第54話:泥沼のメッキ剥がし
山手線の高架下から響く軋んだ鉄橋の振動が、安普請な壁をビリビリと揺らし続けていた。
都心から外れた鶯谷の路地裏。ラブホテルと雑居ビルが密集する吹き溜まりのような一角に佇む、一泊四千円の薄暗いビジネスホテルのツインルーム。
港区のタワーマンションを裁判所の執行官によって追い出され、南青山の本社オフィスにも赤紙が貼られて逃亡を余儀なくされた神代俊樹と立花莉乃の二人が辿り着いたのは、埃と染み抜き剤の饐えた臭いが充満する、わずか六畳ほどの密室だった。
換気扇の回らない室内は、窓の隙間から入り込む夜の冷気と、二人の衣服から立ち上る泥と脂汗の臭気で息が詰まるほど重苦しい。
床には、コンビニで小銭をかき集めて買った安物のカップラーメンの空き殻と、擦り切れた週刊誌が放り出されていた。
「……う、ぐ……クソッ……頭が、割れそうだ……」
パイプベッドの薄いマットレスの上で、俊樹は頭を抱えて丸まっていた。
着用しているのは、かつて十五万円でレンタルしたイタリア製タキシードの上から羽織った、泥まみれのトレンチコート。
骨董通りの裏路地を記者たちから逃げ惑う中で膝を強打し、破れたスラックスからは赤黒い血が滲んでいた。
東都中央銀行からの融資打ち切りと手形不渡り。
裁判所からの三億二千万円の仮差し押さえ命令。
そして、押し寄せた報道陣のカメラフラッシュ。
数日前まで南青山のサロンで優雅にワインを傾けていた男は、今や一晩の宿代を払うのすら怯える、正真正銘の指名手配犯のような逃亡者へと成り果てていた。
だが――その狭い部屋の片隅、洗面台の白熱灯の下で、立花莉乃は俊樹とはまったく別の光をその濁った瞳に宿らせていた。
「……まだよ。私まで、こんなところで終わってたまるもんですか……」
莉乃は洗面台の小さな鏡を見つめながら、震える手でクレンジングシートを顔に擦り付けていた。
あれほど念入りに塗り固めていた厚塗りのファンデーション、真紅のルージュ、そしてアイラインを乱暴に拭い去っていく。
鏡の中に現れたのは、連日の修羅場と恐怖によって血色を失い、目の下に黒々とした隈が張り付いた、生々しい素顔だった。
莉乃はボサボサに乱れた髪をわざと前に垂らし、薄手のニットの襟元を少し緩めて鎖骨を強調すると、手元のスマートフォンを机の上のティッシュ箱に立てかけた。
「莉乃……お前、何をしてるんだ……?」
ベッドの中から、俊樹が掠れた声で問いかける。
「黙っててよ!」
莉乃は俊樹を一瞥もせず、冷酷に吐き捨てた。
「あんたは破産確定のオワコンかもしれないけど、私はまだ二十三歳なのよ! こんなところで、あんたと一緒に地獄に堕ちてたまるもんですか! 私には私の生き残り方があるの!」
莉乃の浅ましい脳味噌が弾き出した起死回生の策――それは、SNSを利用した「完全な被害者ポジションの獲得」だった。
世論が求めているのは、分かりやすい悪人と、傷つけられた被害者だ。
神代俊樹という悪質な経営者に騙され、才能を利用され、脅迫されて矢面に立たされていた「無垢な若いモデル」というストーリーを完璧に演じきれば、世間の風向きは一瞬で同情へと反転する。
そうすれば、事務所の違約金も免除され、ネットの炎上も鎮火し、再び哀れな悲劇のヒロインとして再起できるはずだ――反省など何一つしない女の、どこまでも愚かで都合のいい計算。
莉乃は深呼吸を一つすると、スマートフォンのインカメラの録画ボタンを押した。
――ピロン。
次の瞬間、莉乃の表情が一変した。
先ほどまでの冷酷な顔つきは跡形もなく消え去り、瞳にみるみる大粒の涙を溜め、口元を痛ましそうに震わせる。
かつて読者モデルとして男たちの前で演じ分けてきた、男心を狂わせる「庇護欲の塊」そのものの演技。
