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【完結】真実の愛とやらで婚約破棄されたので白い結婚で辺境伯に嫁いだら、氷壁の旦那様の契約書の追記が止まりません  作者: フトダマノミコト


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第16話 白い結婚の終わり

 ペンを手に取ったオリヴィアを見て、ジークハルトの体が、かすかに強張った。


 離縁届に署名するのだと、思ったのだろう。


 灰色の瞳が、何かに耐えるように細められる。


 けれどオリヴィアは、いったんペンを置き、離縁届を手に取った。


 そして立ち上がり、暖炉の前へ歩いていった。



「オリヴィア……?」



 初めて、名前を呼ばれた。


 一年間、旦那様はずっと「あなた」としか呼ばなかったのに。


 オリヴィアは振り返らずに、離縁届を暖炉の火にくべた。


 紙の端が、橙色に燃え上がる。


 旦那様の署名が、ゆっくりと炎の中に消えていった。


 背後で、息をのむ音がした。


 オリヴィアは机に戻り、契約書の最後の一枚を引き寄せた。


 第三十条の下には、まだ余白が残っている。


 まずは第三十条の下に、自分の名前を記す。


 それから、ペンをインク壺に浸し、オリヴィアは自分の手で一行を書き込んだ。



 第三十一条 この契約を、本当の結婚に改める。



 書き終えて、オリヴィアは顔を上げた。


 ジークハルトは、まるで石像のように立ち尽くしていた。



「旦那様。追記は、双方の合意があれば可能だと、最初におっしゃいましたね」



 声が震えないように、オリヴィアは一言ずつ丁寧に言った。



「今度は、私が書きました。……署名を、いただけますか」



 ジークハルトは、動かなかった。


 条文を見つめたまま、ただ黙っている。


 その沈黙が長すぎて、オリヴィアの胸に不安がよぎった。



(……やっぱり、図々しかったかしら。白い結婚の妻が、本当の結婚だなんて)



「あの、ご迷惑でしたら……」



「アルトマン伯爵の話は」



 低い声が、ようやく言った。



「王都で、あなたの才を生かせる。俺の側にいては……」



「お断りの手紙は、三日前に出しました」



 オリヴィアは、まっすぐに言った。



「旦那様が何もおっしゃらないので、私の口から申し上げるのが遅くなってしまいましたけれど」



 ジークハルトが、目を見開いた。


 オリヴィアは、一度深く息を吸った。


 言わなければ。


 可愛げのない妻のままで終わらないために。


 この一年、たくさんの条文を差し出してくれた人に、今度は自分の言葉で。



「私は、この城が好きです。帳簿を見てくださるハンスも、いつも元気なリタも、焼き菓子を焼いてくれる料理長も。冬至のお祭りも、城壁の上から見る夕暮れも」



 言葉にするたびに、胸の奥から温かいものがあふれてくる。



「でも、いちばん好きなのは……」



 声が、少し震えた。



「いちばん好きなのは、旦那様です」



 執務室が、しんと静まり返った。



「夕食の席で、私の話を黙って聞いてくださる旦那様が好きです。踊りが下手なのに、手を差し出してくださった旦那様が好きです。遠征先で、私の手紙を外套の内側にしまっていてくださった旦那様が好きです」



 涙が、ぽろぽろと頬を伝った。


 拭っても、拭っても止まらない。



「王都で、私の夫ですと言ったのは、契約だからではありません。私が、そう言いたかったからです」



 オリヴィアは、涙で濡れた顔のまま、精一杯に微笑んだ。



「ですから、旦那様。この結婚を、本当の結婚にしてくださいませんか」



 次の瞬間、オリヴィアの体は、大きな腕の中に閉じ込められていた。


 息が止まるほど、強く。


 正装の胸元から、旦那様の心臓の音が聞こえる。


 戦場の太鼓のように、速く、激しく。



「……旦那様、苦しいです」



「すまない」



 謝りながらも、腕は少しも緩まなかった。


 それどころか、さらに強く抱きしめられる。


 頭の上で、震える息が吐き出された。



「一年」



 掠れた声が、耳元で言った。



「一年、ずっと、この日が来るのが怖かった」



「……はい」



「あなたが去ると言ったら、どうすればいいのか、わからなかった。条文を増やすことしか、思いつかなかった」



「ええ。おかげで、契約書が日記みたいになってしまいました」



 オリヴィアが小さく笑うと、旦那様の腕が、ようやく少しだけ緩んだ。


 見上げると、灰色の瞳がすぐそばにあった。


 冬の湖のように静かだったその瞳が、今は熱を帯びて揺れている。



「オリヴィア」



 名前を呼ばれるたびに、胸が甘く痛む。



「愛している。……三年前から、ずっと」



「三年前……?」



 問い返そうとした唇は、そっと塞がれた。


 初めての口づけは、少しぎこちなくて、驚くほど優しかった。


 大きな手が、壊れ物に触れるように、オリヴィアの頬を包んでいる。


 オリヴィアは目を閉じ、その温もりにすべてを委ねた。


 暖炉の中で、離縁届の最後の燃えかすが、静かに崩れ落ちた。


 一年間の白い結婚が、終わった瞬間だった。

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