第3話 引き継ぎ書と契約書
顔合わせの前日、オリヴィアはラインフェルト侯爵家を訪れた。
腕には、分厚い革の書類挟みを抱えている。
五年分の業務をまとめた引き継ぎ書だった。
領地ごとの収支の癖、取引先ごとの支払い期日、季節ごとに必要な手配。
どの商会の担当者が気難しく、どの手紙にどんな言い回しで返せば角が立たないか。
三日三晩かけて、誰が読んでもわかるように書き上げた。
応接間に通されると、待っていたのはエドガーだけではなかった。
隣にはシャルロッテが当然のように座り、新しい首飾りを指先でもてあそんでいる。
「何の用だ、オリヴィア。まさか、よりを戻したいなどと言いに来たのではないだろうな」
「いいえ。お約束していた引き継ぎ書をお持ちしました」
オリヴィアは書類挟みをテーブルに置いた。
「侯爵家の書簡と帳簿、取引先との契約の進め方をまとめてあります。南部の小麦の契約書は、期日が過ぎておりますので、早急に商会へお詫びの手紙を……」
「まあ、なんて分厚いの」
シャルロッテが目を丸くして、書類挟みをぱらぱらとめくった。
「でも大丈夫ですわ、エドガー様。こんな難しそうなこと、わたくしがすぐに覚えてみせますもの」
「ああ、シャルロッテは賢いからな」
エドガーは満足げに頷くと、書類挟みから紙の束を抜き出した。
そして、オリヴィアの目の前で、それを二つに引き裂いた。
「こんなもので恩を売ろうとしても無駄だ。お前がいなくても、侯爵家は何も困らない」
破れた紙が、はらはらと床に落ちる。
オリヴィアは、しばらくその紙片を見つめていた。
三日三晩の作業が、一瞬で紙くずになった。
(……そう。この方は、本当に何もわかっていらっしゃらないのね)
怒りよりも先に、静かな諦めが胸に広がった。
「承知いたしました。それでは、私の役目はここまでです」
オリヴィアは立ち上がり、礼をとった。
「どうぞ、お二人でお幸せに。ごきげんよう」
「ふん。辺境伯に売られていくそうじゃないか。氷壁の辺境伯なら、お前のような冷たい女にはお似合いだ」
背後から聞こえた嘲笑にも、オリヴィアはもう振り返らなかった。
翌日。
顔合わせの場所は、ハートレイ子爵家の応接間だった。
約束の刻限ちょうどに、玄関の扉が開いた。
入ってきた男を見て、オリヴィアは思わず息をのんだ。
大きい。
扉の上枠に頭がつきそうなほどの長身で、肩幅も広い。
黒い軍装に身を包み、短く刈った黒髪の下、左の眉から頬にかけて一筋の古傷が走っている。
灰色の瞳は、冬の湖のように静かだった。
(この方が、氷壁の辺境伯様……)
そして同時に、なぜか見覚えがあるような気がした。
(夜会の夜、回廊にいた方……? まさかね)
「ジークハルト・アイゼンベルクだ」
低く、短い声だった。
「オリヴィア・ハートレイでございます。このたびは、過分なお申し出をいただき……」
「堅苦しい挨拶はいい」
ジークハルトは向かいの椅子に腰を下ろすと、懐から一枚の書類を取り出した。
「契約書だ。目を通してくれ」
父が愛想笑いを浮かべて何か言いかけたが、ジークハルトはそちらを見もしなかった。
オリヴィアは書類を受け取り、一行ずつ丁寧に読んでいった。
第一条 婚姻の期間は一年とする。
第二条 夫婦の寝所は別とし、夫は妻に夫婦の務めを求めない。
第三条 妻の生活にかかる費用はすべて辺境伯家が負担し、夫は妻の自由を妨げない。
第四条 期間の満了時、妻が望む場合、夫は離縁に応じ、定めた額の慰謝料を支払う。
第五条 夫婦は互いの名誉を守る。
読み終えて、オリヴィアは顔を上げた。
(……公平すぎるわ。いいえ、私に有利すぎる)
辺境伯の側に得があるようには思えない。
一年間、形だけの妻を養い、最後には慰謝料まで払う。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ああ」
「なぜ、私なのですか」
ジークハルトは、わずかに沈黙した。
灰色の瞳が、まっすぐにオリヴィアを見る。
「……王家から、妻を迎えろと言われている。辺境を王都と繋ぐためにな」
「それなら、ほかにもっとふさわしい方が……」
「あなたは、帳簿が読めると聞いた」
短い答えだった。
オリヴィアは目を瞬いた。
(帳簿……。つまり、辺境伯家の家政を任せたい、ということかしら)
それなら納得がいく。
形だけの妻でも、役に立てる場所がある。
それはオリヴィアにとって、悪い話ではなかった。
「承知いたしました。お役に立てるよう、努めます」
オリヴィアがペンを取ろうとしたとき、ジークハルトが書類の末尾を指で示した。
小さな字で、一文が添えられていた。
「追記は、双方の合意があれば可能だ」
「追記、ですか」
「暮らしてみれば、決めておきたいことも出てくるだろう。あなたの側からも、遠慮なく書き足していい」
無愛想な声なのに、なぜかその言葉は、ひどく丁寧に聞こえた。
オリヴィアは頷き、契約書に自分の名を記した。
続いてジークハルトが、迷いのない筆跡で署名する。
求婚状と同じ、整っていて力強い字だった。
「出立は十日後だ。迎えの馬車をよこす」
それだけ言うと、ジークハルトは立ち上がった。
扉の前で一度だけ振り返り、低く付け加える。
「……北は寒い。暖かい服を、多めに持ってくるといい」
扉が閉まってから、オリヴィアはしばらくその場に立ち尽くしていた。
(氷壁の辺境伯様、なのよね……?)
噂とは、少し違うのかもしれない。
そう思った自分に、オリヴィアは小さく首を傾げた。




