第11話 迎えに来た元婚約者
北の地にも、ようやく雪解けの季節が訪れた。
城の周りの雪は少しずつ痩せ、ところどころに黒い土と若草がのぞき始めている。
冬のあいだに、契約書の条文はさらに増えていた。
第九条 寒い日は、妻は夫の外套を重ねて着ること。
第十条 妻の夜更かしは、夜半の鐘までとすること。
第十一条 妻の誕生日は、城を挙げて祝うこと。
第十二条 夫が遠征で留守の間、妻は三日に一度、手紙を書くこと。
第十三条 夫は帰還したら、誰よりも先に妻のもとへ向かうこと。
オリヴィアは、自室の机でその契約書を眺めていた。
(第十一条は、本当に城じゅうでお祝いしてくださったのよね。料理長が三段のケーキを焼いて、リタたちが花を集めてくれて……)
思い出すと、自然と頬がゆるむ。
第十二条のおかげで、旦那様が西の砦へ遠征した半月のあいだ、オリヴィアは五通の手紙を書いた。
帳簿のこと、城のこと、庭に咲いた最初の雪割草のこと。
戻ってきた旦那様は、その五通を外套の内側にしまっていた。
そして第十三条のとおり、馬を降りるなり、まっすぐオリヴィアのもとへ歩いてきた。
(形だけの妻のはず、なのに)
近ごろ、その言葉を思い浮かべるたびに、胸の奥が少し痛む。
契約の満了まで、あと七か月。
その日の午後、城門に一台の馬車が着いた。
ラインフェルト侯爵家の紋章がついた馬車だった。
「奥様、ラインフェルト様とおっしゃる方が、奥様にお会いしたいと……」
ハンスが、困惑した顔で告げに来た。
オリヴィアは、手にしていたペンを止めた。
旦那様は朝から北の峠の見回りに出ていて、まだ戻っていない。
「……応接間にお通しして。ハンスも、同席してくれる?」
「もちろんでございます」
応接間に入ると、エドガーがソファにふんぞり返っていた。
長旅のせいか、上等な上着には皺が寄り、目の下には隈が浮いている。
あの夜会の夜の、自信に満ちた姿とはまるで別人だった。
「久しぶりだな、オリヴィア」
「お久しぶりでございます、ラインフェルト様。遠路はるばる、どのようなご用件でしょうか」
オリヴィアは向かいに座り、静かに尋ねた。
エドガーは鼻を鳴らした。
「相変わらず可愛げがないな。まあいい。単刀直入に言おう」
エドガーは身を乗り出した。
「戻ってこい、オリヴィア。お前を正妻にしてやる」
応接間が、しんと静まった。
ハンスの眉が、ぴくりと動く。
「……今、何とおっしゃいましたか」
「聞こえなかったのか。もう一度、僕の婚約者に戻してやると言っているんだ。いや、すぐに結婚してやってもいい」
「シャルロッテ様は、どうなさったのです」
「シャルロッテは……まあ、側に置いてやるさ。あれはあれで可愛いところもある」
エドガーは何でもないことのように言った。
「お前は、侯爵家の仕事をしてくれればいい。帳簿も書簡も、今までどおりにな。悪い話じゃないだろう?」
オリヴィアは、目の前の男をまじまじと見つめた。
五年間、この人の婚約者だった。
この人のために、毎晩遅くまで書類を書いた。
それなのに、この人は、自分のことを何もわかっていなかった。
いや、わかろうともしなかったのだ。
(……もう、少しも心が動かないわ)
怒りさえ湧いてこない自分に、オリヴィアは少し驚いた。
「お断りいたします」
「……は?」
「私は、アイゼンベルク辺境伯の妻です。侯爵家に戻るつもりはございません」
エドガーの顔が、みるみる赤くなった。
「妻だと? 笑わせるな! 白い結婚だということは、王都じゅうが知っているぞ! 形だけの妻、一年経てば捨てられる女だろうが!」
「……」
「北の果ての砦で、氷壁の辺境伯に飼い殺しにされて、それで満足なのか! 僕が、わざわざ迎えに来てやったんだぞ!」
そのとき、応接間の扉が開いた。
冷たい外気とともに、黒い外套の大きな影が入ってきた。
「旦那様……」
ジークハルトだった。
見回りから戻ったばかりなのだろう、外套の肩には溶けかけた雪が残っている。
第十三条のとおり、まっすぐにオリヴィアのもとへ来たのだ。
灰色の瞳が、エドガーを捉えた。
部屋の温度が、一気に下がったような気がした。
「お、お前が……アイゼンベルク辺境伯か」
エドガーの声が、わずかに裏返った。
ジークハルトは答えず、オリヴィアの隣に立った。
そして外套の内側から、折りたたんだ紙の束を取り出し、テーブルの上に広げた。
契約書だった。
「白い結婚、と言ったな」
低い声が、静かに響いた。
「これが、俺たちの契約書だ」
エドガーは怪訝な顔で、契約書を覗き込んだ。
第一条から第五条までは、ありふれた白い結婚の取り決めだった。
けれど、その下に。
第六条 夫婦は、夕食を共にとること。
第七条 夫は討伐に出る前夜、必ず妻の顔を見てから出ること。
第八条 祭りの間、妻は夫の隣を離れないこと。
さらに第九条、第十条と、条文は延々と続いていた。
紙の余白はびっしりと埋まり、二枚目にまで及んでいる。
そのすべての条文の下に、二人分の署名が並んでいた。
「な……何だ、これは」
エドガーは口を開けたまま、言葉を失った。
「妻は、この城に必要な人だ」
ジークハルトは、エドガーを見下ろして言った。
「……俺にとっても」
オリヴィアは、思わず隣を見上げた。
ジークハルトの横顔は、いつもどおり少しも動いていなかった。
けれど、その手は、オリヴィアの椅子の背もたれをしっかりと掴んでいた。
「お引き取り願おう。二度と、妻の前に姿を見せるな」
エドガーは震える足で立ち上がった。
逃げるように扉へ向かい、振り返りざまに叫んだ。
「お、覚えていろ! 辺境伯が妻を不当に閉じ込めていると、王宮に訴えてやる!」
扉が乱暴に閉まり、馬車の音が遠ざかっていった。
応接間に、静けさが戻る。
ハンスが、こほんと咳払いをして、そっと部屋を出ていった。
二人きりになった応接間で、オリヴィアは契約書を見つめていた。
(俺にとっても、って……)
胸の奥が、うるさいほどに鳴っている。
尋ねたいことがあるのに、言葉にならない。
ジークハルトは、黙って契約書をたたみ、外套の内側に戻した。
「……遅くなって、すまなかった」
「いいえ。来てくださって、ありがとうございました」
それだけ言うのが、精一杯だった。




