第52話:三億二千万円の墓標
床に散乱した書類の白さが、黒大理石のミーティングテーブルの足元で、まるで無数の墓標のように冷たく散らばっていた。
地上二百メートル。窓外から降り注ぐ冬の鋭利な日光が、床に突っ伏した神代俊樹の震える両手を照らし出している。
俊樹の視線は、自らの指先のすぐ数センチ先――紙吹雪のように舞い落ちた書類の束の最後の一枚、右下に太いゴシック体で印字された一行へと、磁石のように吸い寄せられていた。
そこに刻まれていたのは、一瞬、目の前の男の脳がその桁数を理解することを拒絶するほどの、天文学的な数字の羅列だった。
――『請求総額:金参億弐仟万円也(¥320,000,000-)』。
「…………っ」
俊樹の肺腑から、空気が完全に抜けた。
カヒュッ、と喉の奥で乾いた音が鳴り、そのまま呼吸が止まる。
心臓が早鐘のように跳ね上がり、激しい耳鳴りが頭蓋骨の内側を金属のやすりで削るように響き渡った。
参億、弐仟万円。
三億……二千万円。
「さ……さん……」
俊樹の唇が、泥に塗れたように痙攣した。
血走った両目が、書類の文字を狂ったように何度も何度も往復する。コンマの位置を数え、ゼロの数を数え、それが印刷ミスでも見間違いでもないという冷酷な現実に直面するたびに、体温が急速に奪われていく。
「……さ、3億……2000万円……!?」
俊樹の口から絞り出されたのは、もはや人間の言葉としての響きを失った、壊れた笛のような掠れ声だった。
現在、アトリエ・アルカが抱えている負債総額は、二億八千万円。
東都中央銀行からの融資残高、三ツ星百貨店からの損害賠償請求、生地問屋や下請けへの買掛金、そして間宮健二が持ち逃げした使途不明金――それらすべてを合わせた二億八千万円ですら、明日午後三時の手形不渡りによって会社を完全に圧殺するはずの致死量だった。
そこに――さらに、三億二千万円。
合わせれば、優に六億円を超える。
中小のアパレル企業が一瞬で吹き飛び、代表者個人が一生涯かけても一円すら返しきれない、完全なる破滅の深淵。
「ええ」
俊樹の頭上から、剃刀の刃先のように冷淡な声が降ってきた。
L&V専属の知財専門弁護士・倉田拓海。
チタンフレームの眼鏡の位置を中指で静かに直しながら、倉田は手元のフォルダーを開き、まるで公判記録を淡々と読み上げる書記官のような平坦な口調で言葉を継いだ。
「内訳を説明いたしましょうか。
第一に、神代詩織氏が過去五年間にわたり単独で設計・作成した全四十八アイテムのパターンおよび仕様書に対し、本来支払われるべきであった正当なデザインライセンス料、ならびに売上ロイヤリティ相当額――一億八千五百万円。
第二に、それらの著作物を無断で自社の意匠・特許として処理し、神代俊樹および立花莉乃名義で公表・販売したことによる、不正競争防止法第二条第一項の誤認惹起行為に基づく逸失利益の賠償請求――九千五百万円。
そして第三に、著作者人格権(氏名表示権)の悪質な侵害、ならびに退職時における虚偽誓約書の偽造・同行使、および長年にわたる精神的搾取に対する慰謝料――四千万円」
倉田の怜悧な指先が、フォルダーのページをパチンと弾いた。
「合計、三億二千万円。……当グループの国際知財算定基準、ならびに東京地方裁判所の直近の知財高裁判例に照らし合わせても、極めて妥当、かつ一切の減額の余地のない確定損害額です」
「ば……馬鹿なッ!!」
俊樹は床の書類を掴み、力任せに引き裂こうとした。
だが、冷汗で湿った指先には力が入らず、紙の端がくしゃりと折れ曲がっただけだった。
「払えるわけがない! こんな金、払えるわけがないだろうがッ!! 三億二千万だと!? アルカの口座には今、千円ちょっとしか残ってないんだ! 明日には手形が不渡りになって破産するんだぞ! 破産する会社に、そんな天文学的な金を請求して何の意味があるって言うんだ!!」
俊樹は唾を飛ばし、血走った目を剥き出しにして倉田を見上げた。
破産。
そうだ、自己破産してしまえばいいのだ。
会社を畳み、個人破産を申し立てれば、すべての借金はチャラになる。法的な免責を受ければ、どれほど巨額の請求書を突きつけられようと、払う義務など消滅するはずだ――男の浅ましい脳髄が、最後の逃げ道としてその都合のいい解釈に縋り付こうとした。
だが。
