第51話:即時失格と知財の処刑宣告
神代詩織が放った最後の一撃――「私のアイディアを盗まないと、服の一着すら作れない無能に、うちの仕事が務まるとでも思っていたの?」という氷刃のような言葉が、地上二百メートルの聖域を切り裂いた後、部屋を支配したのは息の詰まるような完全な沈黙だった。
黒大理石の長大なミーティングテーブルの足元。
神代俊樹は、額をチャコールグレーの吸音絨毯に擦り付けたまま、指先一つ動かすことができずにいた。
呼吸が浅く、喉がヒューヒューと笛のような異音を立てている。
全身の血管から熱が奪われ、レンタルした十五万円のイタリア製タキシードは、自らの冷たい脂汗で重く湿り、まるで濡れた鉛の拘束着のように彼の肉体にへばりついていた。
無能。
寄生虫。
かつて自分が妻を精神的に支配し、狭いアトリエに縛り付けておくために吐き捨てていた呪詛の言葉が、何百倍もの重量を持つ絶対の「真実」となって、自らの頭蓋骨を粉々に打ち砕いていた。
テーブルの上には、形骸化したカシミヤ混ウールのジャケット――肩のイセ込みを狂わされ、裏地のキセを奪われ、地の目を無視して切り刻まれた「布の死骸」が無残に潰れている。
そしてスチール製ゴミ箱の脇には、立花莉乃が自らの美貌と虚栄を誇示するために持ち込んだ、金箔押しのポートフォリオが紙屑となって散らばっていた。
持ち込んだすべての虚飾が、寸分の狂いもないプロフェッショナルの技術と論理の前に、ただの汚物として解体されたのだ。
「……あ、あ……」
壁際で腰を抜かし、床に座り込んでいた立花莉乃は、乱れた深紅のドレスの裾を掻き抱きながら、小刻みに歯を鳴らしていた。
濡れたような真紅のルージュは涎と涙でドロドロに溶け、厚塗りのファンデーションが剥がれ落ちた頬は、まるで死人のように土気色に変色している。
詩織は、その女に視線一つ向けていない。
まるで最初からその場所に何も存在していないかのように、視界の端に入れることすら拒絶されていた。その絶対的な「無価値の烙印」に、莉乃の貧弱な自尊心は完全に圧殺されていた。
――カツ、カツ、カツ。
静寂を破り、重厚な靴音が響いた。
大理石の天板に反射する冬の鋭利な日光を浴びながら、一人の男が優雅な足取りで前に進み出る。
レオン・城崎・ヴァランタン。
ミッドナイトブルーのスリーピース・スーツに身を包んだL&Vホールディングスのアジア総括CEOは、詩織の横を通り抜け、床に這いつくばる俊樹の眼前――わずか一メートルの位置で立ち止まった。
レオンは組んでいた腕を解くと、手袋を外した長い指先で、テーブルの上のアルカ社の提案書をトンと叩いた。
琥珀色の瞳の奥に、極上の喜劇の終幕を見届ける冷酷な光が宿っている。
「……さて。神代俊樹氏、ならびに立花莉乃氏」
低く、甘く、だが鼓膜を直接麻痺させるような男の声が、静まり返った部屋に落ちた。
レオンは一度も俊樹の顔を見下ろそうとはせず、ただ宙の一点を見つめたまま、事務的な、あまりにも無機質な宣告を口にした。
「当グループ選考委員会、ならびに最高技術顧問の厳正なる審査に基づき、結論を申し渡す」
俊樹の背中が、ビクリと痙攣した。
顔を上げられない。
だが、聞きたくないその言葉が、耳を塞ぐことすら許されずに鼓膜へと突き刺さる。
「株式会社アトリエ・アルカ。……第一に、提示されたサンプルの構造的欠陥、左右非対称のイセ込み不良、およびパターン設計の破綻に見られる致命的な『技術力不足』。
第二に、直近の自社製品における折れ針混入事件、ならびに七割を超える返品率に見られる、初歩的な『品質管理能力の完全な欠如』。
そして第三に――提出された仕様書における著作者名義の改ざん、ならびに奥田織物、佐伯縫製をはじめとする国内名門工場との虚偽の提携記載」
レオンの言葉が、一つひとつ、冷たい杭のように俊樹の身体に打ち込まれていく。
「よって、貴社の『L'OMBRE』日本国内一次サプライヤー公募へのエントリーは、重大な規約違反、ならびにコンプライアンス違反として、本選考において【即時不合格】とする」
