第53話:赤紙と瓦解
大手町「L&Vタワー」四十八階の特別役員会議室から、警備員たちによってゴミのように引きずり出されてから、わずか三日。
南青山の骨董通りの裏手に佇むアトリエ・アルカ本社ビルは、もはや人の住まう場所ではなく、都市の片隅で異臭を放つ死骸そのものへと変わり果てていた。
三階のオフィス。
すでに電力会社からの供給停止予告を過ぎ、天井の蛍光灯はすべて沈黙していた。
遮光カーテンが中途半端に引き千切られた窓から、初冬の冷たく濁った曇天の光が斜めに差し込んでいる。
暖房が完全に途絶えた室内は、吐く息が白く凍りつくほどの極寒。
床一面には、全国の購入者から「詐欺商品を返品する」「着た瞬間に脇が破れた」「皮膚に折れ針が刺さって化膿した」と怒号の手紙とともに送り返されてきた、五百個を超える段ボール箱の残骸が積み上がっていた。
箱の隙間から垂れ下がるのは、中国の格安工場で縫い飛ばされたペラペラのポリエステルドレスや、歪んだ縫い目がミミズ腫れのようになった安物ジャケット。
それらの化学繊維が湿気を含んで放つ強烈な石油臭と、何日も放置されたコンビニ弁当の腐敗臭が混ざり合い、呼吸をするだけで胃の腑が痙攣するような悪臭が立ち込めていた。
「……う、あ……あぁ……」
社長室のデスクの下。
かつてイタリア製の最高級家具で統一されていたその重厚なマホガニーの天板の下に、神代俊樹は頭を抱え、膝を極限まで抱え込んで蹲っていた。
纏っているのは、あの運命のプレゼンの日にレンタルしたはずの、十五万円のイタリア製タキシードスーツ。
返却期限などとうに過ぎていたが、返す金も気力もなく、脱ぐことすらできずにいた。
膝のあたりは泥と埃で白く擦り切れ、胸元には自らの鼻水と涎の乾いた跡がこびりついている。
何日も髭を剃らず、風呂にも入っていない頬は骸骨のように削げ落ち、目の下には黒々とした隈が張り付いていた。
爪を噛み砕く癖のせいで、両手の指先は赤黒く腫れ上がり、皮膚が裂けて膿が滲んでいる。
金曜日の午後三時――。
東都中央銀行が設定していた、手形の最終決済期日は、昨日、何の手当てもできないまま無慈悲に過ぎ去っていた。
口座残高は、わずか千四百二十円。
アルカ社が振り出していた数千万円の約束手形は、手形交換所において正式に【不渡り】として処理された。
銀行取引停止処分。
法的な倒産が、確定した瞬間だった。
「詩織……詩織……なんでだ……なんで俺が……」
俊樹のひび割れた唇から、意味を成さない呪詛が漏れ出る。
頭蓋骨の内側で、あの四十八階の光景が、壊れたフィルムのように何度も何度も再生されていた。
エグゼクティブチェアを回転させ、冷え切った瞳で自分を見下ろしていた元妻の姿。
『私のアイディアを盗まないと服の一着も作れない無能に、うちの仕事が務まるとでも思っていたの?』
そして、テーブルの上に放り捨てられた「布の死骸」。
倉田弁護士から胸元へ叩きつけられた、三億二千万円の損害賠償請求書――。
逃げ道は、完全に塞がれていた。
自己破産を申し立てても免責されない「悪意の不法行為」による巨額債務。
二億八千万円の負債の上に、さらに三億二千万円の墓標が覆いかぶさり、総額六億円を超える絶望の鎖が、俊樹の首をギリギリと絞め上げていた。
――ドンドンッ! ドンドンッ!