倉田の眼鏡の奥に浮かんだのは、すべてを見透かした冷酷な嘲笑だった。
「自己破産すれば逃げられるとでもお思いですか?」
「な……っ!?」
「破産法第二百五十二条第一項第六号、ならびに民法第七百九条」
倉田は一歩、俊樹の眼前へと踏み出した。
「故意による不法行為、ならびに悪意をもって他者の財産権および人格権を侵害して生じた損害賠償請求権は、破産法上の【非免責債権】に該当します。……つまり、あなたがどれほど法廷で頭を下げて破産宣告を受けようと、この三億二千万円の債務が消えることは未来永劫、一円たりともあり得ません」
「ひ……っ!?」
「支払い期日は、本通知到達より二週間後――今月二十五日の正午です」
倉田は腕時計を一瞥し、冷然と言い放った。
「期日までに全額の弁済が確認できない場合、当グループ法務部は直ちに東京地方裁判所へ申し立てを行い、株式会社アトリエ・アルカの全資産、保有商標、売掛金、ならびに代表者個人である神代俊樹氏の個人名義口座、有価証券、そして現在居住されている港区のタワーマンションに対する【仮差し押さえ命令】を一斉に執行いたします」
仮差し押さえ。
非免責債権。
死ぬまで逃げられない、三億二千万円の負債の鎖。
死刑判決などという生ぬるいものではない。自らが犯した盗作と搾取の報いを、生きている限り、自らの肉体を削り落として払い続けろという、地獄の永罰宣告だった。
「あ……、あぁ……」
俊樹の口から、魂の抜けたような掠れ声が漏れた。
大理石のテーブルに突いていた手が滑り、男は完全に力なく、散らばる書類の海の中へと突っ伏した。
その時だった。
「――っ! ふ、ふざけないでよッ!!」
部屋の隅、珪藻土の壁際にへたり込んでいた立花莉乃が、まるで火のついた藁のように跳ね起きた。
乱れた深紅のドレスの裾を踏みつけそうになりながら、莉乃は折れかけたピンヒールを必死に踏ん張り、大理石のテーブルの端へと駆け寄ってきた。
「わ、私には関係ないわよね!? そうよね、弁護士さん!?」
莉乃の唇が、激しいパニックで歪んでいた。
涙とマスカラで真っ黒に汚れた顔を振り乱し、必死になって両手を胸の前で振る。
「私、ただのモデルよ!? 俊樹さんに頼まれて、デザイン画のイメージを描いただけよ! 難しい契約のことなんて何も知らないし、会社のお金のことだって全部俊樹さんがやってたの! 仕様書を書き換えたのだって、工場の名前を勝手に使ったのだって、全部この男がやったことじゃない!! 私、被害者なのよ! この男に騙されて、利用されていただけなの!!」
見苦しい保身。
数日前まで、西麻布のバーで「俊樹さんと私で時代を変えるの♡」とシャンパンを煽り、先ほどまで「私の感性と色気で外資を落としてみせる」と豪語していた女が、船が完全に沈んだと悟った瞬間、すべての罪を男へと擦り付け、一秒で裏切ってみせたのだ。
「私を巻き込まないでよ! 私のインスタのフォロワーだって、全部奪われて、事務所からも首を切られたのよ!? これ以上、私から何を奪う気なのよ! 私は帰るわ! こんな悪夢みたいな部屋、一秒だっていないわよ!!」
莉乃は床に落ちていた自らのバッグを拾い上げ、黒檀の防音扉へと向かって駆け出そうとした。
自らの罪から目を背け、この場から逃げ出しさえすれば、すべてがなかったことになるかのように。
だが。
「――立花莉乃さん」
倉田拓海の低く、平坦な声が、逃げようとする莉乃の背中を、見えない鎖のように絡め取った。
倉田は視線すら上げず、手元のタブレットの画面をスクロールさせながら、冷淡に追撃の刃を突き立てた。
「民法第七百十九条第一項――共同不法行為者の連帯責任」
「え……?」
莉乃の足が、ピタリと止まった。
「あなたは、提出された全四十八アイテムの仕様書、ならびに受賞作『宵闇のプリマ』のパターンが、神代詩織氏の単独の創作物であることを明確に認識していましたね?」
「そ、それは……」
「先日のテレビ密着特番において、あなたは『寝ている間にインスピレーションが降りてくる』と虚偽の事実を公言し、詩織氏の著作物を自己の創作物であると偽ってメディアに発表しました。その結果、ジャパン・モード・クリエイション大賞における最優秀新人賞の賞金、ならびに多数の企業案件、モデル料としての経済的利益を直接享受しています」
