第1話 真実の愛だそうです
王宮の大広間は、千を超える燭台の光で昼間のように明るかった。
楽団が奏でる円舞曲に合わせて、色とりどりのドレスが花のように回っている。
その輪から少し離れた柱の陰で、オリヴィア・ハートレイは一人、果実水のグラスを手にしていた。
婚約者のエドガー・ラインフェルトは、まだ来ていない。
開始の鐘が鳴ってから、もう一刻が過ぎている。
(今日は迎えに来るとおっしゃっていたのに……いいえ、きっとお忙しいのね)
そう考えてから、オリヴィアは小さく首を振った。
エドガーが忙しいはずはない。
侯爵家の書簡も、領地の収支報告も、取引先との契約書も、この五年間ほとんどオリヴィアが代わりに仕上げてきたのだから。
昨夜も遅くまで、南部の商会と交わす小麦の契約書を整えていた。
明日の昼までに侯爵様の署名をいただかなければならない。
「まあ、ご覧になって。ハートレイ子爵令嬢、今夜もお一人よ」
「ラインフェルト様は、また別の方とご一緒なのかしら」
扇の陰の囁きが、わざと聞こえる距離で交わされる。
オリヴィアは聞こえないふりをして、グラスに口をつけた。
慣れている。
笑い方が控えめで、感情が顔に出ない。
そのせいで「可愛げがない」「人形のよう」と言われるのは、昔からのことだった。
そのとき、入口のほうがざわめいた。
現れたのはエドガーだった。
金の髪をきちんと撫でつけ、正装に身を包んだ姿は、誰が見ても見栄えのする青年だ。
そしてその腕には、薄桃色のドレスを纏った令嬢がしなだれかかっていた。
シャルロッテ・メイズ男爵令嬢。
最近、社交界で人気を集めている華やかな娘だ。
エドガーはまっすぐにこちらへ歩いてくる。
人々が道を空け、楽団の音がいつの間にか小さくなっていた。
「オリヴィア・ハートレイ」
名前を呼ばれて、オリヴィアは静かにグラスを置いた。
「はい、エドガー様」
「今夜をもって、お前との婚約を破棄する」
広間が、しんと静まり返った。
「僕はようやく、真実の愛を見つけたんだ。シャルロッテこそ、僕が生涯をかけて守るべき人だ」
エドガーは得意げに胸を張り、シャルロッテの肩を抱き寄せた。
シャルロッテは大きな瞳を潤ませて、オリヴィアを見上げる。
「ごめんなさい、オリヴィア様……。わたくし、エドガー様をお慕いする気持ちを、どうしても止められなかったのです」
「お前のように冷たい女とは違う。シャルロッテは僕の話を、いつも笑顔で聞いてくれる。お前は帳簿だの書類だの、面白みのない話ばかりだったな」
周囲から、くすくすと笑いが漏れた。
オリヴィアは、しばらく黙っていた。
傷ついていないわけではない。
五年間、婚約者として尽くしてきたつもりだった。
けれど胸の奥から最初に浮かんできたのは、悲しみよりも別のことだった。
(……明日締めの、南部小麦の契約書。あれは誰が仕上げるのかしら)
自分でも呆れるほど、頭は冷静だった。
(それに、来月の領地の収支報告。北の街道の修繕費の見積もり。商会への返書が三通……)
数え始めると、きりがない。
「何とか言ったらどうだ、オリヴィア」
苛立ったようなエドガーの声に、オリヴィアは顔を上げた。
そして、教本どおりの美しい礼をとった。
「承知いたしました。婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」
「……は?」
「これまでお世話になりました。お二人のお幸せを、お祈り申し上げます」
泣き崩れるとでも思っていたのだろう。
エドガーは口を開けたまま固まっていた。
シャルロッテの目元からも、潤みがすっと消える。
「お前、少しは……」
「侯爵家でお預かりしている書類につきましては、後日きちんと引き継ぎをいたします。それでは、失礼いたします」
オリヴィアはもう一度礼をして、背を向けた。
背中に突き刺さる視線も囁き声も、もう振り返らなかった。
大広間を出ると、夜の回廊はひんやりとしていた。
一人になったとたん、ようやく指先が小さく震えだす。
(大丈夫。泣くのは家に帰ってから。……いいえ、泣く暇なんて、きっとないわね)
お父様は、間違いなく激怒する。
侯爵家との縁談は、ハートレイ子爵家にとって何よりの誇りだったのだから。
ため息をついて歩き出したとき、回廊の柱の向こうに、大きな人影が立っているのに気がついた。
夜会の客にしては飾り気のない、黒い軍装の男だった。
燭台の光が届かず、顔はよく見えない。
ただ、ひどく背が高い。
男はオリヴィアを見ていた。
……ように、思えた。
オリヴィアが軽く会釈をすると、男はわずかに頭を下げ、そのまま闇の奥へ消えていった。
(どなたかしら。……警備の騎士様かしら)
それ以上考える余裕もなく、オリヴィアは迎えの馬車へと急いだ。
その夜、王都の空には、北の方角から冷たい風が吹いていた。