――即時不合格。
その四文字が下された瞬間、俊樹の喉から「ヒュッ」と空気の漏れる音が上がった。
「なお」
レオンは一切の情け容赦もなく、さらに冷徹なトドメを重ねた。
「株式会社アトリエ・アルカ、ならびに神代俊樹、立花莉乃両名に対し、今後いかなる名目であれ、当L&Vグループが関与するすべてのオフィス、施設、ショールームへの立ち入り、ならびに一切の商取引への参加を【永久に出入り禁止】とする。……以上だ」
「そ……そんな……ッ!!」
俊樹は床から跳ね起きるようにして顔を上げた。
額からは脂汗と涙、そして鼻水がぐちゃぐちゃに混ざり合って滴り落ちている。
俊樹はテーブルの脚にしがみつき、レオンの磨き上げられた革靴を見上げながら、狂ったように叫んだ。
「待ってください! 待ってください、レオンCEO! 不合格なんて……そんなの認められません! 何かの間違いです! うちには実績があるんです! 過去五年間の百貨店への納品伝票だってある! サンプルが気に入らないなら、今すぐ引き直させます! 明日までに、いや今夜中にもう一着、完璧なジャケットを縫い上げさせて持ってきますから!!」
唾を飛ばし、見苦しく叫び続ける俊樹。
だが、レオンは視線を一ミリも動かさない。
足元に縋り付く男の存在など、まるで道端の泥水であるかのように完全に無視していた。
「明日なんです……! 明日、金曜日の午後三時までに、この五億円の契約が取れなければ……東都中央銀行が手形を不渡りにするんです!!」
俊樹は理性を完全に失い、自らの命取りになるはずの破滅のタイムリミットすら、なりふり構わず口走っていた。
「手形が落ちなければ、不渡り処分で銀行取引が停止になる! 会社が……俺のアルカが、倒産してしまうんです! 二億八千万の借金を抱えて、自己破産するしかないんです! 頼みます、助けてください! 不合格の通知を取り消してください! 内定通知の一枚だけでいいんです、それさえあれば銀行を騙……いや、銀行を説得できるんです!! どうか、どうか慈悲を……!!」
床に額を何度も叩きつけ、血を滲ませながら命乞いをする元社長。
かつて南青山のサロンで高級ワインを煽り、職人たちを「いつでも替えがきく駒」と見下し、妻を「能無しの寄生虫」と罵って放逐した男の、あまりにも浅ましく、あまりにも哀れな断末魔。
だが。
その見苦しい叫びに対し、部屋の奥から返ってきたのは、慈悲などではなかった。
「……身勝手な騒音は、そこまでにしてもらおうか」
静寂を裂いて進み出てきたのは、L&V専属の知財専門弁護士・倉田拓海だった。
チタンフレームのスクエア眼鏡の位置を中指で静かに直しながら、倉田は俊樹の目の前へと歩み寄った。
その手には、黒革の分厚いアタッシェケース。
倉田の怜悧な唇の端には、獲物を逃げ場のない檻へと追い詰めた狩人特有の、冷ややかな笑みが刻まれていた。
「神代俊樹氏。……あなたが倒産しようが、自己破産しようが、路頭に迷おうが、当グループには一切関係のないことです。それは、自らの無能と放漫経営が招いた、当然の自業自得に過ぎません」
「な……っ」
俊樹が息を呑む。
「さて――」
倉田はアタッシェケースを黒大理石のテーブルの上に置いた。
パチン、パチン、と二つの金属製ラッチが外れる硬質な音が、重苦しい室内に鋭く響き渡る。
「ビジネスの商談が不合格という形で幕を閉じたところで……次は、あなたたちが過去五年間にわたって積み上げてきた、法的な『負の遺産』の清算に移りましょうか」
「ほう……てきな……清算……?」
俊樹の顔から、さらに一段、血の気が引いた。
「ええ、そうです」
倉田はケースの蓋を静かに跳ね上げた。
中から取り出されたのは、厚さ十センチを超える、膨大な書類の束だった。
すべて、厳重に製本され、割印が押された法的な申告書、証拠説明書、そして内容証明郵便の原本。
――バサァッ!!
