第55話:自己破産の果て
東京・霞が関の東京地方裁判所中層階。
無機質な白磁タイルの廊下の突き当たりにある破産審尋室の空気は、冬の曇天から差し込む鈍色の光に照らされ、埃ひとつ立たないほどに冷え切っていた。
木目調の安価な化粧板が張られた長机の向こう側に、裁判官と破産管財人の弁護士が並んで座っている。
その机の前にパイプ椅子を置かれ、縮こまるように腰掛けていたのは、神代俊樹だった。
身に纏っているのは、ディスカウントストアのワゴンセールで買い求めた、薄手の安物ウインドブレーカーと色あせた綿パンツ。
かつて南青山のサロンで自慢げに羽織っていたイタリア製の最高級タキシードも、仕立ての完璧なチャコールグレースーツも、すべて裁判所の執行官によって赤紙を貼られ、換価処分のためにトラックへと積み去られていた。
港区のタワーマンションはすでに強制退去となり、高級輸入車も、スイス製の機械式腕時計も、ブランド物の革靴の一足に至るまで競売の対象となった。
両手の親指と人差し指の爪は短く噛み砕かれ、皮膚は赤黒くひび割れている。
無精髭に覆われた頬は骸骨のように落ちくぼみ、かつて口八丁でスポンサーを丸め込んでいたあの饒舌な男の面影は、もはや影も形も残っていなかった。
「……それでは、破産管財人より最終報告を申し上げます」
管財人が事務的な手つきで分厚いファイルをめくった。
「破産者・株式会社アトリエ・アルカにつきましては、配当すべき換価可能資産が一切存在しないため、本日を以て破産手続きを終結。法人格の完全消滅を裁判所に具申いたします」
――株式会社アトリエ・アルカ、消滅。
その冷徹な一言が、俊樹の鼓膜を重く叩いた。
自分が築き上げ、時代の寵児たる証だと自惚れていた城。
それが、いま、書類上の一筆によって、地球上から跡形もなく消し去られたのだ。
「続いて、破産者個人・神代俊樹氏に対する免責審尋に移ります」
裁判官が眼鏡の奥の鋭い目を、俊樹へと向けた。
「神代氏個人名義の債務総額は、アトリエ・アルカの連帯保証債務二億八千万円、ならびに各金融機関からの個人借入金を合わせ、約三億一千万円。これに対し、個人の処分可能財産は、差押禁止動産を除き、預金残高千四百二十円のみ。……破産申し立て自体は受理されます」
「あ……あ……」
俊樹の口から、乾いた掠れ声が漏れた。
自己破産。
これで、この地獄のような借金地獄から解放される――男の浅ましい脳味噌が、一瞬だけ安堵の光を求めようとした。
だが。
審尋室の傍聴席――債権者代理人席に座っていた男が、静かに立ち上がった。
「――裁判長。債権者・神代詩織氏の代理人として、破産法第二百五十二条第一項各号に基づき、免責不許可に関する最終意見陳述を行わせていただきます」
寸分の乱れもなく仕立てられたチャコールグレーのスリーピース・スーツ。
チタンフレームのスクエア眼鏡を中指で押し上げ、静かに一礼したのは、L&V専属の知財弁護士・倉田拓海だった。
「倉田弁護士、発言を許可します」
倉田は手元のアタッシェケースから、製本された分厚い意見書を取り出し、裁判官と管財人、そして俊樹の前へと滑らせた。
俊樹の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。
「神代俊樹氏の負債の内訳のうち、当職の依頼人である神代詩織氏に対する損害賠償債務――金三億二千万円につきましては、破産法第二百五十二条第一項第六号、ならびに民法第七百九条に規定される『悪意の不法行為』により発生した債権であります」
