第50話:引導
ゴミ箱の冷たいスチールの脇に、散り散りになった紙屑が惨めに転がっていた。
金文字の箔押しが施された立花莉乃のポートフォリオ。
ウエストを極限まで引き絞り、豊満な胸元を露出させて上目遣いに微笑む、加工された「新時代のミューズ」の顔写真の上に、大理石の床から舞い上がった埃が静かに積もっていく。
百平米を超える特別役員会議室の窓外には、冬の澄み渡る青空が無限に広がっていたが、室内の空気は、すでに一筋の救いすら差し込まない深海の底へと沈み切っていた。
「ひ……っ、酷い……! 酷いわよ、あんた……っ!!」
壁の珪藻土に背中を擦り付け、床にへたり込んでいた立花莉乃が、喉を掻き毟るような悲鳴を上げた。
自慢の深紅のドレスは皺だらけになり、胸元の深いV字のカッティングは乱れ、片方の肩紐が素肌の上で無様にずり落ちている。
涙と脂汗でドロドロに溶け崩れたマスカラが、頬に黒い墨汁のような筋を描き、濡れたような真紅のルージュは唇の端から滲み出て、ピエロの化粧のように歪んでいた。
「私は……私はただ、自分の感性を信じていただけよ! 服はキャンバスだって、自分の直感とインスピレーションを世界に届けたかっただけなのに! それを……落書きだなんて……紙の無駄遣いだなんて……っ! あんた、自分が世界一のデザイナーになったからって、調子に乗って人の夢を踏みにじる気なの!? 謝りなさいよ! 私の才能と努力に、土下座して謝りなさいよォッ!!」
剥き出しの自己憐憫。
他責と被害妄想に塗れた、醜悪極まりない絶叫。
自分が他人の型紙の上に適当な装飾を足して手柄を横取りしてきたことも、現場の職人を「老害」と嘲笑って追い出したことも、中国の粗悪なコピー工場に丸投げして購入者の肌に折れ針を突き刺したことも――そのすべての罪から目を背け、ただ「傷つけられた可哀想な自分」という安っぽい悲劇のヒロインの殻に閉じこもる女の、哀れな断末魔。
だが。
神代詩織は、その喚き声をあげる女の方へ、一度として視線を向けなかった。
首を動かすことすらしない。
眉をピクリと動かすことすらない。
まるで、そこに人間など存在していないかのように。
部屋の隅で鳴く羽虫の羽音すら、この空間の絶対的な静寂を揺るがすことはできないとでも言うように、詩織は白革の手袋を嵌めた手を自らの前で静かに重ね、ただ冷徹に、テーブルの向こうで床に突っ伏している元夫を見据え続けていた。
その徹底的な「不可視化」。
自分という存在を、視界に入れる価値すら認めてもらえないという絶対的な拒絶の前に、莉乃の喚き声は次第に力を失い、やがてヒュッ、ヒュッと引きつった過呼吸の音へと変わっていった。
どんな罵詈雑言よりも、どんな平手打ちよりも残酷な、完全なる無関心。
莉乃は己の存在のあまりの軽薄さに打ちのめされ、震える両手で自らの顔を覆い、床の上で膝を抱えて丸まることしかできなくなっていた。
そして――。
黒大理石のテーブルの足元で、もう一人の怪物が、絶望の泥水の中で蠢いていた。
「あ……、あ……」
神代俊樹の喉から、掠れた空気の漏れる音が鳴り続けていた。
膝を突いたチャコールグレーの吸音絨毯の上に、ボタボタと大粒の汗が落ち、黒い染みを広げていく。
額から流れる脂汗が目に入り、激しい痛みが走るが、それを拭う余裕すら俊樹には残されていなかった。
脳髄を満たしていたのは、圧倒的な「死の恐怖」だった。
明日――金曜日の午後三時。
東都中央銀行の佐山融資課長が突きつけてきた、手形の最終決済期日。
このL&Vタワーでの最終選考で五億円の内定を勝ち取り、その合意書を銀行の机の上に叩きつけることだけが、俊樹に残された唯一の生存ルートだった。
それが、今、目の前で木っ端微塵に粉砕されたのだ。
カシミヤ混ウールのジャケットは「布の死骸」と断じられてテーブルの上に打ち捨てられ、持ち込んだ提案書は虚偽と剽窃の塊であることを、現場を知り尽くした本物の技術者たちに完全に暴かれた。
契約は取れない。
五億円の金など、一円たりとも手に入らない。
明日になれば、アルカ社が振り出した数千万円の手形は不渡りを出す。
銀行取引停止処分。
二億八千万円の負債を抱えたままの、即時倒産。
タワーマンションは差し押さえられ、個人口座は凍結され、クレジットカードはすべて無効化され、自分は着の身着のままで路上へと放り出されるのだ。
かつて南青山のサロンでシャンパンを傾け、時代の寵児を気取っていた自分が。
業界の笑い者になり、日雇いの仕事すら見つからず、泥水を啜って野垂れ死ぬ。
(嫌だ……! 嫌だ、嫌だ、嫌だァァッ!!)