倉田は眼鏡の奥の冷たい瞳を、ゆっくりと莉乃へと向けた。
「知財の剽窃であることを知りながら、それを自己の名義として冒用し、利益を得る行為は、明白な共同不法行為です。……よって、立花莉乃さん。あなたに対しても、神代俊樹氏と【同額の三億二千万円】を、連帯債務者として全額請求いたします」
「れ……連帯……債務……?」
莉乃の瞳孔が、極限まで収縮した。
「ええ。俊樹氏が破産しようが無一文になろうが、あなたには三億二千万円の全額を弁済する法的義務が、同等に課せられます。……逃げられるとお思いですか? すでにあなたの所属事務所、ならびにご実家に対しても、本損害賠償請求書の副本を内容証明郵便にて発送済みです」
「さ、三億……!? 私が……三億二千万……!?」
ドサリ。
莉乃の膝から、完全に力が抜けた。
手にしたブランドバッグが床に落ち、中からファンデーションのコンパクトや口紅が無残に転がり出る。
莉乃は両膝をチャコールグレーの絨毯に強打し、その場に崩れ落ちた。
「う……あ……あああああ……っ!」
二十三歳の読者モデルの口から、言葉にならない汚い悲鳴が漏れ出た。
三億二千万円。
インフルエンサーとしての生命は終わり、事務所からは六千五百万円の違約金を請求され、実家からは勘当され、その上に、一生涯かけても逆立ちしても払えない三億二千万円の負債が覆いかぶさってきたのだ。
顔面を覆う指先が激しく痙攣し、あまりの恐怖と絶望に、莉乃の喉からヒクッ、ヒクッと過呼吸の音が鳴り響く。
下腹部が冷たく収縮し、失禁寸前の恐怖で、深紅のドレスの裾が床の上で惨めに濡れそうになっていた。
「もう……終わりだ……」
床に突っ伏した俊樹が、泥の底から呻くような声を上げた。
「全部……終わりだ……。アルカも……俺の人生も……全部……」
だが、その絶望の淵にあってもなお、俊樹の心の奥底で蠢いていたのは、反省ではなく、醜悪なまでの未練だった。
俊樹は這うようにして顔を上げ、黒大理石のテーブルの向こう側――一度として自分に慈悲の目を向けようとしない、神代詩織の足元を見上げた。
「詩織……! 頼む、詩織ぃぃぃッ!!」
俊樹は床を這い、大理石のテーブルの脚を狂ったように引っ掻いた。
爪が剥がれ、血が絨毯を汚すのも構わずに、喉を張り裂けんばかりに叫ぶ。
「助けてくれ! 俺が悪かった! お前の言う通りだ、俺は無能なダニだ! お前の才能がなきゃ何もできないクズ野郎だ!! だから……だから頼むよ詩織! 訴えを取り下げてくれ! 俺を刑務所に入れないでくれ! 路上で野垂れ死にさせないでくれよォォォッ!!」
涙と鼻水、そして剥がれた爪の血で顔面を真っ赤に染め上げ、見苦しく叫び続ける元夫。
かつて南青山のサロンで優雅にワインを傾け、妻を「地味な作業員」と切り捨てた男の、これが真の正体だった。
他人の才能を奪わなければ一歩も歩けず、虚飾のメッキを剥ぎ取られれば、ただ地面を這いずり回ることしかできない、哀れな寄生虫。
詩織は、その姿を冷淡に見下ろしていた。
その瞳には、勝利の歓喜も、復讐の快感すら浮かんでいなかった。
あるのは、ただ、役目を終えたハサミを机に戻す時のような、深海のように静かで、研ぎ澄まされた冷徹さだけだった。
「…………」
詩織は何も言わなかった。
一言の罵倒も、一滴の同情も、この男には与える価値がないと知っているかのように。
その詩織の沈黙を合図にするように、隣に立つレオン・城崎・ヴァランタンが、静かに右手をわずかに持ち上げ、指をパチンと鳴らした。
「――連れて行きなさい」
レオンの低く、無機質な一言が落ちた。
――ガチリ。
背後の黒檀の防音扉が勢いよく開かれた。
室内に踏み込んできたのは、L&Vタワーの専属セキュリティスタッフ――黒いタクティカルスーツに身を包んだ、身長百九十センチを超える屈強な四名の警備員たちだった。
無言のまま、整然とした足取りで部屋の中央へと進み出る。
「詩織! 詩織ぃぃぃぃッ!!」
俊樹がテーブルにしがみつこうと腕を伸ばす。
だが、二名の警備員が左右から俊樹の腕を掴み、鋼のような力で床から引き剥がした。
「放せッ! 触るな! 俺はアトリエ・アルカの代表取締役だぞ! 詩織! 頼む、話を聞いてくれ! 詩織ィィィッ!!」
俊樹は両足をバタつかせ、唾を撒き散らしながら暴れ狂ったが、鍛え上げられた警備員の腕力の前には、羽虫の抵抗にも等しかった。