倉田の怜悧な声が、密閉された審尋室の壁に鋭く反響する。
「被申立人・神代俊樹氏は、詩織氏が単独で作成した全四十八アイテムのパターンおよび仕様書を、故意に自己の実績として偽装・冒用し、退職時には実印を無断使用して虚偽の誓約書を偽造。さらに、下請法に違反する組織的な買いたたきと手形の踏み倒しを意図的に行い、巨額の不当利益を私的に享受していました。……これらは明白なる詐害行為であり、悪質な権利侵害であります」
倉田の眼鏡の奥の瞳が、俊樹の青白い顔を真っ直ぐに射抜いた。
「破産法第二百五十三条第一項第二号。……破産者が悪意で加えた不法行為に基づく損害賠償請求権は、免責の効力が及ばない【非免責債権】であります。よって、神代俊樹氏がいかなる破産決定を受けようとも、詩織氏に対する三億二千万円の賠償債務は、一円たりとも免除されることはありません」
「な……っ!?」
俊樹の喉から、ヒッと引きつった悲鳴が上がった。
パイプ椅子をガタガタと揺らし、立ち上がりかける。
「ま、待ってください! 破産したんだぞ!? 身ぐるみ全部剥がされて、家も車も時計も全部差し押さえられたんだ! これ以上、俺から何を奪う気だ! 免責が降りなきゃ……三億二千万の借金が残ったら、俺はどうやって生きていけばいいんだよッ!!」
唾を飛ばし、見苦しく喚き散らす俊樹。
だが、裁判官は書類に目を落としたまま、冷淡に木槌を執るように告げた。
「――申立人・神代俊樹氏。債権者代理人の主張の通り、本件損害賠償債務については非免責債権に該当するものと判断します。破産手続の終結後も、支払い義務は存続します。……審尋を終了します」
「う……あぁぁぁ……っ!!」
絶叫とともに、俊樹は床に膝から崩れ落ちた。
逃げられない。
破産宣告を受けても、借金は消えない。
一生涯、死ぬまで逃れることのできない、三億二千万円という名の巨大な墓標。
それが、自らが妻の才能を盗み、職人たちを踏みにじってきた男に下された、絶対の司法判断だった。
審尋室を出る際、倉田弁護士が俊樹の横を通り過ぎた。
倉田は立ち止まることなく、足元に蹲る男の耳元へ、氷のように冷たい一言を落としていった。
「……なお、アパレル業界の主要団体、ならびに主要メガバンクの信用情報機関に対し、あなたの不法行為の全記録が共有されました。金輪際、あなたがこの業界で職を得ることも、法人を設立することも、銀行口座を開設することすら叶いません。……せいぜい、自らの罪の重さを噛み締めながら、日銭を稼ぐことですね」
カツ、カツ、カツ。
完璧に手入れされた高級革靴の足音が、無機質な廊下の向こうへと遠ざかっていく。
残された俊樹の耳には、ただ、自らの荒い呼吸の音と、絶望の唸り声だけが反響していた。
それから、二ヶ月の月日が流れた。
一月の終わり。
東京の街路は、日本海側から吹き込む強烈な寒波に覆われ、街を歩く人々は分厚いダウンコートやウールのマフラーに身を縮めていた。
新宿駅東口から少し離れた、雑居ビルの路地裏。
吹き溜まる冷たい風に背中を丸めながら、一人の女が、薄汚れた灰色のダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで立ち尽くしていた。
立花莉乃だった。