俊樹の全身の細胞が、恐怖で悲鳴を上げた。
プライド?
見栄?
男の自尊心?
そんなものは、迫り来る破滅の断頭台の冷たさの前には、何の価値も持たない塵芥だった。
生き残るためなら何でもする。
相手が誰であろうと、靴の裏を舐めてでも、泥水を飲んででも、命乞いをしなければならない。
「し……詩織……ッ!」
ガタッ、と絨毯を引っ掻く音を立てて、俊樹が這い上がった。
這いつくばった姿勢のまま、膝を引きずり、テーブルの天板へと両手を伸ばす。
イタリア製の最高級タキシードの袖口が乱れ、ネクタイが斜めに曲がり、厚塗りのコンシーラーが汗で剥がれ落ちた俊樹の顔には、無精髭とカミソリ負けの赤黒い傷跡が露わになっていた。
俊樹は黒大理石の冷たい天板の上に両手を突き、指先を白くなるほど食い込ませて、詩織へと縋り付いた。
「詩織! 頼む、悪かった! 俺が悪かったよッ!!」
俊樹の口から、唾液と鼻水が混ざり合った絶叫が迸った。
もはや言葉の体裁を保つことすらできていなかった。
血走った両目から涙をボロボロと零し、顔面をぐちゃぐちゃに歪ませながら、必死の形相で詩織を見上げる。
「謝る! 土下座でも何でもする! お前を追い出したのは俺の間違いだった! 莉乃の口車に乗せられて、どうかしていたんだ! お前がどれほど素晴らしい才能を持っていたか、俺は今になって骨の髄まで思い知ったんだよ! 頼むから許してくれ! 俺が悪かった、全部俺の責任だ!!」
俊樹はテーブルの上で、何度も何度も頭を下げた。
ゴツン、ゴツンと、大理石の天板に額を打ち付ける鈍い音が響く。
だが、その謝罪の言葉の端々に、男の骨の髄まで染み付いた浅ましい打算が、隠しようもなく透けて見えていた。
「でもな、詩織! 考えてもみてくれよ! 俺たちは夫婦だったじゃないか! 結婚してからの三年間、二人三脚でアトリエ・アルカをゼロから大きくしてきた情があるだろ!? あの狭いアパートの六畳一間で、朝から晩まで一緒に夢を語り合っていた、あの時間を忘れたのか!?」
二人三脚。
情。
夫婦の絆。
かつて自らが土足で踏みにじり、ゴミ箱へと投げ捨てたはずの言葉を、今この瞬間になって、自らの保身のための盾として恥知らずにも引っ張り出してくる男の厚顔無恥。
「頼むから助けてくれ! このL'OMBREの下請け契約さえ……一次サプライヤーの契約さえ取れれば、俺の会社は倒産せずに済むんだ! 年間五億円の受託金があれば、銀行の融資も再開するし、借金だって全部返せるんだよ! お前がサインを一枚してくれれば、それだけで全部丸く収まるんだ!」
俊樹は身を乗り出し、大理石のテーブルを這うようにして詩織の前へと手を伸ばそうとした。
その濁った瞳には、見苦しい懇願の光が張り付いている。
「お前だって、元夫が破滅するのは見たくないだろ!? 俺が自己破産して路頭に迷ったら、お前の経歴にだって傷がつく! アルカ社を残せば、お前の古巣として業界での美談にもなるんだ! 俺たちはもう一度やり直せる! 今度こそ、俺がお前の才能を世界一の舞台で支えてみせるから! だから……頼む、詩織! 助けてくれ! 俺を助けてくれよォォッ!!」
唾を撒き散らし、涙と汗で顔をぐちゃぐちゃにして叫ぶ男。
かつて、あの雨の夜。
南青山の高級タワーマンションのリビングで、上等な赤ワインを揺らしながら、冷酷な目で妻を見下ろしていたあの男の姿が、詩織の脳裏をよぎる。