「……ファンの皆様、そして関係者の皆様へ。立花莉乃です……」
掠れた、今にも消え入りそうな声が、スマートフォンのマイクに吹き込まれる。
莉乃は胸元に手を当て、ポロポロと涙を頬に伝わせながら語り始めた。
「この度は、私の関わっていたブランド『アトリエ・アルカ』の騒動で、たくさんの方々にご迷惑とご心配をおかけしてしまい……本当に、本当に申し訳ありませんでした……」
莉乃はカメラの前で深く頭を下げ、嗚咽を漏らした。
「でも……これだけは、私の口から真実をお伝えさせてください。……私は、神代俊樹社長に、完全に騙されていました」
顔を上げた莉乃の瞳は、悲痛な光を帯びていた。
「私はただ、純粋に服が好きで、モデルとしてのお仕事を頑張りたかっただけなんです。それなのに、神代社長から『莉乃の感性が必要だ』『指示通りに名前を貸してくれれば、素晴らしいクリエイターにしてやる』と甘い言葉をかけられ……気づいた時には、逆らえない立場に追い込まれていました。デザインや仕様書の作成はすべて神代社長が独断で行っており、私は彼に指示された通りの絵を描き、言われた通りの言葉をメディアで話すことしか許されていませんでした……」
莉乃はハンカチで目元を拭い、声を震わせた。
「展示会で問題になったお洋服も、私は何度も『こんなの着られない、おかしい』と訴えたんです。でも、社長は怒鳴り散らして私の意見を握りつぶし、中国の工場に無理やり発注してしまいました……。私は、彼が元奥様からデザインを盗んでいたことも、下請けの工場の方々を苦しめていたことも、何一つ知らされていませんでした……。私も、あの男に人生をめちゃくちゃにされた、被害者の一人なんです……」
嘘八百。
神代詩織が徹夜で引いた型紙の上に適当な装飾を足して「自分の才能」と誇り、長谷川パタンナーを「時代遅れの老害」と嘲笑い、自らの物欲のために中国の格安工場を歓迎していたあの女が、すべての罪を俊樹一人に押し付け、自らを清純な悲劇のヒロインへと仕立て上げたのだ。
「どうか……私の言葉を信じてください……。私はこれから、警察やすべての調査に全面的に協力し、真実を明らかにします……本当に、ごめんなさい……」
深々と頭を下げ、録画停止のボタンを押す。
――カチリ。
停止した瞬間、莉乃の涙はピタリと止まった。
彼女はティッシュで鼻をかむと、すぐさまSNSの公式アカウントを開き、動画をアップロードした。
キャプションには、ハッシュタグを添えて。
『#ファンの皆様へ #真実の告白 #神代俊樹氏による支配と被害について』
「……ふん、これでいいわ」
莉乃はベッドに放り投げたバッグからタバコを取り出し、火をつけた。
紫煙を天井へ吐き出しながら、冷笑を浮かべる。
「ネットの馬鹿どもなんて、可愛い女が泣いて謝れば簡単に手のひらを返すのよ。『莉乃ちゃん悪くなかったんだ』『悪いのは全部社長だ』って、同情のリツイートで埋め尽くされるに決まってるわ」
「お前……」
ベッドから這い出してきた俊樹が、鬼のような形相で莉乃を睨みつけていた。
血走った目が、怒りで限界まで見開かれている。
「お前……今、動画で何て言った……!? 全部俺のせいだと!? 俺に脅されて指示された通りにやってただけだとッ!?」
「事実でしょ!」
莉乃は灰皿代わりに置いた空き缶に灰を落とし、冷淡に言い放った。
「あんたが社長なんだから、全部あんたが泥を被りなさいよ! 私まで道連れにしないで! あんたが詩織を追い出して私を引き入れたんじゃない! 男のくせに女の陰に隠れてないで、全部自分の責任だって土下座しなさいよ!」
「このクソアマがァァッ!!」
俊樹がベッドから飛び降り、莉乃の胸ぐらに掴みかかろうとした、まさにその時だった。
――ピロン! ピロン! ピロロロロロンッ!!
