第10話 崩れる侯爵家
婚約破棄の夜から、三か月が過ぎた。
王都にも少しずつ春の気配が漂い始めていたが、ラインフェルト侯爵家の空気は冬よりも冷え切っていた。
南部の商会に続いて、東の織物商も取引を打ち切ってきた。
約束の支払いが、二度も遅れたせいだ。
領地の代官たちからは、収支報告の不備を問う手紙が毎日のように届く。
そして今朝、ついに王宮の財務局から、一通の書状が届いた。
「ラインフェルト侯爵家より提出された昨年度の領地報告書に、多数の不明瞭な点が見受けられる。追って監査を行う予定である」
エドガーは書状を握りしめたまま、執務室の机に突っ伏した。
「なぜだ……。去年までは、何の問題もなかったはずだ」
答えはわかっていた。
わかっていて、認めたくなかった。
去年までの報告書は、すべてオリヴィアが書いていたのだ。
昼過ぎ、屋敷の玄関で騒ぎが起きた。
エドガーが下りていくと、執事が見知らぬ男たちと揉めていた。
上等だが派手な上着を着た、目つきの鋭い中年の男。
その後ろには、腕っぷしの強そうな男が二人控えている。
「何事だ」
「これは若様。ちょうどよかった」
中年の男は、にやりと笑って一枚の紙を差し出した。
借用書だった。
「王都で金貸しを営んでおります、ドルフと申します。こちらの証文の件で、ご相談に参りました」
借り主の欄には、流麗な筆跡でこう記されていた。
ラインフェルト侯爵家嫡男エドガーの婚約者、シャルロッテ・メイズ。
そして保証人の欄には、ラインフェルト侯爵家の名が書かれていた。
「なっ……! こんなもの、僕は知らない!」
「ですが、お嬢様は確かに、侯爵家が保証すると仰いましたよ。返済の期日は、とうに過ぎておりましてね」
提示された金額を見て、エドガーの顔から血の気が引いた。
仕立て屋や宝石商のつけとは、桁が違う。
「シャルロッテが、こんな大金を何に……」
「さあ。賭け札の遊戯場で、よくお見かけしましたがね」
ドルフは肩をすくめた。
「三日後にまた参ります。それまでに、良いお返事をお待ちしておりますよ」
その夜、エドガーはシャルロッテを問い詰めるため、メイズ男爵家へ向かった。
けれど屋敷にシャルロッテはいなかった。
観劇に出かけているという。
エドガーは馬車を走らせ、王都の大劇場へ向かった。
二階のボックス席の扉を開けたとき、エドガーは自分の目を疑った。
薄紅色のドレスのシャルロッテが、見知らぬ青年の肩にしなだれかかっていた。
青年の指が、彼女の髪をもてあそんでいる。
その胸元には、どこかで見た覚えのある紋章の留め具が光っていた。
「シャルロッテ……!」
振り返ったシャルロッテは、一瞬だけ顔をこわばらせた。
けれどすぐに、いつもの甘い笑顔を浮かべた。
「まあ、エドガー様。どうなさったの、怖いお顔」
「その男は誰だ!」
「ブラント伯爵家のレナルド様ですわ。お芝居がお好きだとおっしゃるから、ご一緒させていただいただけ。誤解ですわ」
青年はおかしそうに笑い、ひらひらと手を振って席を立った。
「では、僕はこれで。シャルロッテ、また手紙を書くよ」
その一言で、エドガーはすべてを悟った。
あの紋章の留め具。
いつかシャルロッテの部屋で見かけた、差出人の名のない手紙の封蝋と、同じ紋章だった。
「金貸しが来たぞ。侯爵家の名で、借金をしていたそうだな」
「あら……。だって、エドガー様が何でも買ってくださるとおっしゃったから」
シャルロッテは、悪びれる様子もなく首を傾げた。
「それに、真実の愛があれば、少しくらいのお金なんて問題ではないでしょう?」
エドガーは、何も言い返せなかった。
屋敷に戻ると、父の侯爵が書斎で待っていた。
机の上には、金貸しの借用書の写しと、財務局の書状が並んでいた。
「ひと月だ、エドガー」
侯爵は、低く冷たい声で言った。
「ひと月以内に、帳簿を立て直し、借金の始末をつけろ。できなければ、お前を廃嫡する」
「父上! そんな……」
「家を潰すわけにはいかん。弟のフィリップに継がせる」
扉が閉まり、エドガーは一人、暗い書斎に取り残された。
帳簿。
借金。
監査。
どれ一つとして、自分には手に負えない。
頭を抱えたエドガーの脳裏に、ふと、灰色のドレスの少女が浮かんだ。
いつも黙って、山のような書類を片づけていた婚約者。
(そうだ……オリヴィアだ。あいつを呼び戻せばいい)
エドガーは顔を上げた。
噂では、オリヴィアは辺境伯と白い結婚をしたという。
形だけの結婚なら、離縁などすぐにできるはずだ。
北の果ての砦で、冷たい男に飼い殺しにされているに違いない。
自分が迎えに行けば、泣いて喜ぶだろう。
「そうだ。正妻の座に戻してやると言えば、あいつは必ず戻ってくる」
エドガーは、すがりつくようにその考えにしがみついた。
それが、さらなる破滅への一歩だとも知らずに。




