第18話 契約書は今日も増える
最終話になります。
北の地に、二度目の春が訪れた。
城の裏庭には、去年オリヴィアがまいた花の種が、色とりどりに咲き誇っている。
その日、城下の教会の鐘が、朝から高らかに鳴り響いていた。
アイゼンベルク辺境伯夫妻の、結婚式だった。
あの日、王都の教会で交わしたのは、届け出の署名だけだった。
誰に祝われることもなく、指輪もなかった。
だから今度こそ、きちんと式を挙げようと言い出したのは、旦那様のほうだった。
「奥様、本当にお綺麗です……!」
控えの間で、リタが涙ぐみながら、オリヴィアのヴェールを整えた。
純白のドレスは、町の仕立て屋たちが冬のあいだ、総出で縫い上げてくれたものだ。
袖口には、北の地に咲く雪割草の刺繍があしらわれている。
「ありがとう、リタ。……泣かないで。私まで泣いてしまうわ」
「だって、だって、奥様がこの城にいらしたときのこと、思い出しちゃって……」
リタは鼻をすすりながら笑った。
扉を叩く音がして、ハンスが顔をのぞかせた。
「奥様。そろそろお時間でございます」
教会の扉が開くと、そこには町じゅうの人々が集まっていた。
パン屋の女将、村の子どもたち、騎士たち。
祭りの夜に踊りを申し込んできた若い騎士ルッツは、なぜか最前列で誰よりも大きな声で泣いていた。
そして祭壇の前には、旦那様が立っていた。
白い正装に身を包んだその姿に、オリヴィアは思わず足を止めそうになった。
旦那様は、オリヴィアを見て、ゆっくりと微笑んだ。
この半年で、旦那様はよく笑うようになった。
城の者たちはもう驚かなくなったが、町の人々はまだ見慣れないらしく、あちこちで小さなどよめきが起きた。
「氷壁の辺境伯様が、笑っていらっしゃる……」
「いや、もう氷壁じゃないだろう。すっかり溶けちまった」
そんな囁きに、オリヴィアは笑いをこらえながら、旦那様の隣に立った。
誓いの言葉を交わし、指輪を交換する。
旦那様の大きな指が、オリヴィアの薬指にそっと指輪をはめた。
少し震えていたのは、きっと見間違いではない。
「生涯、あなたの隣を離れないと誓う」
それは、第三十二条と同じ言葉だった。
オリヴィアは、涙をこぼしながら頷いた。
「私も、誓います。生涯、あなたの隣で」
教会の鐘が鳴り響き、人々の歓声が春の空に広がっていった。
その日の夜。
宴のにぎわいが遠くに聞こえる執務室で、二人は並んで机に向かっていた。
机の上には、一冊の分厚い革表紙の本が置かれている。
これまでの契約書をすべて綴じて、一冊にまとめたものだった。
第一条から始まり、第三十二条を過ぎて、さらに続いている。
第三十五条 夫婦は、毎朝おはようの挨拶を交わすこと。
第四十条 夫は、妻の作った焼き菓子を残さず食べること。
第四十四条 妻は、夫の髪を月に一度切ること。
「旦那様。もう五十条を超えてしまいましたよ」
オリヴィアがページをめくりながら言うと、旦那様は真面目な顔で頷いた。
「まだ足りない」
「まだ、ですか」
「一生分の約束だ。五十では、とても足りない」
旦那様はペンを取り、新しいページに一行を書き加えた。
第五十二条 夫は毎年この日、妻に結婚を申し込むこと。
「毎年、ですか?」
「ああ。毎年、あなたに選んでもらいたい」
オリヴィアは、胸がいっぱいになった。
あの日、選ぶ自由を残すために白い結婚を差し出した人。
その人は、今も変わらず、自分に選ばせてくれようとしている。
何度でも。
オリヴィアは旦那様の手からペンを受け取り、その下に一行を書き足した。
第五十三条 妻は毎年この日、必ず「はい」と答えること。
旦那様が、目を見開いた。
それから、たまらなく優しい顔で笑った。
オリヴィアは、二つの条文の下に、自分の名前を記した。
旦那様の名前が、その隣に並ぶ。
あの日、白い結婚の契約書に並んだ二つの名前。
あの日と同じ二つの名前が、今は本当の夫婦として、そこにあった。
契約書は、これからも増えていく。
二人で生きていく、一生分の約束として。
(完)
これにて完結となります。お読みいただきありがとうございました!
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