その時。
静まり返ったオフィスの鉄製ドアを、容赦なく激しく叩く暴力的な金属音が響き渡った。
「ヒッ……!?」
俊樹の身体が、電流を流されたように跳ね上がった。
机の天板に頭を強打し、鈍い痛みが走るが、声を上げることすらできない。
俊樹は息を殺し、机の奥の暗闇へとさらに身を縮め、両手で耳を塞いだ。
「神代俊樹氏! 在室しているのは分かっています! 開けなさい!」
ドアの向こうから響いてきたのは、事務的で、冷酷な男の声だった。
ガチャリ、と鍵穴を特殊な器具で操作する硬質な音がした直後、バタン! と重いドアが押し開けられた。
冷たい廊下の風とともに、数名の足音がオフィスへと踏み込んでくる。
先頭に立っていたのは、黒いコートを羽織り、腕に腕章を巻いた中年男性――東京地方裁判所民事執行センターの執行官だった。
その背後には、二名の執行補助員。
そして――。
「……相変わらず、饐えた匂いのする吹き溜まりですね」
チタンフレームのスクエア眼鏡の位置を中指で直しながら、静かに歩み入ってきたのは、L&V専属の知財専門弁護士・倉田拓海だった。
寸分の乱れもなく仕立てられたチャコールグレーのスリーピース・スーツ。
手には、東京地方裁判所の公印が鮮明に押された、決定通知書の束が握られていた。
「執行官殿、こちらです。株式会社アトリエ・アルカの登記上の本店所在地、ならびに代表者・神代俊樹氏の主たる執務室です」
「うむ。確認した」
執行官が厳格な声で頷き、胸ポケットから一枚の令状を取り出した。
「債権者・神代詩織の申し立てによる、損害賠償請求事件(令和八年第七八四二号)に基づく動産仮差し押さえ命令を執行する。……神代俊樹氏、出てきなさい!」
執行官の声が、薄暗いオフィスに木霊した。
机の下で震えていた俊樹は、もはや隠れ通すことが不可能だと悟り、這いずるようにしてデスクの隙間から顔を出した。
埃にまみれたタキシード、血走った目、引きつった頬。
かつて南青山で「気鋭のカリスマ」とメディアに持ち上げられていた男の姿は、そこには微塵もなかった。
「な……何なんですか、あなたたち……! 勝手に人のオフィスに入り込んできて……!」
俊樹は掠れた声で、弱々しく威嚇した。
だが、倉田は俊樹の醜い姿を見下ろし、冷徹な笑みを浮かべただけだった。
「神代俊樹氏。三日前の特別役員会議室でお伝えした通りです。東京地裁民事第九部に対し申し立てを行っておりました『三億二千万円の損害賠償請求に伴う仮差し押さえ命令』が、本日午前九時を以て正式に発令されました」
倉田の指先が、書類の一行をなぞる。
「本日付で、アルカ社のメインバンクである東都中央銀行、ならびに全取引金融機関の口座はすべて凍結されました。さらに、本オフィス内に存在するすべての什器、パソコン、通信機器、金庫内の動産、ならびに倉庫内に保管されている全製品在庫に対し、これより裁判所執行官による現況調査および仮差し押さえの執行を行います」
「さ……差し押さえ……!?」
俊樹の喉が詰まった。
「作業を開始してください」
執行官が短く命じた。
二人の執行補助員が、手にした大型のトートバッグから、束になった「あるもの」を取り出した。
それは――鮮烈な赤色をした、四角い紙片。
公の権力によって所有者の自由な処分を禁じる、裁判所の【差押標章】――通称「赤紙」だった。
「や、やめろ……! 何をするんだッ!」
俊樹の悲鳴を無視し、補助員たちは機械的な手際で作業を進めていった。
ペタッ。
俊樹が座っていたマホガニーのデスクの天板に、一枚目の赤紙が貼り付けられた。
ペタッ。
デザイン用の大型モニターと、顧客データが入ったパソコンの本体に。
ペタッ。
壁際に置かれていた耐火金庫の扉に。
ペタッ、ペタッ、ペタッ――。
応接用の革張りソファ、打ち合わせ用テーブル、壁のエアコン、棚に並ぶサンプル生地の反物、そして廊下に積まれた返品段ボールの山に至るまで、オフィスのありとあらゆる動産の上に、鮮血のような赤い紙片が次々と貼り付けられていく。
「これらはすべて、裁判所の管理下に置かれました」
執行官が事務的に告げる。
「標章を汚損、破損、または無断で剥がした場合は、刑法第九十六条の封印等破棄罪に問われ、三年以下の懲役または二百五十万円以下の罰金に処せられます。勝手な持ち出しは一切認められません」
「う……うそだ……! 俺のデスクだぞ! 俺のパソコンだぞ!!」
俊樹は床に爪を立て、狂ったように叫んだ。
「全部、俺が会社を立ち上げてから買い揃えたものだ! お前たちに奪う権利なんかないはずだ!!」
「あなたの物ではありませんよ、神代俊樹氏」
倉田が冷ややかに言い放った。
「これらはすべて、詩織さんの才能を搾取し、下請け工場を買い叩いて浮かせた不正な利益によって購入されたものです。……本来、詩織さんに支払われるべきであった正当な対価の一部に過ぎません。競売にかけられ、配当として回収されます」
倉田は手帳を閉じ、冷淡な視線を床の男へと落とした。
「なお、あなたが居住している港区のタワーマンションに対しても、現在、別の執行官が仮差し押さえの執行に入っております。本日を以て、あなたの私有財産は文字通りゼロになりました。……せいぜい、今後の破産管財人との面談に備えておくことですね」
「あ……あぁ……」
俊樹は頭を抱え、赤紙の貼られたデスクの脚に額を押し付けて咽び泣いた。
城が。
自らの誇りであり、虚栄の象徴であったアトリエ・アルカという城が、音を立てて瓦解していく。
だが――地獄は、まだ始まったばかりだった。
――バタンッ!!