両脇を完全に抱え上げられ、俊樹の身体は宙に浮いたまま、出入り口へと向けて強引に引きずられていく。
「嫌ぁぁぁッ! 離しなさいよ! 触らないでッ!」
床で腰を抜かしていた莉乃もまた、残る二名の警備員によって両腕を抱え上げられた。
折れたピンヒールが脱げ落ち、深紅のドレスの裾が無様に絨毯を掃く。
莉乃は髪を振り乱し、泣き叫びながら抵抗したが、警備員たちは表情一つ変えず、彼女の身体を会議室の外へと運び出していく。
「詩織ぃぃぃッ! 詩織ぃぃぃぃぃぃッッ!!」
「私の人生を返してよぉぉぉッ!!」
二人の絶叫と悲鳴が、重厚な扉の向こう――四十八階の大理石のエレベーターホールへと反響していった。
かつて南青山のサロンで、虚栄と欺瞞の甘い蜜を貪り合っていた共犯者たちの、あまりにも無様で、あまりにも醜悪な退場劇。
――バタン。
黒檀の防音扉が、重たい密閉音を立てて完全に閉じられた。
電子ロックがカチリと噛み合う音が響く。
その瞬間。
二人の汚い叫び声は、外界の空気ごと完全に遮断された。
百平米を超える特別役員会議室に、再び、凛とした静寂が戻ってきた。
「…………」
部屋の中に流れるのは、完璧に空調された澄んだ空気の微かな風音だけだった。
床には、散らばった三億二千万円の損害賠償請求書、破られた莉乃のポートフォリオ、そしてテーブルの上に潰れた「布の死骸」。
だが、それらの瓦礫すら、この空間の圧倒的な美意識を揺るがすことはもはやできなかった。
「……終わったな、詩織さん」
後ろに控えていた長谷川慎司が、胸ポケットの真鍮スケールにそっと指を添え、深く息を吐き出した。
その声には、二十年間の呪縛から解き放たれた職人の、静かな安堵が滲んでいた。
倉田拓海弁護士が、散らばった書類の控えを静かにケースへと収め、一礼する。
「東京地裁への仮差し押さえ申し立て、ならびに公正取引委員会への追加証拠提出は、予定通り明日午前十時に執行いたします。……アルカ社、ならびに神代俊樹氏の逃げ道は、これで完全に消滅いたしました」
「ご苦労だった、倉田」
レオンが優雅に歩み寄り、大理石のテーブルの奥に立つ詩織の横顔を見つめた。
琥珀色の瞳に、深甚なる敬意が宿っている。
「見事だったよ、マダム・影。……君を縛り付けていた過去の亡霊たちは、自らの手で首に縄をかけ、完全に断頭台の露と消えた。君の復讐は……これで完全に完結した」
レオンの言葉。
だが――神代詩織は、窓の外の青空へ視線を向けることも、去っていった元夫たちの背中を思い返すことすらしなかった。
彼女の瞳には、復讐を成し遂げた者の昂揚も、感傷の涙も、一欠片たりとも存在していなかった。
詩織は、白革の手袋をゆっくりと外した。
手袋をポケットへと収めると、彼女の素手の指先が、黒大理石のテーブルの片隅に静かに置かれていた「ひとつのもの」へと伸びた。
それは――。
愛知県一宮市の奥田創が、半世紀前のションヘル織機で命を削って織り上げた、あの深遠な漆黒のウール――『L'OMBRE』の次期コレクションのために用意された、特注ファブリックのスワッチ(生地見本)だった。
詩織の指先が、布の表面を撫でる。
指先の皮膚の奥深くに、空気を抱き込んだ糸の温もりと、反発する弾性が伝わってくる。
針タコとハサミだこが刻まれたその手は、先ほどまでの冷徹な処刑人の手から、一瞬にして、布の命を慈しむ「本物のクチュリエの手」へと戻っていた。
「……いいえ、レオン」
詩織は顔を上げ、凛とした澄んだ声で言った。
「復讐など、私の人生の目的ではありません。……あの男たちに奪われ、泥水に捨てられた私の服の尊厳を、元の場所へ戻しただけです」
詩織は振り返り、長谷川慎司を見据えた。
その瞳の奥には、パリのランウェイを制圧した時よりも遥かに熱く、崇高な職人の炎が静かに燃え盛っていた。
「長谷川さん。……次のシーズンの仮縫い(トワル)の続きを始めましょう」
長谷川が目を見張り、そして誇らしげに、満面の笑みを浮かべて頷いた。
「……ああ! いつでもいけるぞ、詩織さん!」
影の中で耐え忍ぶ時間は、終わったのだ。
泥舟の寄生虫たちを自滅の奈落へと葬り去り、過去のすべての鎖を断ち切った女は、今、自らの技術だけを携えて、本物の光が待つ世界の頂点へと歩み出そうとしていた。




