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【完結】真実の愛とやらで婚約破棄されたので白い結婚で辺境伯に嫁いだら、氷壁の旦那様の契約書の追記が止まりません  作者: フトダマノミコト


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第9話 三年前の会計監査(ジークハルト視点)

 執務室の暖炉の前で、ジークハルト・アイゼンベルクは一枚の紙を眺めていた。


 契約書だ。


 第一条から第八条までの文字の下に、二人分の署名が並んでいる。


 自分の無骨な字と、彼女の几帳面で美しい字。



(……書きすぎたか)



 第八条の「来年の分だ」は、さすがに口が滑った。


 彼女は不思議そうな顔をしていた。


 当然だ。


 契約は一年。


 来年の冬至には、彼女はもうこの城にいないかもしれないのだから。


 ジークハルトは契約書を机に置き、目を閉じた。


 瞼の裏に浮かぶのは、三年前の王宮の光景だった。




 三年前の秋。


 ジークハルトは、王宮の会計監査の場に呼び出されていた。


 議題は、辺境軍の予算削減。


 財務を預かる大臣が、北の守りに金をかけすぎていると言い出したのだ。



「辺境軍の兵糧の費用は、ここ数年、異常に膨らんでおります。三割の削減が妥当かと」



 大臣は分厚い書類を掲げ、得意げに言った。


 ジークハルトは反論しようとした。


 けれど、彼は剣を振るうことは知っていても、数字で戦うすべを知らなかった。


 兵糧が足りないことはわかっている。


 去年の冬も、兵たちは腹を空かせて峠を守った。


 それを、どう説明すればいいのかがわからない。


 三割削られれば、この冬、兵が死ぬ。


 拳を握りしめたそのとき、部屋の隅から、静かな声がした。



「恐れ入ります。その数字には、誤りがございます」



 声の主は、まだ十六歳ほどの少女だった。


 ラインフェルト侯爵家の代理として、領地から辺境へ納める小麦の記録を持参していたのだという。


 亜麻色の髪をきちんと結い上げ、地味な灰色のドレスを着ていた。


 少女は臆することなく、書類を広げた。



「辺境軍への小麦は、ラインフェルト領から納めた時点で一度、王都の倉庫を経由した時点でもう一度、帳簿に記載されております。同じ小麦が、二重に計上されているのです」



 部屋が、しんと静まった。


 少女は淡々と、二つの帳簿の該当箇所を並べて示した。


 一行ずつ、誰が見てもわかるように。


 大臣の顔が、みるみる赤くなった。



「二重計上を除けば、辺境軍の兵糧の費用は、むしろ例年より少なくなっております。削減の根拠はございません」



 予算の削減は、その場で取り下げられた。


 その冬、北の兵は一人も飢えずに峠を守り抜いた。


 監査が終わったあと、ジークハルトは少女に礼を言おうとした。


 けれど廊下の先で、彼女は一人の青年に呼び止められていた。



「オリヴィア、余計なことをするなと言っただろう。侯爵家が大臣に睨まれたらどうする」



 金髪の青年は、苛立ったように少女を叱りつけていた。


 少女は黙って頭を下げていた。


 あとで聞けば、青年はラインフェルト侯爵家の嫡男で、少女はその婚約者だという。


 ジークハルトは、廊下の陰で足を止めた。


 礼を言う機会は、それきり失われた。




 それからの三年間、ジークハルトは王都に出るたび、彼女の姿を探した。


 声をかけたことは、一度もない。


 婚約者のいる娘に、辺境の武骨な男が近づいていいはずがなかった。


 夜会の隅で、いつも一人で立っている彼女。


 婚約者が別の令嬢と踊るのを、静かに見ている彼女。


 それでも彼女は、背筋を伸ばして、決して俯かなかった。



(あの男は、彼女の価値を何もわかっていない)



 そう思っても、何もできなかった。


 ただ、彼女が幸せであればいいと、それだけを願っていた。


 風向きが変わったのは、今年の秋のことだ。


 王宮の騎士たちのあいだで、ある噂が流れていた。


 ラインフェルト家の嫡男が、メイズ男爵家の娘に入れ込んでいる。


 近いうちに、今の婚約者を捨てるつもりらしい、と。


 それを聞いた夜、ジークハルトは眠れなかった。


 翌朝、城に早馬を送った。


 奥方の部屋を整えておけ、と。


 ハンスは何も聞かずに、すぐに支度を始めてくれた。


 彼女が甘い菓子を好むことも、寒がりなことも、ジークハルトは知っていた。


 夜会の菓子の卓で、いつも蜂蜜の焼き菓子を選んでいたこと。


 冬の夜会では、いつも肩掛けを手放さなかったこと。


 三年間、遠くから見てきたのだから。




 そして、あの夜会の夜。


 ジークハルトは大広間には入らず、回廊の柱の陰に立っていた。


 婚約破棄の宣言が、扉の向こうから聞こえてきた。


 真実の愛。


 冷たい女。


 広間に踏み込んで、あの男を殴り飛ばしたかった。


 けれど、それをすれば彼女の名誉がさらに傷つく。


 ジークハルトは、壁に爪を立てて耐えた。


 やがて、彼女が一人で回廊に出てきた。


 泣いていなかった。


 ただ、指先がかすかに震えていた。


 目が合った気がした。


 彼女は、小さく会釈をした。


 こんな夜でも、見知らぬ男に礼を尽くす人なのだ。


 ジークハルトは逃げるように、その場を離れた。


 その夜、宿で求婚状を書いた。


 何度も書き直し、夜明けまでかかった。


 白い結婚にしたのは、彼女に選ぶ自由を残したかったからだ。


 婚約者に裏切られたばかりの彼女に、見知らぬ男の妻になれと迫ることはできない。


 一年。


 一年のあいだに、もし彼女がこの地を好きになってくれたら。


 もし、自分を少しでも、と。


 ……そこまで考えて、いつも思考を止めた。



(期待するな。一年後、彼女が去ると言えば、笑って見送る。そう決めたはずだ)



 ジークハルトは目を開け、机の上の契約書を見た。


 第六条。第七条。第八条。


 笑って見送ると決めた男が、毎週のように条文を書き足している。


 夕食の席で彼女が話すのを聞くのが好きだった。


 包帯を巻く指の細さを、忘れられなかった。


 祭りの夜、若い騎士が彼女に手を差し出したとき、頭の中が真っ白になった。



(……笑って見送るなど、できるはずがない)



 ジークハルトは、自嘲するように息を吐いた。


 それでも、彼女を縛ることはしない。


 できるのは、条文を一つずつ増やしていくことだけだ。


 彼女が自分の意思で署名してくれる、ほんの小さな約束を。


 それが、言葉の下手な自分にできる、精一杯の求愛だった。


 窓の外では、雪が静かに降り続いていた。


 春まで、まだ遠い。


 契約の満了までは、あと十一か月。

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