『莉乃はインスピレーションの塊だ。あいつといると新しい風が吹く。お前みたいな地味で陰気な女が横にいたら、アトリエ・アルカの格が落ちるんだよ』
『お前はただ言われた通りに線を引いてミシンを踏んでいただけの作業員だろ? 勘違いするな。俺の営業力と莉乃の華があるから服が売れたんだ』
『誰のおかげで今まで飯が食えたと思ってる? 能無しの寄生虫が』
テーブルに投げつけられた、手切れ金五十万円の茶封筒。
身の回りのわずかな荷物をボストンバッグに詰め込み、傘も差さずに冷たい泥水のアスファルトへと放り出された、あの夜。
夫を信じ、夫の夢を自分の夢だと信じ込んで、五年間、指先を針で何千回と突き刺しながら裏方に徹し続けた女に、この男が浴びせかけたのは、一切の慈悲も情もない、冷酷な侮辱と追放の宣告だったのだ。
その男が。
今、すべての虚栄を剥ぎ取られ、自らの破滅に怯えきって、大理石のテーブルに額を擦り付けながら「夫婦の情」を乞い求めている。
あまりにも、滑稽で。
あまりにも、浅ましく。
そして――あまりにも、反吐の出るような光景だった。
「……」
部屋の中に、沈黙が落ちた。
背後に立つレオン・城崎・ヴァランタンは、腕を組んだまま、冷淡な琥珀色の瞳で床の俊樹を見下ろしていた。その唇には、これ以上ないほど深い軽蔑の笑みが刻まれている。
知財弁護士の倉田拓海は、眼鏡のブリッジを押し上げ、まるで汚物を見るような目で手元の手帳に何かを書き留めていた。
そして長谷川慎司は、拳を白くなるほど強く握りしめ、かつて自らを「老害」と罵倒した元雇い主の無様な命乞いを、怒りと哀れみが混ざり合った複雑な眼差しで見つめていた。
誰一人、言葉を挟まない。
この男の命運のすべてを握る、唯一の審判者――神代詩織の言葉を待っていた。
詩織は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして――吐き出した。
白革の手袋を嵌めた手を、重ねていた胸元から解く。
スッと、背筋が伸びる。
チタンフレームの眼鏡の奥で、澄み切った漆黒の瞳が、テーブルにしがみつく元夫の顔面を、真っ直ぐに射抜いた。
「……情?」
詩織の唇から零れ落ちたのは、静かな、あまりにも静かな呟きだった。
だが、その一言が落ちた瞬間、俊樹の喚き声がピタリと止まった。
「二人三脚……?」
詩織は一歩、テーブルの際へと歩み寄った。
大理石の天板に両手を突く俊樹の、わずか数十センチ真上から、冷え切った眼差しを無慈悲に見下ろす。
「勘違いしないで、神代俊樹」
詩織の声は、低く、澄み渡っていた。
怒声ではない。
怒りに任せて声を荒らげることすら、この男に対しては過剰な敬意であると知っているかのように、ただ凍てついた真実だけを、研ぎ澄まされた刃物のように並べていく。
「あなたと私の間に、二人三脚なんてものが存在したことなど、最初から一度たりともなかったわ」
「し、詩織……?」
「あなたがやってきたのは、二人三脚ではない。……私の背中に張り付き、私の削り落とした肉と血を吸い上げて、自分は何一つ手を動かさずに甘い汁を啜り続けていただけの、ただの『ダニ』のような寄生よ」
――ダニ。
その言葉が、俊樹の鼓膜を容赦なく撃ち抜いた。
