第17話 第三十一条(ジークハルト視点)
彼女が離縁届を手に取ったとき、ジークハルトは、世界が終わるのだと思った。
笑って見送ると決めていた。
一年かけて、何度も自分に言い聞かせてきた。
それなのに、彼女の細い指が紙を持ち上げた瞬間、足元の床が崩れていくような気がした。
止めたい。
行かないでくれと、叫びたい。
けれど、それを口にする資格は自分にはない。
彼女に選ぶ自由を残すと、最初に約束したのは自分なのだから。
ジークハルトは奥歯を噛みしめ、ただ立っていた。
ところが彼女は、机の前ではなく、暖炉の前へ歩いていった。
そして、離縁届を炎の中に落とした。
「オリヴィア……?」
思わず、名前が口からこぼれた。
一年間、一度も呼べなかった名前だった。
呼んでしまえば、もう二度と手放せなくなる気がして。
彼女は振り返らずに机に戻り、契約書の最後の一枚に何かを書き込んだ。
差し出された紙を見て、ジークハルトは、自分の目を疑った。
第三十条の下に、彼女の署名があった。
そして、その下に。
第三十一条 この契約を、本当の結婚に改める。
見慣れた、几帳面で美しい字だった。
三年前の監査の場で、初めて目にした字。
この一年、すべての条文の下に署名してくれた字。
その字が、自分たちの結婚を、本当のものにしようと書いている。
読み終えても、意味が頭に入ってこなかった。
いや、入ってきたからこそ、動けなかった。
これは夢ではないのか。
明け方、何度も見た夢と同じではないのか。
だからつい、口をついて出たのは、ひどく情けない言葉だった。
「アルトマン伯爵の話は。王都で、あなたの才を生かせる。俺の側にいては……」
「お断りの手紙は、三日前に出しました」
彼女は、まっすぐにジークハルトを見て言った。
そして、言葉を一つずつ重ねるように、この城のことを語り始めた。
ハンスのこと。
リタのこと。
冬至の祭りのこと。
城壁の上から見る夕暮れのこと。
最後に、彼女は涙を流しながら言った。
「いちばん好きなのは、旦那様です」
その先の言葉は、ほとんど覚えていない。
気がつけば、彼女を腕の中に閉じ込めていた。
苦しいです、と言われても、離すことができなかった。
腕の中の体は驚くほど細く、温かかった。
三年間、遠くから見ているだけだった人が、今、自分の胸に顔をうずめている。
「愛している。……三年前から、ずっと」
ようやく告げることができた言葉は、思っていたよりもずっと短かった。
一晩かけて求婚状を書いた男が、言いたいことのほんの一握りしか言葉にできない。
それでも、彼女には伝わったようだった。
口づけたとき、彼女は少しも拒まなかった。
柔らかい唇が、かすかに震えていた。
長い口づけのあと、彼女は真っ赤な顔で、ジークハルトの胸元に額を押しつけた。
「三年前、というのは……どういう意味ですか」
「……話すと、長くなる」
「聞きたいです。全部」
ジークハルトは観念して、三年前の会計監査のことを話した。
辺境軍の予算を救ってくれた少女のこと。
礼を言えないまま、ずっと遠くから見ていたこと。
婚約破棄の噂を聞いた日から、彼女の部屋を準備させていたこと。
彼女が甘い菓子を好むことも、寒がりなことも、ずっと前から知っていたこと。
話しているうちに、自分がどれほど重い男なのか、改めて思い知らされた。
逃げられても、文句は言えない。
ところが、話を聞き終えた彼女は、ぽかんと口を開けたあと、くすくすと笑い出した。
「だから、ふた月も前、だったのですね。リタが言っていた」
「……気味が悪いだろう」
「いいえ」
彼女は首を振り、ジークハルトの正装の襟をそっと掴んだ。
「三年間も、私のことを見ていてくださった方がいたなんて。……誰にも見てもらえていないと、ずっと思っていましたから」
潤んだ瞳で見上げられて、ジークハルトの胸の奥で、何かが静かに溶けていった。
氷壁の辺境伯。
人々がそう呼ぶ、凍りついた何かが。
「ありがとうございます、旦那様。見つけてくださって」
その瞬間、ジークハルトは、自分の口元が勝手に緩むのを感じた。
どうすればいいのかわからなかった。
もう何年も、こんなふうに顔を動かしたことがなかったから。
彼女が、目を丸くしてジークハルトを見つめていた。
「旦那様……今、笑いました?」
「……そうか?」
「はい。笑っていらっしゃいます。……初めて見ました」
彼女は、まるで宝物を見つけた子どものように目を輝かせた。
そして、ふと何かを思い出したように、机の上の契約書に目をやった。
「第二十二条。妻が笑ったときは、夫はそれをよく覚えておくこと」
「……ああ」
「でしたら、私も覚えておきます。旦那様が初めて笑った日のこと」
ジークハルトは、もう一度、彼女を腕の中に抱き寄せた。
今度は苦しくないように、そっと。
その日の昼、城じゅうに知らせが広まった。
閣下と奥様が、本当のご夫婦になられた、と。
ハンスは白いハンカチで目元を押さえ、何度も頷いていた。
「長生きはするものですな。閣下のあのようなお顔を、この老いぼれの目で見られるとは」
リタは泣きながら城じゅうを走り回り、料理長は昼から宴の準備を始めた。
騎士たちは中庭で歓声を上げ、祭りでもないのに杯を交わした。
その騒ぎの中心で、ジークハルトは契約書の最後の一枚に、ゆっくりと署名した。
第三十一条の下に、自分の名前を。
隣で、彼女が嬉しそうにそれを見守っていた。
署名を終えて、ジークハルトはペンを置かなかった。
その下に、もう一行を書き加える。
第三十二条 夫は生涯、妻の隣を離れない。
「……旦那様。まだ増やすのですか」
「当然だ」
ジークハルトは、少しだけ口の端を上げた。
二度目の笑顔は、一度目よりもずっと自然だった。
「これからが、本当の契約だからな」