だが、その姿には、かつて数十万人のフォロワーを従え、「新進気鋭の若きミューズ」としてテレビの画面越しに微笑んでいた面影など、微塵も残っていなかった。
艶やかだった金髪混じりのロングヘアは、何ヶ月も美容院に行っていないのか、根元が黒く伸びてパサつき、乱雑にゴムで束ねられている。
自慢だった陶器のような白い肌は、真冬の乾燥と栄養不足でカサカサに荒れ果て、唇は血色を失って紫色にひび割れていた。
手入れを欠かさなかった指先には、かつて誇らしげに見せびらかしていた派手なジェルネイルの残骸が不格好に剥げ残り、爪の間には黒い埃が詰まっていた。
「……っくしゅん……!」
莉乃は激しく身震いし、鼻をすすった。
足元に転がっているのは、印刷会社から支給されたばかりの、一枚五円のポケットティッシュが詰まった重たい段ボール箱。
彼女の今の仕事は、朝の七時から夕方まで、凍えるようなビル風の吹き抜ける路上に立ち、道行く通行人にチラシとティッシュを配り続ける日雇いのアルバイトだった。
「……お願いします……脱毛サロンの……ティッシュです……」
莉乃が差し出した手を、足早に歩くビジネスマンや若い女性たちは、まるで汚物でも避けるように無言で避けて通り過ぎていく。
誰一人、彼女の顔など見ようともしない。
かつて、自分を見上げて「莉乃ちゃん可愛い!」「憧れです!」と崇拝のコメントを寄せていた、あの同世代の女性たち。
彼女たちにすら、今の莉乃はただの「道端の邪魔なチラシ配りの女」としてしか認識されていなかった。
「……なんで……なんで私が、こんなところで……」
莉乃の唇から、悔し涙とともに掠れた呟きが漏れる。
彼女もまた、神代俊樹と同じく、自己破産を申し立てていた。
だが、倉田弁護士の徹底した追及により、盗作であることを知りながら自己の作品として発表・販売していた行為が「悪意の共同不法行為」と認定され、三億二千万円の連帯債務は一切免責されなかったのだ。
所属事務所から請求された六千五百万円の違約金。
実家の両親は「娘とは縁を切った」と警察に絶縁状を提出し、実家の土地と家屋も仮差し押さえの対象となって、父親は会社を依願退職に追い込まれた。
ネットを開けば、自分の過去の悪行――スタッフを怒鳴り散らしていた音声、他人のデザインの完全パクリ検証画像、そして安ホテルのベッドでの見苦しい醜態が、デジタルタトゥーとして永遠に残り続けている。
街を歩けば、時折、通行人がスマートフォンのカメラを向け、「あいつ、パクリの立花莉乃じゃね?」「うわ、マジで落ちぶれてて草」と嘲笑交じりに写真を撮り、ネットに晒し上げる。
インフルエンサーとしての生命は、完全に息の根を止められていた。
住んでいるのは、板橋区の線路脇にある、風呂なし・トイレ共同の四畳半アパート。
家賃三万二千円を払うため、莉乃は日雇いのチラシ配り、深夜の倉庫での荷物仕分け、早朝のオフィスビルのトイレ清掃といった、過酷な肉体労働を転々とする日々を送っていた。
「痛っ……」
ティッシュの角が、ひび割れた莉乃の親指の付け根に引っかかり、鮮血が滲み出た。
莉乃は指をくわえながら、ふと、かつて自分が嘲笑った人々の顔を思い出していた。
墨田区の町工場で、油にまみれてミシンを踏んでいた佐伯朋香。
指先を針タコとハサミだこで硬くしながら、黙々と型紙を引いていた神代詩織。
そして、「布の重みも分からん素人」と自分を切り捨てた長谷川慎司。
(服を作るって……こんなに手が痛くなることだったの……?)
