第六節『挨拶』 Abschnitt Ⅵ: “Abschied”
第陸節『挨拶』
Der sechste Abschnitt : “Abschied”
咒紋府に正式に辞表を提出して退出したその足で、てるまは宮廷に向かった。もう夕暮れ時だったが、何かの催し物があるとかで警備は厳重ながら門は開かれており……自分の執務室まで無事到着する。執務室に最後に『施錠』した三重の咒紋封印に他人が触れた気配がないことを確認してから、『施錠』を解く。咒術師の世界はお互いに機密の塊のようなもの……油断ならない同業者に囲まれる環境で意外に過酷である。
輝真が夢の中で見た空間の現実版……そしてテルマが二年間じっと座っていた部屋……執務室の椅子に、てるまは腰を下ろす。
宮廷咒術師は員数外のままの十三座……そのまま、今日で引退……。明日からは宮廷咒術師は旧来通り十二座までに戻る。ブリュンヒルト皇女の家庭教師は今日を以てお役御免。田舎に帰って暢気に暮らす……呆気無いものである。
机の上には、研究しかけの文献資料『停滞』の咒紋式を掛けて尚、崩壊が食い止められない虫食いだらけの古い文献、『複写』の咒紋式で解読できる範囲で咒紋式は写しとってあるが、不完全な部分も多い……時空間の境界を操作する咒紋理論……本当の中核部分はまだ完全にブラックボックスと言ってもいいが、遺跡の文献から新たに発見した咒紋の幾つもの基本的な使用方法、咒紋式構文による簡易操作はある程度解明してある。てるまは開かれたままだった資料ファイルを閉じ、纏めて『収納空間』に投げ込むと、続けて執務室に、二年間の間にすっかり増えてしまった私物の片付けを始める。
幾つかの儀礼的な礼装、外出着、普段着の着替え、愛用の文房具・咒紋具の数々……。宮廷咒術師の特権で集めた樣々な貴重文献……数時間掛けて片付けを全て終わらせたが、……待ち人は来ない……時間を持て余す事になりそうなので……部屋の扉に施錠しソファーの上で横になる。……静かに目を閉じる。
どれほどの時間が経過しただろう……。
どうやら何時の間にか、転た寝していたようだ……。
すっかり意識がすっ飛んでいた……。
ノックの音がてるまの意識を夢の世界から呼び戻す。
「テルマ樣……レベッカです。」囁くような呼び声。
テルマが親しくしていた皇女の侍女の一人……。
「殿下は、今、大広間の『一の控室』に御座します。……では……。」
「ありがとう……。」
形式上のこととはいえ、陛下の命により殿下の家庭教師を仰せつかっている身としては、どんなに先方に逃げられているとしても、辞任の挨拶には一度は往かねばならぬ。そこの礼は尽くさねば辞任するにしても不手際に過ぎる。
時計を見れば夜の十一時過ぎ、……皇女が大広間の控室にいるということは、今夜は取り巻きの貴族達を集めてのパーティーでも開いていると言うことであろうか、さしづめ騒ぎ疲れて休憩中というところか……余り機嫌よく迎えてくれる筈もないが、向かわなばなるまい。
ソファーから飛び起き、咒紋式でドレスのシワを取ると、情報提供してくれたレベッカにチップを払い、身の埃を払って急ぎ足で控室に向かう。
狀況はほぼ予測したとおり……出し物と出し物の合間……騒ぎ疲れた皇女はソファーで柑橘系の果汁を垂らしたアルコール飲料で喉を潤していた。
そんな狀況で、テルマの接近に気付いたブリュンヒルトは一瞬、露骨に嫌な顔をする。
「このような華やかな会場に、不似合いで陰気臭くて説教臭い咒術師が何の用じゃ?……妾は忙しいのじゃ。」貴族の標準女性からしても些か重量オーバーの、鯔か海象のような体躯を捩らせて、皇女ブリュンヒルトがてるまの方に向き直る。ドレスに縫い付けられた豪華な装飾から宝石がプチプチと音を立てて幾つか千切れ落ちた。