机の上に置かれた莉乃のスマートフォンが、狂ったような勢いで連続通知音を鳴らし始めた。
画面が激しく明滅し、X(旧Twitter)やInstagramの通知バナーが、滝のような猛スピードで流れ落ちていく。
「ほら見なさいよ!」
莉乃は俊樹の手を振り払い、勝ち誇った笑みを浮かべて画面を覗き込んだ。
「もう同情のリプが集まり始めたわ! 私のフォロワーが、神代俊樹を叩き潰して――」
だが。
画面をスクロールした莉乃の顔から、一瞬にしてすべての表情が抜け落ちた。
「……え?」
そこに並んでいたのは、同情の声などではなかった。
何万、何十万という大衆から投げつけられた、想像を絶する憎悪と冷笑の嵐だった。
『どの口が言ってんだこのパクリ女wwww』
『被害者ヅラきっつ。吐き気がする』
『全部神代のせいにして逃げる気配満々で草』
『嘘泣き乙。マスカラ落ちてないの計算高すぎて笑う』
「な……何よ、これ……!?」
莉乃の指先が震え、画面をさらに更新する。
だが、事態は「批判」などという生ぬるいレベルを遥かに超えていた。
莉乃が投稿した動画を引用する形で、ネットの「特定班」や、これまでアルカ社で搾取されてきた元関係者たちによる、決定的な告発データが一斉に投下されていたのだ。
――拡散数五万件:『【悲報】立花莉乃さん、裏ではスタッフを「ゴミ」「無能」と罵倒しまくっていた音声が流出』。
莉乃が震える指でそのリンクをタップすると、スマートフォンのスピーカーから、紛れもない彼女自身のヒステリックな絶叫が響き渡った。
『おい長谷川! 何が骨格よ! 私の描いた通りに縫えばいいのよこの老害が! 文句あるなら辞めろ! 代わりの職人なんざいくらでもいるんだよ!!』
『詩織の引いた線なんてどうでもいいの! タグに私の名前入れとけばファンは買うんだから、余計なこと言わずに手を動かせっつってんの!!』
「あ……あぁ……っ!?」
莉乃の喉から、短い悲鳴が漏れた。
アルカ社を辞めていった若手アシスタントが、密かに録音していた社内の音声データだった。
さらに、別の告発がタイムラインを埋め尽くす。
――拡散数十万件:『立花莉乃の「完全オリジナル」デザイン、海外ピンタレストの画像を反転させて色を変えただけだった件【完全一致画像まとめ】』。
――『元職人だけど言わせてもらう。この女、生地の裏表すら分からず、現場のミシン工に「早く縫え」って怒鳴り散らして納期を破綻させた張本人だよ。被害者なわけがない』。
日本のトレンドランキングのトップテンが、一瞬にして莉乃を断罪するワードで埋め尽くされた。
1位:#立花莉乃の嘘
2位:#被害者ヅラ
3位:#パクリ女王の末路
4位:#神代詩織さんの実力
5位:#アルカ集団詐欺
「嘘……嘘でしょ……!? なんで……なんでこんなデータが……!?」
莉乃の顔が、恐怖で土気色に変色していく。
メッキが、剥がれた。
これまで「美しすぎる若手デザイナー」「時代のミューズ」として塗り固めてきた虚飾の仮面が、何十万人ものネットユーザーの目の前で、無残に叩き割られたのだ。
そこへ――追い打ちをかけるように、画面に着信表示が割り込んできた。
表示されていた名前は、所属芸能事務所の代表取締役・大林。
「あ……社長……!」
莉乃は縋り付くように通話ボタンを押した。
「社長! 助けてください! ネットのあれ、全部デタラメで、私――」
『立花莉乃』
受話器から返ってきたのは、氷水のように冷淡な、一切の感情を交えない中年男の声だった。
『見苦しい言い訳をするな。……今、お前の投稿したふざけた謝罪動画を見た。事務所の顧問弁護士とも協議したが、お前の独断による度重なる背信行為、ならびに今回の炎上により、当事務所の社会的信用は完全に失墜した』
「社長、お願いですから……!」
『本日付で、貴様とのマネジメント専属契約を【即時解除】する』
大林の声は、容赦なく死刑判決を下した。
