第15話 二通の書類
秋が深まるにつれて、オリヴィアは眠れない夜が増えていた。
机の引き出しには、王都から届いた一通の手紙がしまってある。
財務卿アルトマン伯爵からの手紙だった。
財務局で、その才を生かしてみないか。
王都に部屋を用意し、相応の待遇を約束する、と。
(一年前の私なら、きっと飛びついていたわね)
誰の顔色もうかがわず、自分の力で生きていく。
それが、この結婚を受けたときの、ささやかな夢だった。
その夢が、いま目の前にある。
それなのに、少しも心が躍らなかった。
オリヴィアは窓辺に立ち、城の中庭を見下ろした。
月明かりの下、見回りから戻った旦那様が、馬を厩舎に引いていくのが見える。
大きな背中。
いつも北風を遮るように立っている背中。
(……契約の満了まで、あと三日)
旦那様は、この話について何も言わない。
行けとも、行くなとも。
最初の約束どおり、選ぶのは自分なのだ。
それが、どうしようもなく寂しかった。
(引き止めてほしい、なんて。……形だけの妻が、思っていいことではないわ)
オリヴィアは窓に額を寄せ、小さく息をついた。
ガラスが白く曇り、中庭の背中がぼやけて見えなくなった。
そして、その日の朝が来た。
一年前、王都の教会で婚姻の届けを出した日。
契約の、満了の日だった。
朝食の席に、ジークハルトの姿はなかった。
リタが、どこか不安そうな顔で告げた。
「奥様。閣下が、執務室でお待ちだそうです」
執務室の扉を叩くと、低い声が入れと答えた。
ジークハルトは、机の前に立っていた。
いつもの軍装ではなく、深い紺色の正装を纏っている。
この城で、彼がその装いをしているのを見るのは初めてだった。
机の上には、二枚の紙が並べて置かれていた。
「座ってくれ」
オリヴィアは言われるままに椅子に座った。
心臓が、痛いほどに鳴っている。
ジークハルトは、一枚目の紙をオリヴィアの前に滑らせた。
離縁の届け出だった。
夫の署名欄には、すでに力強い字で名前が記されている。
「契約の第四条だ。あなたが望むなら、俺は離縁に応じる」
淡々とした声だった。
「慰謝料の手配は済んでいる。王都に戻るなら、住まいも用意する。アルトマン伯爵の話を受けるなら、それもいい。あなたの才は、北の砦に埋もれていいものではない」
オリヴィアは、離縁届から目を離せなかった。
旦那様の字。
いつも契約書の条文を書き足していた、あの字で、自分たちの結婚を終わらせる書類に署名している。
喉の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
(……やっぱり、そうよね。最初から、一年の約束だったのだもの)
泣いてはいけない。
最後まで、可愛げのない妻のままでいい。
オリヴィアは、震える指を膝の上で握りしめた。
「……承知いたしました。一年間、本当に……」
「まだだ」
ジークハルトが、オリヴィアの言葉を遮った。
そして、二枚目の紙を、離縁届の隣に置いた。
見慣れた紙だった。
契約書の、最後の一枚。
第二十九条の下に、まだオリヴィアの署名のない、新しい条文が書かれていた。
第三十条 妻が去ると言うなら、夫はどこへでもついていく。
オリヴィアは、条文を読んだ。
もう一度読んだ。
三度目に読んだとき、文字がにじんで見えなくなった。
「……旦那様。これは」
「書いたとおりだ」
ジークハルトは、目を逸らさなかった。
灰色の瞳が、まっすぐにオリヴィアを見ていた。
「あなたが王都へ行くと言うなら、俺は止めない。だが、俺もついていく」
「つ、ついていくって……旦那様は、北の辺境伯でいらっしゃいます。北を離れるわけには……」
「わかっている。だから、毎月馬を飛ばして会いに行く」
「毎月……?」
「それでも足りなければ、毎週だ。峠が雪で塞がっても、別の道を探す」
あまりにも真剣な声で言うので、オリヴィアは、泣きながら笑いそうになった。
王都と北の城は、馬車で十日の距離なのだ。
毎週など、できるはずがない。
けれど、この人は本気で、それをやろうとするのだろう。
「あなたに、選ぶ自由を残すと約束した。だから、離縁届も用意した」
ジークハルトの声が、わずかに掠れた。
「だが……手放す自由だけは、俺にはなかった」
執務室に、沈黙が落ちた。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。
オリヴィアの目の前には、二枚の紙が並んでいた。
終わりを告げる紙と、どこまでも追いかけてくる紙。
どちらを選ぶかは、自分が決める。
最初から、ずっとそうだった。
旦那様は一度も、自分に何かを強いたことはなかった。
ただ、一つずつ、小さな約束を差し出してきただけだ。
署名するかどうかを、いつも自分に委ねて。
(……答えなんて、とっくに決まっていたのね)
オリヴィアは、涙を指先で拭った。
そして、机の上のペンに、静かに手を伸ばした。