俊樹の顔筋が、激痛に耐えるように引きつる。
「私がアトリエで徹夜をして、人体の骨格と重力に向き合い、ミリ単位の線を引いていた間……あなたは何をしていた? 西麻布のバーでシャンパンを煽り、自分が服を作っているかのような顔をしてスポンサーに愛想を振りまき、現場の職人を買い叩いて浮かせた金で、愛人に高級ブランドを買い与えていただけじゃない」
詩織の手が、テーブルの上に崩れ落ちていたあのジャケット――「布の死骸」を指差した。
「私が去った途端、あなたたちはどうなった? 型紙の一枚も引けず、生地の目の向きすら分からず、長谷川さんの忠告を老害と切り捨て、最後は海外の画像を切り貼りして中国の粗悪工場に丸投げした。……そして、何万人もの客を騙し、粗悪なゴミを売りつけ、展示会で恥を晒して破滅した」
詩織の視線が、俊樹の瞳の奥深くまで突き刺さる。
逃げ場のない、客観的な事実の連打。
俊樹の浅ましい脳味噌が都合よく歪めてきた現実のすべてを、詩織は冷徹なメスで一枚ずつ剥ぎ取っていく。
「あなたが誇っていた『プロデュース力』の正体は、何だったの? 他人の才能を奪い、他人の汗を横取りし、自分は特別な人間だと錯覚するための、ただの虚飾の看板だったんじゃないの」
「う……、ぐ……っ」
俊樹の喉から、血の泡のような呻きが漏れる。
反論できない。
一言も、言い返せない。
「あの雨の夜、あなたは私に言ったわね。『お前は言われた通りに線を引いてミシンを踏むだけの作業員だ』『誰のおかげで飯が食えたと思ってるんだ』と」
詩織の瞳の奥に、氷海のような冷笑が浮かんだ。
「その言葉、そのままあなたにお返しするわ。……誰のおかげで、今まで会社を維持できていたと思っていたの? 誰の引いた線のおかげで、あなたは『時代の旗手』という偽りの冠を被ることができていたの?」
詩織は右手を伸ばし、大理石の上に置かれていた「庄三郎」の裁ちバサミへと指を触れた。
冷たい鋼の感触。
祖父から受け継ぎ、誰の助けも借りずに自らの運命を切り拓いてきた、職人の誇りの象徴。
「私のアイディアを盗まないと、服の一着すら作れない無能に」
詩織の声が、特別役員会議室の空気を完全に切り裂いた。
「――うちの仕事が務まるとでも、思っていたの?」
ドォン、と目に見えない巨大な鉄槌が振り下ろされたかのような衝撃。
俊樹の呼吸が、完全に止まった。
無能。
かつて自分が、妻をゴミのように見下し、精神的に支配するために浴びせ続けていたその言葉が。
今、世界最高峰の玉座に座る元妻の口から、寸分の狂いもない絶対的な「真実」として、自分自身の胸元へと突き刺し返されたのだ。
「あ……、あぁ……」
俊樹の手から、力が抜けた。
大理石のテーブルから指先が滑り落ち、男の身体は、完全に力なく絨毯の上へと崩れ落ちた。
床に突っ伏した俊樹の視界に映っていたのは、詩織の完璧に仕立てられたタキシードのスラックスと、磨き上げられた黒いパテントレザーの靴先だけだった。
見上げることすら、許されない。
縋り付くことすら、許されない。
自らの浅ましさ、自らの無能さ、そして他人の才能を貪ることでしか生きられなかった己の空虚さを、骨の髄まで思い知らされた男の完全なる精神的死。
引導は、渡されたのだ。
静まり返った部屋の奥で、レオンが満足そうに目を細め、倉田弁護士が一歩前へと進み出た。




