟子みたいなものだし、あんたのことを少しも考えなかったわけじゃない。ただね、あんたに言えば付いて行くって言うのが目に見えてたから。自分の意思ではなく、盲目的な憧れを理由に。あたしはそれが嫌だったのよ。それに出て行くのはごく私的な理由だったんだしね」
五年。その歳月の重みはそんな言葉で納得できるほど軽いものではない。アインに対する愛憎入り混じった複雑な思いは容易には消え去ったりしないのだろう。憧れなどという感情に引きずられないようにというアインなりの思いやりだとはわかっていながらも。
それでも、ソフィアは心のどこかで喜んでもいた。この姿こそが少女だった自分が付いて行きたいと願ったアイン・フォルセティという騎士の姿だ。その騎士に敗れるのなら、この敗北もそんなに悪いものではないように思えた。