『すでに抱えていたファッション誌の専属モデル契約の違約金、中止になった大手化粧品メーカーのCM損害賠償、合わせて六千五百万円の全額弁済請求書を、今からお前の実家へ内容証明で発送する。……期日は来週月曜日だ。支払いがなければ、直ちにお前の実家の不動産、ならびに父親の給与債権の仮差し押さえに入る。二度と事務所に電話してくるな』
ツーツーツー……。
無機質な切断音が、狭い部屋に響いた。
「六千……五百万……実家が……差し押さえ……?」
スマートフォンの画面が、手から滑り落ち、安物のリノリウムの床にパタリと落ちた。
莉乃の膝から、完全に力が抜けた。
インフルエンサーとしての生命の終了。
芸能界からの永久追放。
そして、実家すら破滅へと巻き込む、巨額の負債。
「……ふ、ふふ……あははは……」
床に突っ伏した俊樹が、それを見て、喉の奥から狂ったような嗤い声を漏らした。
血走った目で莉乃を見上げ、嘲笑の笑みを浮かべる。
「見たかよ……莉乃。ざまあみろ……! お前の嘘泣きなんざ、誰も騙せねえんだよ! 『私は被害者ですぅ♡』だと!? 笑わせるな! お前の無能な落書きのせいで! お前が現場の職人を追い出したせいで! アルカは潰れたんだよ!! お前が一番の戦犯なんだよォッ!!」
その嘲笑の一言が、莉乃の最後の理性の糸を、ブツンと音を立てて引きちぎった。
「誰のせいでこうなったと思ってんのよォォォッッ!!!!」
莉乃は野獣のような絶叫を上げ、床から飛び起きると、俊樹の胸元目掛けて突進した。
ドサァン!
二人の身体が狭いパイプベッドの上へと倒れ込み、スプリングが激しい軋み音を上げる。
「あんたのせいでしょッ!! あんたが詩織を追い出して、私を騙して矢面に立たせたくせに!! 『俺のプロデュース力で世界一にしてやる』って、ベッドの中で甘い嘘ばっかり吐いてたくせに!! 私の人生を返せ! 私の六千五百万を今すぐ払えェェッ!!」
莉乃は尖った付け爪を俊樹の顔面に突き立て、狂ったように引っ掻いた。
皮膚が裂け、鮮血が飛び散る。
「痛ぇッ! 離せ、この狂人アマッ!!」
俊樹も激昂し、莉乃の金髪混じりの乱れ髪を力任せに掴んで引き倒した。
「誰のおかげで今まで贅沢三昧できたと思ってんだ! サンローランのコートも! 西麻布の寿司も! 全部アルカの金だろうが! 詩織の才能にタダ乗りして偉そうにしてただけの寄生虫が、被害者面してんじゃねえぞッ!!」
「寄生虫はあんたでしょッ!! 詩織の引いた線がなきゃ一着も服が作れない無能のくせに!! 死ね! 死んじゃえよ神代俊樹ィィッ!!」
二人は狭いベッドの上で、シーツを引き裂き、枕を投げつけ、互いの喉元を締め上げながら転がり回った。
爪を立て、拳を叩き込み、歯を剥き出して噛みつく。
かつて南青山のサロンで、高級シャンパンを掲げながら「私たちは選ばれた者」「新しい時代の光」と互いの虚栄心を舐め合っていた男女の姿は、そこには微塵もなかった。
泥水に塗れ、互いの肉を食い破り、責任を擦り付け合って醜悪に喚き散らす、二匹の野良犬の共食い。
他人の才能を奪い、自らの手で布の一片すら触れることなく、見栄と嘘だけで身を飾ってきた者たちの、これが真の末路だった。
――そして。
二人が鶯谷の安ホテルで泥沼の修羅場を繰り広げていた、同じ夜の十時過ぎ。
東京湾の冷たい潮風が吹き抜ける、羽田空港第3ターミナル(国際線ロビー)。
出発便の電光掲示板には、深夜に飛び立つアジア各都市へのフライト情報が静かに点滅していた。
チェックインカウンターから少し離れた自動両替機の前に、つばの広いバケットハットを目深に被り、濃いサングラスをかけた一人の男が立っていた。
悪徳プロデューサー、間宮健二だった。
身に纏っているのは、目立たない黒のウインドブレーカー。
その手には、アルカ社の預金口座から持ち逃げした現金八百五十万円と、中国工場への発注手数料と称して着服した数千万円を詰め込んだ、ずっしりと重いリモワのキャリーケースが握られていた。
「……フッ、馬鹿どもめ」
間宮はサングラスの奥の細い目を細め、手元のスマートフォンを一瞥した。
