第7話 傷の手当て
夕食を共にとるようになって、半月が過ぎた。
食堂の長いテーブルで、二人は端と端ではなく、角を挟んで隣り合って座る。
最初の夜、オリヴィアが遠い席に着こうとすると、ジークハルトが無言で隣の椅子を引いたからだ。
「報告が聞こえにくい」
それが理由だった。
会話は相変わらず少ない。
オリヴィアが今日の帳簿の進み具合を話し、ジークハルトが短く頷く。
それでも、冷めたスープを一人で飲むよりはずっといいはずだと、オリヴィアは思っていた。
そしてオリヴィア自身も、この時間が嫌いではなかった。
その日、ジークハルトは夕食の時間になっても戻らなかった。
北の峠に大型の魔獣が出たという知らせで、昼過ぎに騎士たちを率いて出ていったのだ。
「閣下はお強いですから、心配いりませんよ」
リタはそう言って笑ったが、ハンスの顔はどこか硬かった。
オリヴィアは一人で食堂に座り、手つかずの皿を前にして待った。
(夕食を共にとること。……契約ですもの。待つのは当然よね)
そう自分に言い訳をして、窓の外の暗闇を何度も見た。
夜半近く、城門のほうが騒がしくなった。
オリヴィアは燭台を手に、急いで中庭へ出た。
松明の明かりの中、騎士たちが馬から降りていた。
その中心に、ジークハルトがいた。
外套の左腕が、黒く濡れている。
「旦那様!」
駆け寄ると、ジークハルトはわずかに眉を寄せた。
「なぜ起きている」
「お夕食を、ご一緒する約束ですから」
「……そうか」
「そんなことより、その腕を」
「かすり傷だ」
かすり傷でないことは、滴る血の量を見ればわかった。
オリヴィアは迷わず彼の右手を取った。
「お部屋へ。手当てをいたします」
執務室の椅子に座らせ、外套と上着を脱がせる。
二の腕に、魔獣の爪でつけられた深い裂傷が走っていた。
オリヴィアは息をのんだが、手は止めなかった。
ハンスが運んできた湯と清潔な布で傷を洗い、薬を塗り、包帯を巻いていく。
「手慣れているな」
「母が病がちでしたので、看病は私の役目でした」
「……そうか」
包帯を巻きながら、オリヴィアは彼の腕にほかの傷跡がいくつもあることに気づいた。
古いもの、新しいもの。
数えきれないほどだ。
「旦那様は、いつも先頭に立って戦われるのですか」
「ああ」
「辺境伯ご自身が、そこまでなさらなくても……」
ジークハルトは、少しのあいだ黙っていた。
暖炉の火が、彼の横顔の古傷を照らしている。
「父は、俺が十九のときに死んだ。魔獣の群れから、村を守って」
低い声が、ぽつりと言った。
「城で待っているだけでは、兵が死ぬのを止められない。……それだけだ」
それきり、ジークハルトは口を閉ざした。
オリヴィアは包帯の端を丁寧に結んだ。
(氷壁の辺境伯。誰にも心を開かない冷たい方だと、王都では言われていたけれど)
この人は、ずっと一人で、この北の地を守ってきたのだ。
誰にも弱音を吐かずに。
冷たいのではなく、きっと、寄りかかる場所がなかっただけなのだ。
「終わりました。しばらくは、剣を振るのはお控えください」
「……善処する」
「善処ではなく、お約束を」
思わず強い口調になってしまい、オリヴィアははっと口を押さえた。
ジークハルトが、驚いたようにオリヴィアを見ている。
「申し訳ございません、出過ぎたことを」
「いや」
ジークハルトは、包帯を巻かれた自分の腕を見下ろした。
「……誰かに、そう言われたのは久しぶりだ」
その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
翌朝。
朝食の席に着くと、オリヴィアの皿の横に、あの契約書が置かれていた。
末尾に、新しい一行が加わっている。
第七条 夫は討伐に出る前夜、必ず妻の顔を見てから出ること。
オリヴィアは契約書を手にしたまま、隣のジークハルトを見た。
彼は黙々とパンをちぎっている。
「あの、旦那様。これは……」
「昨夜、あなたは夜中まで起きて待っていた」
ジークハルトは、パンから目を上げずに言った。
「出る前に顔を見せておけば、無駄に待たせずにすむ」
(……顔を見せるのは、旦那様のほうなのに。条文では、私の顔を見てから、になっているわ)
オリヴィアは、条文をもう一度読み返した。
見てから出る。
主語は夫だ。
(これでは、旦那様が私の顔を見たいみたいに聞こえるけれど……)
まさか、とすぐに打ち消す。
形だけの妻に、そんなことを思うはずがない。
きっと、言葉の選び方が少し不器用なだけだ。
「承知いたしました」
オリヴィアは第七条の下に名を記した。
ジークハルトは、やはりパンを見つめたまま、小さく頷いた。
包帯を巻いた左腕を、少しぎこちなくかばいながら。