倉田は躊躇うことなく、その書類の束を、床に這いつくばる俊樹の胸元目掛けて、力任せに叩きつけた。
「うわっ!?」
重たい破裂音とともに、書類の束が俊樹の顔面と胸を直撃し、白い用紙が紙吹雪のように舞い散った。
散らばった書類の数々が、俊樹の膝の周り、大理石の床、そして壁際にへたり込む莉乃の足元へと、容赦なく降り注ぐ。
俊樹は震える手で、自らの太腿の上に落ちた書類の一枚を拾い上げた。
そこに印刷されていた太字の表題を目にした瞬間、俊樹の眼球が、これ以上ないほど見開かれた。
――『著作権侵害差止、著作者人格権侵害、ならびに不法行為に基づく損害賠償請求書』。
――『請求人:神代詩織 / 被請求人:株式会社アトリエ・アルカ、神代俊樹、立花莉乃』。
「な……な、何だ……これは……!?」
「文字が読めないのですか?」
倉田は眼鏡の奥の目を細め、上から氷のように冷たい視線を浴びせかけた。
「過去五年間にわたり、株式会社アトリエ・アルカにおいて発表され、国内外のコンクールで受賞、ならびに大手百貨店等で独占販売された全四十八アイテムの製品設計図面、パターン(型紙)、立体裁断仕様書、ならびにデザインスケッチに関する、包括的な知的財産権の侵害に対する損害賠償請求書です」
「ち、知財の侵害……!? 馬鹿なことを言うな!」
俊樹は散らばった書類を床に叩きつけ、必死に喚き散らした。
「詩織はアルカの社員だったんだぞ! 業務時間中に社員が作った成果物は、職務著作としてすべて会社の所有物になる! 誓約書だってあるんだ! 退職時に『一切の権利を会社に帰属させ、著作者人格権も行使しない』という合意書に、こいつの実印が押してあるんだよ! 法的には何の問題もないはずだ!!」
俊樹が叫んだ、あの雨の夜の偽装。
詩織の個人データを消去し、会社の印鑑登録カードを勝手に使って捏造した、あの虚偽の誓約書。
それが、自分を守る最後の法的な盾であると、男は狂乱の中で縋り付こうとしていた。
だが――。
倉田の口から漏れたのは、心底から哀れむような、冷酷な失笑だった。
「……相変わらず、知性の欠片もない浅知恵ですね、神代俊樹氏」
倉田はポケットからタブレットを取り出し、一枚の電磁的ログ解析画面を俊樹の目の前に突きつけた。
「あなたが作成したというその『退職時誓約書』。……詩織さんの実印を会社の金庫から無断で持ち出し、あなたが勝手に捺印した有印私文書偽造、ならびに同行使の明白な証拠を、すでに我々は保全しております」
「なっ……!?」
「それだけではありません」
倉田の指先が、画面をスワイプする。
「詩織さんが使用していたノートパソコンのハードディスク、社内サーバーの変更履歴、ならびに詩織さんが個人的にタイムスタンプを付与していたクラウドストレージのログを、米国の公的サイバーフォレンジック機関を通じて完全に復元いたしました。……全四十八アイテムの仕様書の作成日時、保存日時、そしてあなたが詩織さんの名前を消し去り、自己の名前や立花莉乃氏の名前に書き換えた不正アクセスの全履歴が、秒単位のログとして克明に記録されています」
倉田の声は、逃げ道を塞ぐ鉄格子の軋みのように平坦で、重かった。
「職務著作の要件? 笑わせないでいただきたい。詩織さんはアルカ社の単なる従業員ではなく、資本金を折半で出資した実質的な共同創業者であり、契約上も独立したチーフデザイナーとしての地位を有していました。何より、著作者人格権――自らの生み出した作品に自らの名前を表示する権利(氏名表示権)は、いかなる契約であっても永久に放棄・譲渡することは法的に不可能です」
