第49話:布の死骸
床に崩れ落ちた神代俊樹の荒い呼吸の音だけが、地上二百メートルの静寂を惨めに汚していた。
膝を突いたチャコールグレーの吸音絨毯の上に、ボタボタと額から脂汗が滴り落ちていく。
指先は痙攣し、テーブルの縁を掴もうとするものの、黒大理石のあまりの冷たさに感覚が麻痺し、力が入らない。
背後では、立花莉乃が壁の珪藻土に背中を押し当てたまま、顎を震わせてへたり込んでいた。
先ほどまで「新時代のミューズ」を気取って誇示していた深紅のドレスの胸元は、激しい過呼吸によって醜く波打ち、厚塗りされたファンデーションが冷汗で崩れ、幽霊のように青白い素肌を覗かせている。
眼前には、漆黒のタキシードスーツを纏い、王者たる威厳をもって見下ろす神代詩織。
その隣には、冷徹な愉悦を浮かべるL&Vの最高権力者レオン・城崎・ヴァランタン。
知財弁護士の倉田拓海は、怜悧な光を宿した眼鏡の奥で無慈悲に手元の書類を整え、かつて自分が「老害」と罵倒して放逐したパタンナー・長谷川慎司は、寸分の狂いもない仕立てのスーツを着こなし、腕を組んで冷淡に二人を射抜いている。
完璧なまでの処刑の布陣。
言葉のひと欠片すら差し挟む余地のない、絶対的な力の格差。
――スッ……。
静寂の中、かすかな衣擦れの音が響いた。
ハイバックのエグゼクティブチェアから、詩織がゆっくりと立ち上がったのだ。
彼女の身のこなしには、一切の無駄がなかった。
首の付け根から背骨、そして腰へと通る重心線が寸分のブレもなく床面に対して垂直を保ち、漆黒のウール生地がその無駄のない肉体の動きに吸い付くように流れる。
人体の骨格を知り尽くし、布の落ち感を完全に支配した者だけが持つ、彫刻のような立ち姿。
詩織は卓上に置かれていた「庄三郎」の裁ちバサミからそっと手を離すと、ポケットから極薄の白革の手袋を取り出し、指先の一本一本を丁寧に滑り込ませた。
パチン、と手首のスナップが留まる。
そして――詩織は歩み出した。
毛足の深い絨毯の上を、音もなく、静かに。
大理石のテーブルの奥から、俊樹たちが「我がアトリエ・アルカの技術力の結晶」として誇らしげに広げてみせた、あのサンプルのテーラードジャケットの前へと。
「ひ……っ」
床に這いつくばる俊樹の鼻先を、詩織の靴先がかすめた。
磨き上げられた黒いパテントレザーのストレートチップ。
かつて雨の夜、自分が五拾万円の茶封筒を投げつけ、泥水のアスファルトへと追い出したあの女の足元が、今、地上二百メートルの大理石の上で、自分の頭上を傲然と見下ろしている。
俊樹は身を縮め、亀のように首をすくめることしかできなかった。
詩織は俊樹を一瞥すらしない。
彼女の冷徹な視線は、黒大理石の天板の上に横たえられた、カシミヤ混ウールのジャケットだけに向けられていた。
白革の手袋を嵌めた詩織の右手が、ゆっくりと伸ばされる。
人差し指と親指の腹で、ジャケットの襟ぐり――第一ボタンの真上、首の付け根を支えるカラー(上襟)の芯の部分を、ふわりと軽やかに摘まみ上げた。
――サァッ……。
光の中へ、ジャケットが持ち上げられる。
パノラマウィンドウから差し込む冬の鋭利な日光が、ウールサージの表面を透かすように照らし出した。
「…………」
詩織は無言のまま、ジャケットを三百六十度、ゆっくりと旋回させた。
その視線は、まるで病巣を特定する外科執刀医のように鋭く、冷たく、布地の一ミリの起伏、糸の一本の走りを解剖していく。
「……お粗末ね」
詩織の唇から、氷柱のように冷たい一言が零れ落ちた。
部屋の空気をピシリと凍りつかせる、静かな、だが逃げ場のない断罪の響き。
「な……お、お粗末……!?」
床に突っ伏したまま、俊樹が引きつった声を絞り出した。
