リュートの決断
リュートは一人で会いに行く事にした。
ティナとレイシスとアルミナには待機を頼んだ。反論されるかと思ったが、三人とも黙って頷いた。レイシスだけが「気をつけてください」と小声で言った。リュートはそれに笑顔で答えると、山道を一人で下りる。
魔族の野営地は、思っていたより静かだった。
物々しい雰囲気を想像していたが、どちらかといえば仕事を終えた後の集団のような空気だった。炎を囲んで座っている者、横になっている者、遠くを見ている者。アーンの要塞に人間の集団を送り届けた任務は終わっている。あとは対価を受け取って引き上げるだけ、という気配がそこにあった。
リュートが近づくと、すぐに気づいた者がいた。
立ち上がった。手が武器に伸びた。だが、リュートが両手を開いて見せると、その手が止まった。
人間が一人で、丸腰に近い格好でやってきた。その意味を、魔族たちは瞬時に理解した。
青の氏族の長は、想像より年老いた顔をしていた。
背が高く、目が鋭い。その目は長く生きてきた者の目だった。
リュートを一瞥して、それから短く言った。
「勇者か」
「そうです」
「一人で来るとは、度胸があるな」
「戦いに来たわけじゃないので」
長がしばらくリュートを見た。品定めをするような目だったが、敵意とは少し違った。やがて炎のそばに腰を下ろし、顎でリュートに向かいを示した。
「座れ」
リュートは素直に座った。
長が傍らにいた若い魔族に何かを言った。その者が少し間をおいてから、陶器の椀を二つ持ってきた。湯気が立っていた。長がそのうちの一つをリュートの前に置いた。
「山の茶だ。毒は入っていない」
「ありがとうございます」
リュートは椀を両手で受け取り、一口飲んだ。苦みの強い、癖のある味だった。美味いとは言い難かったが、まずいとも違った。
「美味いか」
「癖がありますね。でも、嫌いじゃないです」
長が低く笑った。
「正直な奴だ」
周囲の魔族たちの間に、小さなざわめきが起きた。殺気ではなく、どちらかといえば、様子を見ているような気配だ。
茶を飲みながら、しばらく二人は黙っていた。
沈黙を埋めようとして口を開かなかった。リュートは急かさなかった。長も急かさなかった。
炎が風に揺れ、山の夜気が少しずつ冷えていく。
やがて、長が先に口を開いた。
「勇者が一人で来る理由は、だいたい想像がつく」
「そうですか」
「交渉に来た。そうだろう」
「はい」
長がリュートをじっと見た。値踏みするような目でも、怒りの目でもなかった。
「一つだけ聞かせてください。あなた方は、アーンに忠誠を誓っているんですか?」
長が黙った。
周囲の魔族たちも黙った。
答えはその沈黙の中にあった。
リュートは椀を両手で持ったまま、静かに続けた。
「アーンが消えれば、オーブの供給も止まります。それでも戦いますか」
長が炎を見た。
しばらく間があった。炎が揺れた。風が通り過ぎた。
長が低く笑った。笑い声というより、息が漏れたような音だった。
「勇者に問われたら、逃げ場がないな」
周囲の魔族たちの間に、また小さなざわめきが起きた。武器に手をかける者はいなかった。
長がリュートから目を離して、炎を見た。
「我らがアーンに従ったのは、力に屈したからだ。忠誠などではない」
「分かっていました」
「それを知った上で来たのか」
「それを知っていたから、来ました」
長がまたリュートを見た。今度は先ほどまでの品定めの目ではなく、何かを認めるような目だった。
「お前は、強さで押さえつけに来なかった」
「そんな事をする必要はないと思ったので」
「勇者というのは、力で示すものだと思っていた」
「力で示す事もありますけど」
リュートが少し間を置いた。
「今日は、その必要がないと思いました」
長がまた炎を見た。それから、ゆっくりと息を吐いた。
結論は、あっさりと出た。
撤退する。それだけだった。長が一言そう言うと、周囲の魔族たちの間に静かな動きが広がっていった。反論する者はいなかった。むしろ、どこかほっとしたような気配さえあった。荷をまとめ始める者、炎を踏み消す者。仕事が終わった、という所作だった。
長が立ち上がった。リュートも立ち上がった。
長がリュートに向き直った。
「一つだけ言っておく」
「はい」
「我らは引き上げるが、アーンを甘く見るな。追い詰められた時が一番厄介だ。力を持つ者は、失う寸前が最も危うい」
リュートは頷いた。
「はい、ありがとうございます」
長が鼻を鳴らした。
「礼を言われる筋合いはない」
「それでも」
長がリュートをもう一度だけ見た。それから、背を向けて歩き出した。それが別れの挨拶だった。
待機場所に戻ると、ティナが腕を組んで立っていた。
リュートの顔を見るなり、全部分かったのか口を開いた。
「戦わずに終わったのね」
「うん」
「リュートらしいね」
褒めているのか呆れているのか、判断しにくい言い方だった。でもティナの目は笑っていた。
レイシスが小走りで近づいてきた。
「無事で良かったです。怪我はないですか」
「大丈夫。ありがとう」
アルミナが遠慮がちに近づいてきて、リュートの顔をじっと見た。それから「良かった」とだけ言って、目をそらした。
リュートは少し息を吐いた。
その時、リュートはそれを感じた。
うまく言葉にできない感覚だった。ずっと体の奥に張り付いていた何かが、少しだけ緩んだような気がした。重さというより、引っ張られているような感覚。それがわずかに、薄くなった。
気のせいかもしれない。そう思ったが、気のせいではない気もした。
「どうしたの?」
ティナが横から顔を覗き込んできた。
「なんか、少し軽い気がして」
「軽い?」
「うまく言えないんだけど」
ティナがリュートをしばらく見た。それから、また前を向いた。
「まぁ、戦わずに済んだからじゃないの」
「そうかもしれない」
リュートは空を見上げた。ライガット山脈の上空に、雲が流れていた。
もう少しだけ、何かが変わる気がした。




