第12話 王宮監査
エドガーの訴えは、本当に王宮へ届けられた。
それからひと月後、アイゼンベルク辺境伯夫妻のもとに、王宮からの召喚状が届いた。
辺境伯が妻を不当に拘束しているという訴えについて、事情を聴取する、とある。
「申し訳ございません、旦那様。私のせいで、こんなことに……」
「あなたのせいではない」
ジークハルトは召喚状を一瞥しただけで、ハンスに旅の支度を命じた。
「ちょうどいい。王都に、用もある」
その言葉の意味を、オリヴィアはまだ知らなかった。
王宮の審問の間には、多くの貴族たちが詰めかけていた。
捨てられた子爵令嬢と、氷壁の辺境伯。
そして彼女を捨てた侯爵家の嫡男。
噂好きの社交界にとって、これほど面白い見世物はない。
正面の席には、国王の名代を務める財務卿のアルトマン伯爵と、王宮の監査官たちが並んでいた。
アルトマン伯爵は白い髭をたくわえた老貴族で、三年前の会計監査のあと、前任の大臣に代わって財務卿に就いた人物だった。
エドガーは父の侯爵と並んで座り、少し離れた席にはシャルロッテの姿もあった。
新しいドレスを着ているが、顔色はあまりよくない。
「それでは、ラインフェルト侯爵家嫡男エドガー殿の訴えについて、審問を始める」
アルトマン伯爵の声が響いた。
エドガーは立ち上がり、得意げに語り始めた。
オリヴィアは白い結婚という名目で、北の砦に閉じ込められている。
辺境伯は彼女を家政の道具として使い、外へ出ることも許さない。
自分は元婚約者として、彼女を救いたいのだ、と。
「アイゼンベルク辺境伯夫人。何か申し開きはあるか」
オリヴィアは立ち上がった。
隣のジークハルトが、ほんのわずかに頷く。
「はい。私は、自分の意思でアイゼンベルク辺境伯家におります」
澄んだ声が、審問の間に響いた。
「城では帳簿を任せていただき、町にも自由に出かけております。冬至のお祭りでは、領民の皆さまと踊りました。閉じ込められたことなど、一度もございません」
「嘘だ! その男に言わされているんだろう!」
エドガーが叫んだが、オリヴィアは静かに首を振った。
「いいえ。私の夫は、私に何かを強いたことは一度もございません。いつも、私の意思を尋ねてくださいます」
私の夫、と口にした瞬間、隣の大きな体が、かすかに強張ったのがわかった。
「ふむ」
アルトマン伯爵は、手元の書類をめくった。
「訴えについては、夫人の証言で十分であろう。……ところで、ちょうどよい機会だ。ラインフェルト侯爵家の領地報告書について、財務局から確認したいことがある」
エドガーの顔が、さっと青ざめた。
監査官の一人が、分厚い帳簿の束を運んできた。
ラインフェルト侯爵家の、過去五年分の領地報告書だった。
「この五年間の報告書は、実に見事なものだった。数字に一つの誤りもなく、記載も明瞭。財務局でも手本にしていたほどだ」
アルトマン伯爵は、報告書の一枚を掲げた。
「ところが、昨年の冬以降のものは、まるで別人が書いたかのように乱れている。……エドガー殿。過去の報告書は、どなたが作成されたのかね」
「そ、それは……もちろん、僕が」
「では、この項目について説明していただけるかな。南部街道の修繕費を、二年に分けて計上した理由を」
エドガーは、口を開いたまま固まった。
額に、じっとりと汗がにじんでいく。
答えられるはずがなかった。
彼はその報告書を、一度も読んだことがないのだから。
沈黙が、審問の間を満たした。
「……修繕の資材の値が、春と秋で大きく変わるためです」
静かな声が、沈黙を破った。
オリヴィアだった。
「春に資材を半分買い、秋の値下がりを待って残りを買えば、二割ほど費用を抑えられます。ですから、二年に分けて計上いたしました」
アルトマン伯爵は、ゆっくりと眼鏡を外した。
「……やはり、そうであったか」
老財務卿の目が、懐かしむようにオリヴィアを見た。
「三年前の会計監査で、辺境軍の兵糧の二重計上を指摘した娘がいた。私はあの場に、財務局の次官として控えていたのだよ。あの日の書類と、この五年間の報告書。筆跡がまったく同じだ」
審問の間が、大きくざわめいた。
「静粛に。……さらに、監査官から報告がある」
別の監査官が立ち上がり、書類を読み上げた。
昨年の冬から今年の春にかけて、ラインフェルト侯爵領の街道修繕費の一部が、本来の用途ではなく、王都の仕立て屋や宝石商への支払いに回されていたこと。
その指示書に、エドガーの署名があったこと。
そして、メイズ男爵令嬢が侯爵家の名を勝手に使い、金貸しから多額の借金をしていたこと。
監査官は、金貸しドルフの証言書も添えていた。
「エドガー殿。領地の公金を、私的に流用したことを認めるかね」
エドガーは、膝から崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
隣の侯爵は、目を閉じたまま動かない。
少し離れた席で、シャルロッテが青い顔をして立ち上がろうとした。
その腕を、控えていた衛兵が静かに押さえた。
オリヴィアは、その光景をただ黙って見つめていた。
胸の内に、晴れやかな気持ちは少しもなかった。
ただ、すべてが終わっていくのを、静かに見届けているような気持ちだった。
ふと、手の甲に温かいものが触れた。
ジークハルトの手だった。
誰にも見えないように、テーブルの下で、そっとオリヴィアの手を包んでいる。
オリヴィアは、その手を握り返した。