「お手間も、お時間も取らせませぬ故……殿下に於かれましては少しだけご容赦を。」
「妾は口うるさくて細かいおヌシには辟易しておる。性格の歪みそのままの、そのひん曲がった顔を見ても反吐が出る。」スゴイ言われようである。
「殿下にこれ以上不快な思いをさせぬように、顔だけはちゃんと直して参りましたので、ご勘弁を……。」多少の皮肉を込めて言葉を返す。
皮肉のニュアンスに気がついたのか、皇女は出来るだけ視界に入れないようにしていたテルマの顔を一瞬凝視する……そして、その瞬間、表情が凍りついた。
「……このテルマ・アンジェリク・ツゥ・アルトブルグ……、陛下より折角賜りました家庭教師……という大役ですが……その御役目を果たすことが出来ず、オマケに自らの不注意による怪我病欠により、殿下を始め、皆々樣には大変ご迷惑をお掛け致しました。この度はお役御免となることが正式に決まりましたので、辞任のご挨拶に伺った次第でございます。今後、この不快な顔をお見せして殿下の気分を害することももう無いでしょう。殿下に於かれましては、何時までも健やかでお美しく在られますよう……ごきげんよう。」
皇女が何やら静止している間に、さっさと言いたいことを言ってしまって……退出しようと試みる。慇懃無礼なぐらいの丁重な挨拶をして、踵を返す。……さぁ、義理は果たした……この宮廷にも、もう用事はない。
そう思った瞬間。
「待て……。……待て、テルマ……。」
背後で声がした。
顔だけ振り返り、半身戻して訊く。
「……性格の歪んだ元家庭教師に……まだ、何か御用でもお有りでしょうか?」テルマの態度は十二分に無礼だったかも知れないが、皇女はそれに頓着せずに問い掛ける。
「そ、その、……その顔どうした?……オヌシのその顔どうした?……たしかに……テルマの顔じゃが、……まるで、まるで別人じゃ……。」震える声で声を掛けてきた。
「ですから、殿下……先ほど説明致しました……直して参りました……と。」
「咒紋術を使って……か?」
「はい……殿下。その通りにございます。」
「オヌシは咒紋術で……人の顔を変えることが出来るのか?」
「はい……殿下。その通りにございます。」
「……妾の顔も……直す事ができるか?」
「はい……殿下。ただ、お薦めは致しませんが……。」
「何故じゃ?」
「一旦お躰を傷つけることになる上に、死ぬほどの激しい苦痛を伴うからです。」
「…………それでも構わぬ……と言えば、出来るか……?」
「お勧めは致しませんが……。」
「出来るの……じゃな。」
てるまは無言で頷く。
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翌日、てるまの館を再びイグナーツ卿が訪れた。
「本日を以ってテルマ・アンジェリク・ツゥ・アルトブルグの『皇女付き咒紋術家庭教師』の任を解き、替わって『皇女付き美容顧問官』に任ずる。」
今度は皇室のメッセンジャーとして現れたイグナーツ卿は、こう告げた後、てるまにウィンクしてみせた。
「……と、いう次第で、明日よりまた、宮廷に出仕されよ。テルマ帝國伯令嬢……。」
幾分予想していたとはいえ……ある意味期待を裏切らない皇女の強権発動人事に、テルマは強い被労を覚えた。
「……謹んで……拝命致しました。」
溜め息混じりに、何とか対応するてるまであった。
そして、密かに思うのであった。
『自分って……一体なんだろう。』
運命……というより、アホなわがまま娘に振り回される、旋風に舞う木の葉のようなイメージが自分に重なった。
軽い頭痛……を覚えずにはいられない。
※ 登場人物
❶ レベッカ/Rebekka
ブリュンヒルト姫付きの侍女の一人。テルマが以前から懇意にしている。