「な、何を言っているんだ詩織……! それは……それはお前がアルカにいた頃に作った、アーカイブの最高傑作じゃないか! ジャパン・モード・クリエイション大賞の授賞式で、業界中のバイヤーが絶賛した、あのジャケットだぞ!? お前自身の設計を、自分で否定する気かッ!?」
俊樹の見苦しい叫び。
自らがネームタグを剥ぎ取り、自社の手柄として盗用した過去の遺産。
それを今さら「お前が作ったものだ」と縋り付く、恥知らず極まりない矛盾。
だが、詩織の眉は微動だにしなかった。
彼女はジャケットを持ち上げたまま、冷え切った瞳を床の俊樹へと落とした。
「ええ。確かに原型の骨格は、私が三日三晩寝ずに引いたものだわ。……でも、今のこの服は、かつて私が命を吹き込んだものとは似ても似つかない。あなたたちの浅ましい手によって、完全に息の根を止められた『死骸』よ」
「死骸……!?」
「ええ、死骸よ。……技術の何たるかも知らず、布への敬意も持たない人間が、付け焼き刃の誤魔化しを施したせいでね」
詩織の手袋をした左手が、ジャケットの右肩の付け根をスッと指し示した。
「見てごらんなさい。……肩の『イセ込み』が、左右で三ミリ狂っているわ」
イセ込み。
二次元の平坦な布地を、人間の丸みを帯びた肩関節に合わせて三次元の球体へと立体化させるため、縫い縮めて微細な膨らみを生み出す、テーラリングにおける最高峰の職人技術。
「本来、この設計では、前肩のカーブに合わせて運動量を前方に七ミリ、後方に五ミリ逃がすよう、針目をコンマ数ミリ単位で狂いなくギャザーを寄せて毛芯に据え付けなければならないはずよ。……それなのに、このジャケットは一度袖を解いて、杜撰な外注工場に無理やり縫い直させただろ?」
「あ……」
俊樹の喉が詰まった。
図星だった。
先週、地下金庫からこのアーカイブを引っ張り出した際、裏地の詩織のネームタグを切り落とすため、俊樹は近所の安価なお直し業者に持ち込み、強引に裏地をめくってタグを付け替えさせ、適当にミシンで塞がせていたのだ。
「適当なミシンで引っ張って縫い合わせたせいで、いせ込みのテンションが完全に死んでいる。そのせいで袖山が不自然に波打ち、腕を自然に下ろしただけで、ラペルから胸元にかけて醜い斜めジワが走っているわ。……動くたびに肩先が突っ張り、着ている人間の鎖骨を圧迫する欠陥品よ」
詩織の指摘は、針の筵のように俊樹の胸を突き刺した。
だが、解剖はそれだけで終わらなかった。
詩織はジャケットの前身頃を裏返し、滑らかなキュプラの裏地を光の下に晒した。
「それだけではないわ。……裏地の『キセ(ゆとり)』が、完全に取れていない」
詩織の手が、裾の縫い目をなぞる。
「表地のウールと、裏地のキュプラでは、空気中の湿度を吸った時の伸縮率(縮率)がまるで違う。だからこそ、職人は裏地の裾と背中心に二ミリから三ミリの折り込み――『キセ』を入れて、表地が突っ張らないよう呼吸の余白を残すのよ。……それなのに、この服の裏地はピンと張り詰め、糊付けされたように突っ張っている。雨の日が一日あれば、表地が波打って全体がねじれ曲がるわ」
詩織の声は淡々としていた。
怒鳴りつけるでもなく、声を荒らげるでもない。
ただ、衣服という構築物が持つ力学と幾何学の真実を、寸分の主観も交えずに客観的な事実として並べ立てていく。
その絶対的な正論の前に、俊樹は一言の反論すら紡ぎ出すことができなかった。
「さらに致命的なのは、このカッティングよ」
詩織の指先が、ラペルの返り線を弾いた。
パチン、と乾いた音が室内に響く。
「裁断における『地の目(布の縦糸と横糸の直交)』を無視して、生地をケチるために型入れ(マーキング)を斜めに無理やり押し込んでいるわね。布には重力に従って落ちるべき『目』がある。その目を無視してハサミを入れた服は、どれほど高価なカシミヤを使おうと、トルソーに着せた瞬間に首が左へ歪むのよ」
