第6話 そのころ王都では
王都、ラインフェルト侯爵家。
嫡男の執務室には、開封されていない手紙が山のように積まれていた。
エドガー・ラインフェルトは、その山を苛立たしげに睨みつけていた。
「なぜ、こんなに溜まっているんだ」
答える者はいない。
オリヴィアとの婚約を破棄してから、ひと月が過ぎていた。
最初の数日は、何の問題もなかった。
いや、問題に気づいていなかっただけかもしれない。
二週間が過ぎたころから、少しずつおかしなことが起こり始めた。
取引先から、返事が来ないという苦情の手紙が届くようになった。
領地の代官から、収支報告の確認を求める使いが何度もやって来た。
そして今朝、南部の商会から一通の手紙が届いた。
「小麦の契約は、期日までにご署名をいただけなかったため、白紙に戻させていただきます。今後のお取引につきましても、慎重に検討させていただきたく……」
読み上げたエドガーの手が震えた。
南部の小麦は、ラインフェルト領の冬の食料を支える大切な取引だ。
それが、白紙。
「くそっ……! たかが署名ひとつで、何を大げさな!」
エドガーは手紙を握りつぶし、床に叩きつけた。
そのとき、扉が開いた。
「エドガー様、ご覧になって!」
薄紅色の新しいドレスを纏ったシャルロッテが、くるりと回ってみせた。
袖には繊細なレースがあしらわれ、胸元には大粒の真珠が光っている。
「仕立て屋が、今季いちばんの流行だって言うんですの。似合います?」
「あ、ああ……。綺麗だよ、シャルロッテ」
エドガーは無理に笑みを作った。
「ところでシャルロッテ。帳簿のほうは、どうなっている? 君が覚えると言っていただろう」
シャルロッテは、ぱちりと瞬きをした。
「帳簿? ああ、あの数字ばかりのご本ですわね」
「そうだ。領地の収支を確認したいんだが」
「だって、あんなに細かい数字、見ていたら頭が痛くなってしまうんですもの。それにエドガー様、わたくしにはもっと大切なお役目がありますでしょう?」
シャルロッテは甘えるようにエドガーの腕に寄り添った。
「侯爵家の未来の奥様として、社交界で恥ずかしくない装いをすること。それがわたくしのお仕事ですわ」
「……そう、だな」
エドガーは曖昧に頷いた。
確かに、帳簿など女の仕事ではない。
オリヴィアがおかしかったのだ。
あんな地味な仕事ばかりして、少しも可愛げがなかった。
「それより、明日の観劇の席は取ってくださいました? ボックス席がいいですわ」
「ああ、手配しておく」
「うれしい! エドガー様さえいてくだされば、わたくし、ほかには何もいりませんわ」
シャルロッテが頬に口づけを落とし、軽やかな足取りで部屋を出ていく。
残されたエドガーは、ふたたび手紙の山に目を戻した。
その夜遅く、エドガーは父である侯爵の書斎に呼ばれた。
侯爵は机の上に、数枚の請求書を並べていた。
「これは何だ、エドガー」
仕立て屋、宝石商、香水店、菓子店。
どれも宛名はラインフェルト侯爵家、注文主の名はシャルロッテ・メイズとなっている。
合計の額を見て、エドガーは息をのんだ。
領地のひと月分の税収に近い。
「そ、それは……シャルロッテが、侯爵家の名に恥じないようにと……」
「まだ婚約もしておらん娘が、なぜ我が家のつけで買い物をしている」
侯爵の声は低く、冷たかった。
「それに、南部の商会の件も聞いたぞ。オリヴィア嬢がいたころは、こんなことは一度もなかった」
「父上、それは関係ありません。少し手が回らなかっただけで……」
「では、なぜ回らなくなった」
エドガーは答えられなかった。
侯爵は深いため息をつき、請求書をまとめてエドガーに突き返した。
「お前が選んだ娘だ。真実の愛とやらで、なんとかしてみせろ」
書斎を出たエドガーは、暗い廊下で立ち尽くした。
(大丈夫だ。少し混乱しているだけだ。すぐに元に戻る)
そう自分に言い聞かせた。
同じころ。
メイズ男爵家の自室で、シャルロッテは一通の手紙を読んでいた。
差出人の名は書かれていない。
けれど封蝋の紋章を見れば、それが誰からのものかはすぐにわかる。
シャルロッテは手紙を読み終えると、くすりと笑い、燭台の火にかざした。
紙は端から黒く縮れ、やがて灰になった。
「侯爵家の奥様になるのも、悪くはないけれど……」
鏡に映る自分に向かって、シャルロッテは艶やかに微笑んだ。
「保険は、いくつあってもいいものね」
窓の外では、王都の夜が静かに更けていった。
その静けさの下で、何かが少しずつ、確実に崩れ始めていた。