再び、オフィスのドアが乱暴に蹴破られるように開かれた。
入ってきたのは、仕立ての硬いダークスーツを着た、血相を変えた中年男性だった。
東都中央銀行・青山支店の融資課長、佐山。
その背後には、二名の屈強な銀行員が付き従っていた。
「神代社長ッ!!」
佐山の怒声が、静まり返った部屋を劈いた。
佐山は散乱する段ボール箱を蹴散らしながら大股で詰め寄り、デスクの下に蹲る俊樹の胸ぐらを、力任せに掴み上げた。
「ぐえっ……!?」
俊樹の身体が引きずり出される。
「貴様ァッ!! 昨日、手形が落ちなかったのはどういうことだッ!!」
佐山の額に青筋が激しく浮き上がり、唾が俊樹の顔面に降り注いだ。
「『L'OMBREの一次サプライヤーに内定した』『今日にも契約書を持っていく』と、あれほど大口を叩いていたのは全部嘘だったのかッ!? 今朝、L&Vの法務部に照会をかけたら何と言われたと思う!? 『株式会社アトリエ・アルカは重大な規約違反により即時不合格、永久出入り禁止にした』だとッ!?」
「さ、佐山課長……そ、それは……」
俊樹はガクガクと顎を震わせ、白目を剥きかけた。
「ふざけるなッ!!」
佐山は俊樹を床へと乱暴に投げ倒した。
ドサリ、と俊樹の身体が段ボールの山へと突っ込む。
「当行からの既存融資残高、一億八千二百四十万円! 本日午前九時を以て、期限の利益は完全に喪失した! 直ちに全額を一括で耳を揃えて返済しろ!!」
佐山は懐から叩きつけるように、一枚の赤い公的文書――『融資即時全額返済請求書』を俊樹の顔面へと投げつけた。
紙の角が俊樹の頬を切り、血がツーと垂れ落ちる。
「返せないなら、自己破産の手続きに入れ! 当行はお前のタワマンも、個人保証の財産も、骨の髄まで差し押さえて回収する! ……貴様のような口先だけのペテン師に融資を通したことが、私の銀行員人生における最大の汚点だ! 業界のゴミが、二度とその薄汚い面を私の前に見せるなァッ!!」
佐山は激しく机を蹴り飛ばすと、赤紙の貼られたオフィスを一瞥し、忌々しそうに唾を吐いて去っていった。
銀行からも、完全に切り捨てられたのだ。
「う……うぅ……うわあああああッ!!」
俊樹は床を転がり、散乱する書類と段ボールのゴミに顔を埋めて絶叫した。
六億円の負債。
裁判所の赤紙。
銀行からの即時返済要求。
すべてが、終わった。
神代俊樹という男の社会的生命は、今この瞬間、完全に絶たれたのだ。
――だが。
真の破滅の嵐は、さらにその外側から、津波のように押し寄せてきていた。
ザワザワ……ザワザワ……。
ビルの階段を、無数の足音がドタドタと駆け上がってくる不気味な地鳴りが響き始めた。
一人や二人ではない。十人、二十人――尋常ではない人数の気配。
「神代社長は中か!?」
「ドアが開いてるぞ! 入れッ!」
次の瞬間。
オフィスの開け放たれたドアから、怒涛の勢いで雪崩れ込んできたのは、無数のカメラとマイクを構えた報道陣の群れだった。
――ピカッ! パシャパシャパシャッ!!