詩織の視線が、蔑みすら通り越した、絶対的な無機質さへと収束していく。
「芯地は浮き、毛芯のハ刺し(手縫いで芯地を据える工程)は糊で接着され、着る人間の骨格を締め上げるだけの拘束具。……これが、あなたたちの言う『世界基準の技術力』の正体かしら?」
「う……あ……」
俊樹の顔から、完全に血の気が失せていた。
言葉が出ない。
ただの布。ただの服。
絵を描いて、雰囲気で指示を出せば、工場が勝手に形にしてくれるものだと見下してきた服飾の世界。
その背後に横たわる、ミリ単位の幾何学、重力との対話、そして人体の尊厳を守るための職人技術の深淵を、かつて自らが「能無しの作業員」と切り捨てた女から、残酷なまでの解像度で見せつけられたのだ。
「長谷川さん」
詩織が静かに呼んだ。
「はい、詩織さん」
後ろに控えていた長谷川慎司が、胸ポケットから真鍮のスケールを抜き取り、一歩前へ進み出た。
長谷川は俊樹の目の前まで歩み寄ると、大理石の上に広げられたジャケットの肩先へ、無造作に定規を当てた。
「……右のアームホール深さ二十一・五センチ。左は二十二・二センチ。七ミリの狂いだ」
長谷川の低く濁った声が、俊樹の頭蓋骨を殴りつける。
「神代俊樹。お前はかつて私に言ったな。『お前はデザイナーの感覚を形にするただの職人だろうが』『四の五の言わずに手を動かせ、この老害が』とな」
長谷川の眼鏡の奥の瞳が、青白い怒りの炎で燃え上がっていた。
二十年間、アルカ社を技術面で支え、詩織とともにミリ単位の仕様書を守り抜いてきた誇り。
それを土足で踏みにじり、愛人の落書きを優先して自分を追い出した男に対する、職人の鉄槌。
「お前たちがやっているのは、服作りではない。……布の命を殺し、職人のプライドを泥水に沈め、中身のない見栄えだけで客を騙す、ただの『死体売買』だ。こんな狂った寸法の服を現場に流せば、ミシン針が何十本折れると思っている。着た人間の二の腕が鬱血して悲鳴を上げることが、貴様には想像もつかんのか」
長谷川は真鍮の定規を胸ポケットへ戻すと、唾を吐き捨てるように言い放った。
「……二度と、私の前で技術を語るな。反吐が出る」
俊樹の身体が、ビクリと痙攣した。
喉がヒリヒリと焼け付くように痛む。
反論したかった。
だが、目の前にあるのは、ミリ単位の狂いを暴かれた動かぬ物証と、プロフェッショナルたちの圧倒的な眼光だけだった。
そして――。
詩織は、白革の手袋で摘まんでいたジャケットの襟ぐりから、すっと指の力を抜いた。
――バサァッ……。
重力に引かれ、カシミヤ混ウールのジャケットが、黒大理石のテーブルの上へと力なく落下した。
空気を孕むこともなく、美しいドレープを描くこともなく。
ただ、骨を抜かれた軟体動物のように、無残に、ペシャリと潰れ、皺だらけになって崩れ落ちた。
まさに――布の死骸。
「こんな粗悪なゴミを、うちのブランドのネームをつけて市場に出せるとでも思っていたの?」
詩織の冷え切った宣告が、静寂な部屋の空気を両断した。
「L'OMBREが世界に見せたのは、人体の骨格を慈しみ、重力と調和する本物の服よ。……布の一片にすら敬意を払えず、小手先の誤魔化しで他人の目を欺けると思い込んでいるあなたたちのような三流のブローカーに、うちの服を縫う資格なんて、最初から一ミリたりとも存在しないわ」
「ひっ……!」
俊樹の口から、情けない嗚咽が漏れた。
五億円の契約。
奇跡の大逆転。
銀行への見せ金。
それらすべてが、目の前で崩れ落ちた布の死骸とともに、音を立てて瓦解していく。
だが――詩織の処刑は、まだ終わっていなかった。
詩織は視線をわずかに横へと滑らせた。
