第8話 北の冬祭り
北の地に、本格的な冬が訪れた。
城の周りは一面の雪に覆われ、山から吹き下ろす風は肌を刺すように冷たい。
それでも、城下の町は日ごとに賑やかになっていった。
「もうすぐ雪灯りの祭りなんです!」
リタが目を輝かせて教えてくれた。
「冬至の夜に、町じゅうに灯りをともして、春が来るのを祈るんですよ。広場では踊りもあって、屋台もたくさん出て!」
「素敵ね」
「今年は奥様もいらっしゃいますから、町の人たちも楽しみにしてるんです」
「私を?」
オリヴィアが首を傾げると、リタは大きく頷いた。
「今年の冬は、どの村にも薪と小麦がちゃんと届いたって、みんな喜んでるんです。奥様が帳簿を直してくださったおかげだって」
オリヴィアは、思わず手を止めた。
水増し請求の商人との取引をやめ、浮いたお金で、遠い村々にも冬の備えを配るよう手配した。
帳簿の上では、ただの数字の入れ替えにすぎない。
けれど、その数字の先には、人の暮らしがあったのだ。
(王都では、私の仕事を見てくれる人なんて、誰もいなかったのに)
胸の奥が、じんと熱くなった。
冬至の夜。
城下の町は、無数の灯りに包まれていた。
雪で作った小さな灯籠が、通りの両側にずらりと並んでいる。
中でともる蝋燭の光が雪に反射して、町全体が淡い金色に輝いて見えた。
オリヴィアは、ジークハルトと並んで広場を歩いていた。
彼の外套は相変わらず黒一色だったが、オリヴィアには、リタが選んだ白い毛皮の外套が着せられている。
「辺境伯様だ!」
「奥様もご一緒だぞ!」
町の人々が、次々に声をかけてきた。
パン屋の女将が、焼きたての蜂蜜パンを差し出す。
「奥様、うちの村にまで小麦を届けてくださって、ありがとうございました。おかげで孫たちがひもじい思いをせずにすみます」
「いいえ、私はただ帳簿を……」
「帳簿でも何でも、ありがたいことには変わりありませんよ」
女将は朗らかに笑った。
次から次へと、温かい言葉が向けられる。
干し果物、手編みの手袋、木彫りの小さな鳥。
気がつけば、オリヴィアの両手は贈り物でいっぱいになっていた。
ジークハルトは何も言わず、そのうちのいくつかを黙って引き受けてくれた。
広場の中央では、楽隊が軽やかな音楽を奏で始めた。
町の若者たちが手を取り合い、輪になって踊り出す。
オリヴィアがその様子を眺めていると、一人の若い騎士が近づいてきた。
旅の途中で水を差し出してくれた、あの騎士だった。
「奥様。よろしければ、一曲踊っていただけませんか。祭りの踊りは、簡単ですから」
人懐こい笑顔で、騎士が手を差し出す。
オリヴィアは少し迷った。
王都の夜会では、エドガー以外の誰からも誘われたことがない。
そのエドガーでさえ、最初の一曲だけ踊ると、すぐにほかの令嬢のところへ行ってしまった。
(せっかくのお祭りだし、一曲くらいなら……)
そう思って手を伸ばしかけたとき。
すっと、大きな影が二人の間に入った。
「ルッツ」
ジークハルトの声は、いつもよりさらに低かった。
「東門の見張りが一人足りないそうだ。行け」
「えっ、今からですか、閣下。今夜の見張りの当番は……」
「行け」
騎士は一瞬固まり、それから何かを察したように顔を引きつらせた。
「は、はいっ! 失礼いたしました、奥様!」
慌てて走り去っていく騎士の背中を、オリヴィアはぽかんと見送った。
(今の、見張りの話……本当かしら)
隣を見上げると、ジークハルトは広場の踊りの輪のほうを見ていた。
表情は、いつもどおり動かない。
けれど、何かを言いたそうに、わずかに口元が動いた。
「……踊りたかったのか」
「いえ、その……少しだけ、お祭りの雰囲気に浮かれていたのかもしれません」
「そうか」
ジークハルトはしばらく黙っていたが、やがて、ぎこちなく右手を差し出した。
「俺は、踊りは下手だ」
「え……」
「それでもよければ」
オリヴィアは目を瞬かせ、それから、そっとその手に自分の手を重ねた。
大きくて、硬くて、温かい手だった。
ジークハルトの踊りは、本人の言うとおり、お世辞にも上手とは言えなかった。
何度もオリヴィアの足を踏みそうになっては、慌てて止まる。
そのたびに、周りの町の人々が楽しそうに笑った。
けれどオリヴィアは、王都のどんな夜会よりも、この一曲が楽しいと思った。
祭りから城に戻ると、もうすっかり夜も更けていた。
部屋に戻ろうとしたオリヴィアを、ジークハルトが呼び止めた。
差し出されたのは、もう見慣れたあの契約書だった。
第八条 祭りの間、妻は夫の隣を離れないこと。
オリヴィアは、条文を読み、ジークハルトの顔を見て、もう一度条文を読んだ。
「旦那様。お祭りは、もう終わりましたけれど」
「……来年の分だ」
ぼそりとした答えに、オリヴィアは思わず目を見開いた。
(来年……? 契約は、一年なのに)
それを口にしかけて、なぜか言葉が喉で止まった。
オリヴィアは黙って、第八条の下に名を記した。
自分の部屋に戻り、寝台に腰を下ろしてから、ようやく小さく息をつく。
夕食を共に。
討伐の前夜には顔を見てから。
祭りでは隣を離れない。
(……この契約書、なんだか日記みたいになってきたわ)
そう思ったら、なぜか頬が熱くなった。
きっと、暖炉の火が強すぎるせいだ。
オリヴィアは、そう思うことにした。