強烈な白いストロボの閃光が、薄暗いオフィスを一瞬にして昼間のように照らし出した。
「神代社長ですねッ!?」
「週刊モードプレスの者です! 先日のジャパン・モード・クリエイション大賞受賞作『宵闇のプリマ』をはじめ、過去五年間のアルカ社の主要作品が、すべて元妻・神代詩織氏のゴーストワークだったというのは事実ですか!?」
「テレビ毎朝の報道部です! 立花莉乃氏の『寝ている間にインスピレーションが降りてくる』という発言は、すべて元妻の設計図を盗作した上での虚偽の宣伝だったのですか!?」
「神代さん! 公正取引委員会に下請法違反で告発された件について一言お願いします! 佐伯縫製をはじめとする中小工場への買いたたきと手形の踏み倒しは、意図的なものだったのですか!?」
パシャパシャパシャパシャッ!!
容赦のないカメラのフラッシュの嵐。
突き出される無数のICレコーダーと指向性マイク。
かつて――俊樹が何よりも愛し、自らの虚栄心を満足させるために巧みに利用してきた「メディアの光」。
だが、今、彼に向けられているその光は、時代の寵児を讃えるスポットライトなどではなかった。
他人の才能を貪り食い、職人を踏みにじってきた醜悪な寄生虫を、白日の下に晒して焼き尽くすための、処刑の炎だった。
「や、やめろ……! 撮るな! カメラを止めてくれッ!!」
俊樹は両手で顔を覆い、床を這い回った。
だが、記者たちは容赦なく俊樹を取り囲み、逃げ道を塞いでフラッシュを焚き続ける。
「神代さん! 三ツ星百貨店からの四千五百万円の損害賠償請求についてはどう対応されるおつもりですか!?」
「中国工場に丸投げして折れ針が混入したドレスを販売した件、購入者への謝罪会見は開かないのですか!?」
「逃げないで答えてください! 神代社長!!」
「うわああああっ! 来るな! 俺は悪くない! 俺は騙されたんだ! 全部、間宮と莉乃がやったことだァァッ!!」
俊樹は喚き散らしながら、床に転がっていた自らのボロボロのコートを引っ張り上げると、頭からすっぽりと被った。
そして、記者たちの足の隙間を、まるで泥水に塗れた野良犬のように四つん這いになって突き破り、オフィスの奥の非常扉へと向かって遮二無二に突進した。
「あっ、逃げるぞ! 追え!」
「神代社長! 待ち伏せしないでください!」
ガチャリ!
非常扉を力任せに体当たりで開け放つ。
吹き込んできたのは、冬の冷たい雨混じりの北風。
俊樹はコートを頭から被ったまま、錆びついた非常階段を、転がり落ちるようにして駆け下りた。
ドタドタドタッ!
靴が脱げそうになりながら、手すりに何度も身体を打ち付ける。
背後からは、記者たちの怒号と、容赦のないシャッター音が階段の吹き抜けを反響して追いかけてくる。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
一階の裏口。
ゴミ集積所の横の狭い路地へと転がり出た俊樹は、泥水のアスファルトに手をついて激しく咳き込んだ。
膝からは血が流れ、レンタルタキシードの裾は完全に引き裂かれていた。
だが、立ち止まることはできない。
骨董通りの表側には、さらに多くの取材車両や、返金を求める債権者たちの姿が見えていた。
俊樹はコートを深く被り、顔を完全に隠しながら、冷たい雨の降る東京の路地裏へと、逃げ惑うように走り出した。
帰る家はない。タワマンは差し押さえられた。
会社はない。赤紙が貼られ、倒産した。
金はない。口座は凍結された。
そして、デザイナーとしての信用も、名声も、誇りも――すべてが、白日の下に暴かれ、地に堕ちた。
かつて雨の夜に、元妻・神代詩織を五拾万円の手切れ金とともに追い出した男が。
今、自らが仕掛けた嘘と欺瞞の瓦礫の中で、誰からも見向きもされず、追手から逃げ惑う惨めな敗残者として、泥水の中を這いずり回っていた。
冷たい雨が、容赦なく、男の背中を打ち据え続けていた。




