第4話 北の城へ
出立の朝、ハートレイ子爵家の門の前には、二頭立ての立派な馬車が停まっていた。
辺境伯家の紋章が刻まれた、頑丈な造りの馬車だ。
見送りに出てきたのは、父と数人の使用人だけだった。
「くれぐれも、辺境伯様の機嫌を損ねるんじゃないぞ。支度金を返せなどと言われたら、たまったものではないからな」
父の別れの言葉は、それだけだった。
「はい、お父様。お元気で」
オリヴィアは静かに頭を下げ、馬車に乗り込んだ。
窓から見える屋敷が、ゆっくりと遠ざかっていく。
生まれ育った家なのに、不思議と寂しさは湧いてこなかった。
(一年後、私はもうここへは戻らない。……きっとね)
驚いたことに、ジークハルト本人が迎えに来ていた。
彼は馬車には乗らず、黒い大きな軍馬に跨って、馬車の横を並走していた。
護衛の騎士たちも、皆どこか無骨で、口数が少ない。
北への旅は、十日に及んだ。
日を追うごとに景色は荒涼とし、風は冷たくなっていく。
それでも、旅は思っていたよりずっと快適だった。
馬車の座席には、厚い毛皮の敷物が何枚も重ねてあった。
足元には、熱した石を布で包んだ温石が置かれていた。
宿に着けば、いちばん暖かい部屋がオリヴィアのために用意されていた。
そして三日目の午後、オリヴィアが馬車の揺れに少し酔って顔色を悪くすると、窓の外でジークハルトが片手を上げた。
一行は小川のそばで止まり、半刻の休憩をとった。
誰も、理由は口にしなかった。
(……私のため、よね?)
水を差し出してくれた騎士にそっと尋ねると、若い騎士は困ったように笑った。
「閣下のご指示です。奥様が疲れたら、すぐに止めろと」
「奥様だなんて。私はまだ……」
「書類の上では、もう奥様ですから」
騎士の言うとおりだった。
婚姻の届けは、出立の前に王都の教会で済ませてある。
オリヴィア・アイゼンベルク。
形だけとはいえ、それが今の自分の名前だった。
小川の向こうで、ジークハルトは黙って馬に水を飲ませていた。
大きな背中が、北風を遮るように立っている。
オリヴィアは何か言おうとして、結局、言葉が見つからなかった。
その旅のあいだ、二人が交わした会話は、ほんのわずかだった。
「寒くないか」
「はい、大丈夫です」
「そうか」
それだけだ。
けれど翌朝には、座席の毛皮が一枚増えていた。
十日目の夕暮れ、馬車は小高い丘を越えた。
その先に現れた城を見て、オリヴィアは窓に額を寄せた。
灰色の石を積み上げた、砦のような城だった。
高い城壁が幾重にも巡り、物見の塔がいくつも空を突いている。
華やかさとは無縁の、戦うための城。
その背後には、雪をかぶった北の山々が連なっていた。
(ここが、これから一年を過ごす場所……)
城門をくぐると、中庭には使用人たちが並んで待っていた。
先頭に立っていたのは、白髪をきちんと整えた老人だった。
「ようこそお越しくださいました、奥様。家令のハンスと申します」
ハンスは深々と頭を下げ、皺の刻まれた顔をほころばせた。
「閣下が奥様をお迎えになる日を、城の者一同、心待ちにしておりました」
「心待ちに……ですか?」
「ええ、それはもう」
ハンスの隣で、赤毛の若い侍女がぴょこんと頭を下げた。
「侍女のリタです! 奥様のお世話をさせていただきます! 北のことなら何でも聞いてくださいね!」
明るい声に、オリヴィアの肩から少しだけ力が抜けた。
案内された部屋は、城の外観からは想像できないほど居心地がよかった。
暖炉には火が赤々と燃え、窓には厚手のカーテンがかかっている。
寝台には真新しい羽毛の掛け布。
書き物机の上には、上質な紙とペン、それにインク壺が揃っていた。
小さな花瓶には、冬でも枯れない乾燥花が活けてある。
(これは……すべて、私のために?)
「閣下が、奥様のお部屋だけはとおっしゃって、ふた月も前から準備させたんですよ」
リタが楽しそうに言った。
「ふた月前……?」
婚約破棄の夜会から、まだひと月も経っていない。
計算が合わない。
オリヴィアが首を傾げていると、ハンスがこほんと咳払いをした。
「リタ、余計なことを言うものではありませんよ。……奥様、お疲れでしょう。今宵はゆっくりお休みください」
その夜、オリヴィアは眠れずに、ハンスに頼んで城の帳簿を見せてもらった。
「お休みにならなくてよろしいのですか」
「数字を眺めていると落ち着くんです。……変わっているでしょう」
ハンスが運んできた帳簿の山を開いて、オリヴィアは目を見張った。
ひどい。
収入と支出が入り混じり、備蓄の記録は途中で途切れている。
軍の予算と城の生活費が区別されていない。
「お恥ずかしい限りです。前の書記が辞めてから、閣下も私も、討伐の手配で手いっぱいで……」
ハンスが申し訳なさそうに肩を落とした。
そのとき、廊下に重い足音が響いた。
開いた扉の向こうに、軍装の上に外套を羽織ったジークハルトが立っていた。
「閣下。お出かけですか」
「西の谷に魔獣が出た。夜明けまでには戻る」
灰色の瞳が、机の上の帳簿と、オリヴィアの顔を順に見た。
「……着いたばかりだ。無理をするな」
「はい。旦那様も、どうかお気をつけて」
旦那様、と呼んだ瞬間、ジークハルトの動きがほんのわずかに止まった。
けれどすぐに背を向け、足音は廊下の奥へ遠ざかっていった。
オリヴィアは、開いたままの帳簿に目を落とした。
ここには、自分にできることがある。
誰にも破り捨てられない仕事が、ここにはある。
(一年間。形だけの妻でも、この城のお役に立とう)
暖炉の薪が、ぱちりと小さな音を立てた。
窓の外では、北の夜空に、王都では見たことのないほどたくさんの星が瞬いていた。




