スタンドアローン
ロコが決めたのは、アトロポスが飛び立つ前夜のことだった。
部屋の窓から空を見ていた。星が出ていた。風が少しある。城の中は明日に向けて静かな緊張が漂っていて、廊下を歩く足音もいつもより少なかった。
ロコは自分の手を見た。
精霊の体は人間の体と見た目は変わらない。でも感じ方が違う。世界と繋がっている感覚がある。空気の流れが分かる。遠くの気配が届く。それが今は、ずいぶん薄くなっていた。
薄くなっていく感覚は、怖くはなかった。
むしろ、これが自然な流れなのだと思っていた。
ロコが人間に憧れたのは、コージと旅をするようになってからのことだ。
最初は不思議だった。人間というのは弱い生き物だと思っていたのだ。
精霊から見れば短い命で、狭い世界の中を一生懸命生きている。そこに何か特別なものがあるとは、最初は思っていなかった。
でもコージを見ているうちに、少しずつ変わっていった。
コージは強くなかった。少なくとも最初は。でもコージは誰かのために動いた。損になると分かっていても動いた。怖くても動いた。深呼吸をして、それから動いた。
その「それでも動く」という部分が、精霊にはないものだとロコは思った。
精霊は役割に従って動く。行動規範に従って動く。でも人間は、自分で選んで動く。その選択の重さが、人間の言葉に宿っている。コージの「すーはー」という深呼吸の後の一歩に宿っている。
ロコはそれが好きだった。
そしていつからか、自分もそういう存在になりたいと思うようになっていた。
アナベルのところへ行ったのは、夜も深くなってからだ。
アナベルは古代竜の間にいた。ロコが扉を叩くと、すぐに開く。眠っていなかったらしい。明日の事を考えていたのか、それとも古代竜の気配を感じながら静かに座っていたのか。アナベルはロコを見て、少し目を細めた。
「来るかと思っていた」
「分かってたの?」
「なんとなく。入れ」
アナベルが部屋の奥に戻った。ロコは後に続いた。古代竜の間は天井が高く、空気がほかの部屋と少し違った。古くて、深い匂いがした。
アナベルが向かいに座った。ロコも座った。
「話してみろ」
促されて、ロコは話し始めた。
人間になりたいという事。今なら変換できるエネルギーがある事。でも一人ではできない事。システムから切り離される必要がある事。
アナベルは途中で口を挟まず聞いていた。ロコが話し終えてからも、しばらく黙っていた。
「古代竜に頼む気か」
「うん。アナベルにお願いしたくて来た」
「古代竜はシステムの外にいる。それは分かっている。だが、前例のない事だ」
「分かってる」
「怖くないのか」
ロコは少し考えた。
「怖いかどうかより、やりたいかどうかの方が大きい」
アナベルがロコを見た。その目が、少し柔らかくなった。
「人間らしい答えだな」
「そう?」
「ああ」
アナベルが立ち上がった。古代竜の間の奥へと歩いていく。ロコはその背中を見ていた。アナベルが何かを呟いた。ロコには聞き取れなかったが、古代竜への語りかけだと分かった。
しばらく静寂が続いた。
それからアナベルが振り返った。
「古代竜が応えてくれた。手伝うと」
ロコは少し息を吸った。
「お礼を言う相手は私じゃない」
アナベルが笑った。ロコも笑った。
古代竜の力がロコを包んだのは、その夜の一番深い時刻だった。
感覚が変わっていくのが分かった。
世界との繋がりが、少しずつほどけていく。遠くの気配が届かなくなる。空気の流れが分からなくなる。システムの気配が薄くなる。それと同時に、別の何かが生まれてくる感覚があった。
重さ、だった。
体に重さが生まれた。自分の体の輪郭が、くっきりとしてきた。息をするたびに空気が肺に入ってくる感覚が、今まで以上にはっきりしていた。
アーンのことが頭に浮かんだ。
伝えなければならない。明日、直接伝えに行く。制約はもうない。システムの外にいる今の自分なら、言える。
ずっと言えなかった事を。
「ロコ、大丈夫か」
ロコは顔を上げた。アナベルの顔が、涙でぼやけて見えた。泣いているのは自分だと気づくまでに、少し時間がかかった。
「うん、大丈夫」
声が、少し違って聞こえた。
ロコは自分の手を見た。さっきと同じ手だった。でも何かが違った。重さがあった。温かさがあった。
人間の手だった。
「おめでとう」
アナベルが静かに言った。
ロコはまた涙が出た。止めようとしなかった。人間になって最初に流す涙が、こういう涙で良かったと思った。
窓の外が白み始めていた。
アトロポスが飛び立つ朝が来ていた。
ロコは立ち上がった。コージのところへ行こうと思った。でも行かなかった。コージには今、やる事がある。邪魔をしてはいけない。
ロコには、ロコがやる事がある。
アーンのところへ行く。
深呼吸をした。
空気が肺に入ってきた。
それは、重くて温かかく、とても良かった。
残り11話。