倉田は散らばる書類の中から、もう一組の分厚いファイルを指差した。
「さらに、これを見なさい」
俊樹が震える視線を落とした先。
そこに置かれていたのは、朱色の公印が押された、別の公的文書だった。
――『公正取引委員会、ならびに中小企業庁に対する、下請代金支払遅延等防止法(下請法)違反に関する申告・告発状(控)』。
「……下請法……告発状……?」
「ええ」
後ろに控えていた長谷川慎司が、低く唸るような声で言葉を継いだ。
「神代俊樹。お前がこれまでやってきた悪行は、詩織さんの才能を盗んだことだけではない。……佐伯縫製をはじめとする、全国十数社の中小縫製工場、生地問屋、パタンナー事務所に対する、組織的な『買いたたき』と『不当な減額』、そして一方的な発注キャンセルだ」
長谷川の言葉に、俊樹の心臓が激しく波打った。
「下請法第四条第一項第三号『下請代金の減額の禁止』、ならびに同項第四号『不当な受領拒否』の明白な違反です」
倉田が淡々と、法条を読み上げる。
「過去四期にわたり、アルカ社が自社の利益率を粉飾するため、納期の直前に『予算が足りないから三割引け』と脅迫した通話録音データ。一方的な受領拒否を突きつけて手形を踏み倒したメールの全送受信ログ。そして、佐伯縫製の先代社長を心労で倒れさせた、不当な手形減額合意書の原本。……被害を受けた全十二社の工場主から、すでに完全な供述調書と証拠書類の提出を受け、今朝の午前九時三十分、公正取引委員会および経済産業省へ正式に告発状が受理されました」
「こ、告発状が……受理された……!?」
俊樹の喉から、ヒッと短い悲鳴が漏れた。
公正取引委員会。
中小企業庁。
下請法違反の調査が入れば、即座に企業名が公表され、全国ニュースで報道される。
それだけで、残されたわずかな取引先も、信用調査機関も、完全にアルカ社をブラック企業として指定し、社会的に抹殺されるのだ。
「逃げ道はありませんよ、神代俊樹氏」
倉田は眼鏡を外し、デスクの上の手帳を閉じた。
その瞳には、寸分の慈悲も、妥協の色もなかった。
「知財の剽窃、名義の冒用、有印私文書偽造、そして下請法違反。……民事上の損害賠償だけでなく、刑事事件としての立件すら視野に入れた完全な包囲網です。……すべては、あなたたちが自らの手で撒き散らしてきた罪の報いです」
散らばった書類の海。
何百枚もの証拠。
何年分もの悪行の記録。
俊樹が「俺のプロデュース力」と誇り、他人の血と汗を吸い上げて築き上げてきた砂上の楼閣の土台が、今、法律という名の巨大な重機によって、根底から粉砕されていた。
「あ……あぁ……」
俊樹は床に散らばる書類の束を掻き集めようとしたが、指先が激しく震え、紙の一枚すら持ち上げることができなかった。
視界が涙と脂汗で歪む。
逃げられない。
言い訳もできない。
嘘も通用しない。
五億円の下請け契約を勝ち取り、奇跡の逆転を果たすはずだったこの四十八階の特別役員会議室。
そこは、最初から自分たちを生かして帰す気など微塵もない、完璧に設計された「絶対の処刑台」だったのだ。
その時。
床に散乱する書類の束の最後の一枚――損害賠償請求書の最終ページに記された、太く黒い数字の列が、俊樹の充血した瞳に飛び込んできた。
そこに刻まれていた金額を目にした瞬間。
神代俊樹の呼吸は、今度こそ完全に、永遠に停止したかのように凍りついた。