画面には、SNSで大炎上する莉乃のニュースと、アルカ社の倒産を報じるネット記事。
「神代も莉乃も、所詮は使い捨てのコマだ。……俺の香港の隠し口座には、すでに十分な逃亡資金がプールされている。今夜のキャセイパシフィック航空で香港へ高飛びし、そこからシンガポールへ抜ければ、日本の警察なんぞ手出しできるはずがない」
間宮の唇に、勝ち逃げを確信した下品な笑みが浮かんだ。
バズを煽り、粗悪品を売り捌き、問題が起きればすべての責任を愚かな経営者に押し付けて、金だけを掠め取って雲隠れする――これまで何度も繰り返してきた、間宮の常套手段だった。
「さらばだ、極東の島国よ。……俺は南の島で優雅に暮らさせてもらうぜ」
間宮はキャリーケースのハンドルを握り直し、出国審査場(保安検査場)のゲートへと向けて、軽やかな足取りで歩み出した。
航空券のQRコードをかざそうと、ゲートの自動改札機へ手を伸ばした、その時だった。
「――間宮健二さんですね」
背後から、低く、硬質な男の声がかけられた。
間宮の身体が、ピクリと凍りついた。
振り返ると、そこには黒いビジネススーツを着た三人の屈強な男たちが、間宮の周囲を完全に包囲するように立っていた。
どの男も、鋭い眼光を放ち、一切の隙がない。
中央の男が、胸元から黒革の手帳を取り出し、金色の旭日章が刻まれた警察手帳を間宮の眼前へと突きつけた。
「警視庁捜査第二課の者です」
「な……け、警察……!?」
間宮の喉から、掠れた声が漏れた。
サングラスが、鼻根までずり落ちる。
「何の用ですか……!? 私は今から、海外出張なんですが……!」
「出張? 片道切符で、シンガポールへの乗り継ぎ便ですか?」
捜査員は冷ややかに笑い、懐から一枚の令状を取り出して広げた。
「東京地方裁判所より、あなたに対する逮捕状が出ています。……被疑罪名は、株式会社アトリエ・アルカに対する【業務上横領】、ならびに取引先企業数社に対する【詐欺】の容疑です」
「よ、横領……!? 詐欺だと!? 証拠はあるのかッ!!」
間宮は激昂し、キャリーケースを引いて逃走を図ろうとした。
「動くな!」
左右の捜査員が瞬時に間宮の両腕を挟み込み、関節を極めて床へと組み伏せた。
「ぐわっ……!?」
大理石の床に顔面を押し付けられた間宮のサングラスが弾け飛ぶ。
「証拠なら、山ほどありますよ」
捜査員が冷徹に告げた。
「L&Vグループの専属弁護士・倉田拓海氏より、あなたが香港のペーパーカンパニーを経由して資金を洗浄していた送金ログ、ならびに中国・広州の工場と裏で交わしていたキックバック契約書の原本が、完全な形で警視庁へ提出されました。……香港当局との国際捜査共助もすでに締結され、あなたの海外口座はすべて凍結されています」
「く……倉田……!? あいつ、そこまで手を回していたのか……ッ!?」
間宮の顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。
勝ち逃げなど、最初から許されていなかったのだ。
神代詩織とレオン、そして倉田弁護士が張り巡らせた「影の包囲網」は、国内のアルカ社だけでなく、海外へ逃亡を図るこの悪徳プロデューサーの逃走路すら、完璧に先回りして塞いでいたのだ。
カチャリ。
冷たい鋼の感触とともに、間宮の両手首に銀色の手錠が嵌められた。
「令和八年十二月四日午後十時二十二分、間宮健二を業務上横領の容疑で通常逮捕する」
空港の華やかなアナウンスが流れる中、何百人もの旅行客の冷淡な視線を浴びながら、間宮健二は両脇を抱えられ、パトカーの待つ裏口へと無様に引きずられていった。
他人の才能を奪い、虚飾のメッキで身を飾り、甘い汁を吸い続けてきた者たち。
ある者は安ホテルの泥沼で互いの肉を食み合い。
ある者は冷たい手錠をかけられて鉄格子の奥へと連行されていく。
自らの浅ましさによって自滅していく偽物たちの頭上に、完全なる破滅の夜の帳が、音もなく降りていた。