そこには、大理石のテーブルの端、立花莉乃が先ほど乱暴に叩きつけた最新型のiPad、そして昨夜プリントアウトして提出された、金文字の箔押しが施された分厚い企画書が置かれていた。
――『CREATIVE VISION & PORTFOLIO / RINO TACHIBANA』。
(立花莉乃が拓く、次世代ラグジュアリープレタポルテの地平)。
「……っ!」
壁際にへたり込んでいた莉乃の身体が、ビクッと跳ね上がった。
詩織はゆっくりと歩み寄り、その企画書の表紙に白革の手袋を添えた。
ペラリ、と一ページ目がめくられる。
そこに印刷されていたのは、胸元を大きく開いた深紅のドレスを着て、トルソーに寄りかかりながら妖艶な笑みを浮かべる莉乃の写真。
そして、『Z世代を熱狂させる圧倒的なインフルエンス力』『直感的なインスピレーションによるセカンドラインの創出』といった、中身のない美辞麗句の数々。
詩織は、わずか三秒。
そのページに視線を走らせた。
ただ三秒間、まるで道端に落ちていたチラシのゴミを見るかのような、感情の一切交えない目で一瞥した。
「……ピンタレストやインスタグラムの海外コレクションを、ただ切り貼りしただけの落書きね」
詩織の声は、平坦だった。
怒りすら湧かない、底知れぬ呆れと侮蔑。
「布の厚みも、織り糸の密度も、重力によるドレープの落ち方も計算できない。人間が腕を上げた時に肩甲骨がどうスライドし、肋骨がどう広がるのかという、生体の解剖学的な構造すら知らない素人の妄想だわ」
「な……っ!」
莉乃の顔が、屈辱で真っ赤に染まりかけた。
だが、詩織の言葉は、莉乃の稚拙な自尊心を容赦なく切り刻んでいく。
「こんなものは、デザイン画ですらない。ただ『自分がちやほやされたい』という醜悪な自己愛を、他人の服の上から塗りたくっただけの紙屑よ。……これを企画書と呼ぶこと自体、木を伐採して作られた紙に対する冒涜だわ」
詩織は、冷淡に言い放った。
「……紙の無駄遣いだわ」
そして。
詩織は手袋をした右手の甲で、その百ページを超える立花莉乃のポートフォリオを、テーブルの端へ向けて、無造作に払い落とした。
――バサバサバサッ!!
激しい紙の擦れる音とともに、分厚いファイルが宙を舞った。
金箔押しの表紙が開き、莉乃の加工された自撮り写真が、書類の束とともにバラバラと床へ散乱していく。
ドサッ。
ファイルが落ちたのは、テーブルの脇に置かれていた、黒いスチール製のオフィス用ゴミ箱のすぐ真横。
散らばった莉乃の顔写真の上には、床の埃が舞い散り、まるで誰にも見向きもされずに捨て去られた廃棄物のように、無残に踏み躙られていた。
「あ……あぁ……っ!」
莉乃の喉から、魂を削り取られたような悲鳴が上がった。
彼女が自らの全存在を賭け、カードの限度額を使い果たし、自らの美貌と若さのすべてを注ぎ込んで作り上げた「奇跡のポートフォリオ」。
外資のCEOを色仕掛けで落とし、再びセレブの頂点へと返り咲くための最後の切り札。
それが、ただの一顧だに値しない「紙屑」として、ゴミ箱の横へと払いのけられたのだ。
「私の……私のポートフォリオが……っ!」
莉乃は床の書類へ手を伸ばそうとしたが、長谷川と倉田の冷たい視線に射竦められ、指先を震わせたまま動くことすらできなかった。
布の死骸。
そして、ゴミ箱の横に散乱する虚栄の紙屑。
神代俊樹と立花莉乃が、自らを飾り立てるために持ち込んだすべての武装は、神代詩織という本物のクチュリエの前に、一瞬にしてそのメッキを剥ぎ取られ、ただのグロテスクなゴミ屑として白日の下に晒されたのだ。
広大な会議室を満たすのは、絶対的な死の静寂。
床に突っ伏したまま震える俊樹の首筋に、冷徹な審判の刃が、いよいよ音を立てて触れようとしていた。




