第2話 氷壁の辺境伯からの求婚状
「この、恥さらしが!」
屋敷に戻るなり、父の怒声が玄関広間に響いた。
ハートレイ子爵は顔を真っ赤にして、手にした杖で床を打ち鳴らした。
「侯爵家との縁を、お前はどうしてくれるつもりだ! 婚約者の心ひとつ繋ぎ止められんとは!」
「申し訳ございません、お父様」
「謝って済む話か! 社交界中の笑いものだぞ!」
オリヴィアは頭を下げたまま、黙って叱責を受け止めた。
母が亡くなってから、この家でオリヴィアの味方をしてくれる人はいない。
使用人たちも、主人の顔色をうかがって目を伏せている。
(エドガー様がほかの方を好きになったのは、私のせいなのかしら)
そう考えかけて、オリヴィアは心の中で首を振った。
(……いいえ。少なくとも、夜会で大勢の前で言い出したのは、あの方のご判断だわ)
「もうよい。お前の行き先は私が決める。修道院に入るか、どこぞの後妻の口でも探すか……どちらにせよ、王都にはおらんほうがいい」
父は吐き捨てるように言って、書斎に引き上げていった。
オリヴィアは自室に戻り、ようやく一人になった。
鏡に映る自分は、やはり泣いていなかった。
(可愛げがない、か。本当にそのとおりね)
寝台に腰を下ろすと、どっと疲れが押し寄せた。
それでも眠る前に、机の上の書類の束に手を伸ばしてしまう。
南部小麦の契約書。
もう、自分が仕上げる必要のないものだった。
(……引き継ぎ書を作らなくちゃ。誰が担当しても困らないように)
結局その夜、オリヴィアは明け方まで机に向かっていた。
それから三日のあいだ、屋敷の空気は冷え切っていた。
父はオリヴィアと口をきかず、食事も別々にとった。
社交界の噂は、侍女たちの口を通して嫌でも耳に入ってきた。
ラインフェルト侯爵家の嫡男が、新しい恋人を連れて観劇に出かけたこと。
シャルロッテ嬢が、新しい首飾りを見せびらかしていたこと。
そして、捨てられたハートレイ子爵令嬢には、もう貰い手がないだろうということ。
(貰い手、ね。私は売れ残りの反物かしら)
心の中でつぶやいて、オリヴィアは黙々と引き継ぎ書を書き進めた。
四日目の朝、その知らせは突然届いた。
「お、お嬢様! 旦那様がお呼びです、すぐに書斎へ!」
侍女が息を切らして駆け込んできた。
書斎に入ると、父は一通の封書を手に、落ち着きなく部屋の中を歩き回っていた。
机の上には、見慣れない紋章の封蝋が割られている。
翼を広げた鷲と、それを囲む城壁の紋章。
「アイゼンベルク辺境伯家から、お前に求婚状が届いた」
「……辺境伯様から、ですか?」
オリヴィアは思わず聞き返した。
アイゼンベルク辺境伯。
北の国境で魔獣の侵攻を食い止めている、王国の盾ともいわれる家だ。
当代の辺境伯ジークハルト・アイゼンベルクは、十九歳で家督を継いで以来、自ら剣を取って最前線に立ち続けているという。
今年で二十六歳になるはずだ。
そして社交界では、彼はこう呼ばれていた。
氷壁の辺境伯。
国を守る氷の壁であり、誰にも心を開かない冷たい男。
顔には魔獣につけられた古傷があり、決して笑わない。
これまでに三度、縁談が持ち上がったが、いずれも令嬢の側から断られたと聞く。
「ただし、条件付きだ」
父は求婚状をオリヴィアに突きつけた。
整った、けれど力強い筆跡だった。
内容は簡潔だった。
婚姻は一年間の白い結婚とすること。
夫婦の契りは交わさず、寝所は別とすること。
一年の満了後、妻が望めば離縁に応じ、十分な慰謝料を支払うこと。
そのほかの細かな条件は、顔合わせの席で取り決めたいということ。
そして最後に、ハートレイ子爵家への多額の支度金の額が記されていた。
「どういうつもりかは知らんが、悪い話ではない。支度金がこれだけあれば、家の体面も保てる」
父の目は、支度金の数字に釘付けになっていた。
(白い結婚……。形だけの妻、ということね)
なぜ、自分なのだろう。
辺境伯とは一度も言葉を交わしたことがない。
婚約を破棄されたばかりの、可愛げのない子爵令嬢だ。
けれど考えるほどに、この話は悪くないように思えてきた。
(一年間、北の辺境で暮らす。王都の噂からは遠く離れられる)
修道院に入れば、一生外へは出られない。
後妻に入れば、どんな相手かもわからない。
けれどこの契約なら、一年後には自由が待っている。
慰謝料があれば、どこかの町で部屋を借り、帳簿付けの仕事でもして生きていけるかもしれない。
誰かの顔色をうかがわず、自分の力で。
(……悪くないわ。いいえ、むしろ私には、またとない話だわ)
「お前に断る権利はないぞ、オリヴィア」
父が念を押すように言った。
オリヴィアは求婚状を丁寧にたたみ、顔を上げた。
「はい、お父様。このお話、お受けいたします」
あまりにもあっさりと答えたので、父のほうが拍子抜けしたような顔をした。
窓の外では、初冬の風が庭木の枯れ葉を揺らしていた。
北の空は、王都よりもずっと早く冬が来るという。
(氷壁の辺境伯様……。いったい、どんな方なのかしら)
ほんの少しだけ胸がざわついたのは、不安のせいだと、オリヴィアは思うことにした。




