第14話 満了の日が近い(ジークハルト視点)
王都から北へ戻る馬車の中で、オリヴィアは眠っていた。
ジークハルトは、向かいの座席からその寝顔を見ていた。
今回の旅では、行きも帰りも馬車に同乗した。
理由を問われたら、長雨で道がぬかるんでいるから、とでも答えるつもりだった。
けれど、彼女は何も問わなかった。
馬車が揺れて、オリヴィアの頭がかくりと傾いた。
ジークハルトは隣の座席に移り、そっとその頭を自分の肩で受け止めた。
亜麻色の髪から、かすかに石鹸の香りがする。
(……審問の間で、あの男が彼女を嘘つき呼ばわりしたとき)
ジークハルトは、膝の上で拳を握った。
あの瞬間、立ち上がってあの男の胸ぐらを掴みそうになった。
剣を抜かなかったのは、彼女が自分の足で立ち、自分の言葉で戦っていたからだ。
三年前と同じように。
静かで、まっすぐで、誰よりも強い声で。
「私の夫は、私に何かを強いたことは一度もございません」
彼女はそう言った。
私の夫、と。
その一言を聞いたとき、心臓が止まるかと思った。
形だけの夫だ。
契約上の呼び方にすぎない。
わかっている。
わかっているのに、あの言葉が、いまも耳の奥で響いて離れない。
北の城に戻ると、季節はあっという間に過ぎていった。
王都へ発つ前の春に、彼女が城の裏庭にまいた花の種は、戻ったころには小さな芽を出していた。
夏には、領地の村々を二人で見回った。
村の子どもたちが、彼女の後をついて回った。
彼女は子どもたちに数字の数え方を教え、ジークハルトは子どもたちに木の剣の振り方を教えた。
条文は、さらに増えた。
第十八条 夏の夕暮れは、二人で城壁の上を散歩すること。
第二十二条 妻が笑ったときは、夫はそれをよく覚えておくこと。
第二十五条 夫の誕生日には、妻が蜂蜜の焼き菓子を一つ焼くこと。
第二十二条を書いたとき、さすがに彼女は顔を真っ赤にした。
それでも、署名をしてくれた。
第二十五条の焼き菓子は、少し焦げていた。
ジークハルトは、それを三日かけて大事に食べた。
そして、秋が来た。
山の木々が色づき、朝晩の風が冷たくなり始めた。
暦をめくるたびに、胸の奥が重くなっていく。
契約の満了まで、あとひと月。
その夜、ジークハルトは執務室で、一枚の紙に向かっていた。
離縁の届け出だった。
夫の署名欄に、自分の名前を書く。
ペンを持つ手が、何度も止まった。
戦場で魔獣に囲まれたときでさえ、これほど手が震えたことはない。
(彼女には、選ぶ自由がある。それが、最初の約束だ)
王都での一件で、彼女の名誉は回復した。
財務卿のアルトマン伯爵は、彼女の才を惜しみ、財務局で働かないかと声をかけてきたという。
彼女は返事を保留にしていた。
王都に戻れば、彼女はもっと多くの人に認められる。
あの男の陰で埋もれていた才を、思う存分に生かせる。
北の砦に縛りつけていい人ではない。
ジークハルトは、最後の一文字を書き終えた。
離縁届に、自分の署名が並んだ。
あとは、彼女が署名するだけで、この結婚は終わる。
慰謝料の手配も済ませた。
彼女がどこで暮らすことになっても、一生困らないだけの額を。
(これでいい。笑って見送る。……そう決めたはずだ)
ジークハルトは離縁届を脇に置き、深く息を吐いた。
けれど、手はまだペンを離そうとしなかった。
気がつけば、契約書の最後の一枚を引き寄せていた。
そこに書き始めたのは、新しい条文だった。
一行書いては消し、また書いては消す。
夜が更け、暖炉の火が小さくなっても、ジークハルトはペンを走らせ続けた。
窓の外が白み始めたころ、ようやく一つの条文が出来上がった。
それを読み返して、ジークハルトは苦く笑った。
(結局、俺は少しも手放す気がないらしい)
自由を残すと言いながら、これでは逃げ道を塞いでいるのと変わらない。
それでも、この一行だけは、どうしても消せなかった。
ジークハルトは二枚の紙を重ねて、丁寧にたたんだ。
離縁届と、最後の条文。
どちらを選ぶかは、彼女が決めることだ。
自分にできるのは、差し出すことだけ。
窓の外では、北の山々が朝日に照らされ、燃えるような紅葉が輝いていた。
彼女がこの城に来て、二度目の冬が近づいていた。
契約満了の日まで、あと二十九日。