人体の骨格を知り、重力と向き合い、ミリ単位の線を引くことの過酷さ。
自らの手を動かさず、他人の引いた線の上に適当な色を乗せて「私のインスピレーション♡」と自惚れていた自分の、底知れぬ浅ましさと無知。
だが――その痛みに今さら気づいたところで、奪われた若さも、名声も、二度と戻ってはこないのだ。
午後五時を過ぎ、冬の短い陽光は完全に沈み、新宿のビル街は刺すような冷気とネオンの光に包まれていた。
日当の七千円を受け取り、肩を落として駅へと向かっていた莉乃は、青梅街道を跨ぐ巨大な歩道橋の階段を、軋む膝を引きずりながら登っていた。
歩道橋の上は、四方から吹き付ける強烈なビル風が吹き荒れていた。
寒さのあまり、莉乃は薄いダウンジャケットの前を掻き抱き、俯きながら早足で進む。
その時――。
向かい側から、道路工事の誘導員が着るような、蛍光イエローの安全ベストを羽織った男が、トボトボと歩いてくるのが見えた。
頭には、擦り切れた黒いニット帽を目深に被っている。
安全ベストの下に着ているのは、汚れきった作業着。
右足を引きずり、手には寒さで固くなったコンビニの安おにぎりが一つだけ握られていた。
すれ違う、わずか二メートル手前。
ふっと、風が男のニット帽の鍔を跳ね上げた。
そして、莉乃が寒さに耐えかねて、ほんの一瞬、顔を上げた。
「…………っ!?」
二人の足が、同時に止まった。
凍てつく冬の夜風が、二人の間をビューッと吹き抜けていく。
街灯の白い光の下で、二つの視線が、真正面から交錯した。
神代俊樹と、立花莉乃。
かつて南青山のサロンで、冷えたドン・ペリニヨンを掲げ、「私たちは選ばれた人間」「新しいモードの光」と互いの虚栄心を舐め合っていた、あの共犯者たちの姿がそこにあった。
「……俊、樹……?」
莉乃の唇から、掠れた声が漏れ出た。
目の前の男は、かつて自分が「この男に乗っかればセレブになれる」と見込んで甘えていた、あの自信満々の若きカリスマの面影など微塵も残っていなかった。
日雇いの警備員として夜勤を繰り返し、排気ガスと砂埃に塗れた顔。
削げ落ちた頬。
光を完全に失った、濁りきった魚のような瞳。
そして、俊樹の視線もまた、莉乃の全身を舐めるように走っていた。
荒れ果てた肌、ボサボサの髪、剥げ落ちたマニキュア、そして安物のダウンジャケット。
かつて「俺のインスピレーションの塊」「華のある最高のミューズ」と誇り、妻を捨ててまで選んだあの美しい愛人の、あまりにも無残で、あまりにも醜悪な転落の姿。
一秒。
二秒。
二人の間には、言葉は交わされなかった。
「久しぶり」という挨拶も。
「大変だったな」という労いも。
あるいは、「お前のせいで」という罵倒の言葉すら、零れ落ちてはこなかった。
二人の瞳の奥に瞬時に灯ったのは――。
ただ、底知れぬ、反吐の出るような「嫌悪」と「侮蔑」だった。
この男のせいで、私の人生は終わった。
この女のせいで、俺の城は崩壊した。
他人の才能に寄生していた者同士が、すべてを失った泥の底で直面した、自らの醜悪な鏡写しの姿。
互いに、相手の存在そのものが、自らが犯した愚行と浅ましさの動かぬ証拠であり、見ることすら耐え難い汚物そのものだった。
「…………」
俊樹は、ピクリと口元を歪めると、吐き気を催したかのように、プイッと顔を横へ背けた。
そして、莉乃の存在など最初から視界に入っていなかったかのように、足早に、安全ベストの裾を揺らしながら歩き出した。
「…………」
莉乃もまた、唇を強く噛み締め、忌々しそうに唾を飲み込むと、俊樹とは反対の方向へと顔を背けた。
二人は、すれ違った。
肩がかすめることもなく。
一度として振り返ることもなく。
互いに汚い野良犬を避けるようにして、それぞれの冷たい夜の闇へと、足早に遠ざかっていった。
絆など、最初から存在しなかったのだ。
愛など、一欠片もなかったのだ。
他人の才能を奪い、虚栄の甘い蜜を貪るためだけに結びついていた二匹の寄生虫は、蜜が尽き果てた瞬間、互いを呪い、互いを汚物として見捨て、二度と交わることのない地獄の底へと散り散りに消えていった。
吹きさらしの歩道橋の上を、容赦のない冬の突風が吹き抜けていく。
自らの手で布を愛することも、針を握ることも知らなかった者たちの、完全なる自滅の結末。
――そして、同じ時刻。
墨田区の親水公園近くの路地裏。
かつて佐伯縫製と呼ばれていた町工場を全面改装して誕生した、最新鋭のアトリエの窓からは、温かく、力強い黄金色の光が、夜の闇を優しく照らし出していた。
そこには、真の実力で運命を切り拓き、世界の頂点へと歩みを進める者たちの、誇り高き戦いが息づいていた。




