第48話:役者は揃った
呼吸の音すら凍りつくような沈黙の中、黒大理石のテーブルを挟んで対峙する三人の間には、もはや言葉による対話など成立していなかった。
エグゼクティブチェアに背筋を伸ばして腰掛ける神代詩織。その瞳に宿る冷徹な静寂の前に、神代俊樹は全身から噴き出す冷や汗でタキシードを濡らし、立花莉乃は唇を紫色に震わせて自らの肩を抱きしめていた。
「お前が……L'OMBREの……デザイナー……だったのか……?」
俊樹の掠れた問いかけは、部屋の空気に溶け、何の返答も得られないまま霧散した。
詩織は答えない。
ただ、黒光りする「庄三郎」の裁ちバサミの冷たい刃先に指を添え、無言のまま二人を見据えている。その圧倒的な沈黙こそが、俊樹のこれまでの人生、虚栄、そして男としての尊厳のすべてを、根底から粉々にすり潰す無慈悲な回答だった。
――その時だった。
ピピッ。
会議室の背後、黒檀の重厚な防音扉の電子ロックが、澄んだ解錠音を響かせた。
カチャリと重厚なラッチが外れる金属音が落ち、扉がゆっくりと、内側へ向けて開かれた。
「――静かにしてもらおうか」
室内の絶対零度の空気を一瞬にして塗り替えるような、低く、甘く、だが底知れぬ威圧感を孕んだ男の声。
チェロの最も低い弦を爪弾いたかのような、完璧な響きを持つ日本語。
「当グループの聖域で、猿のように喚くのはやめていただきたい」
扉の向こうから、長身の男が優雅な足取りで足を踏み入れてきた。
その姿を目にした瞬間、俊樹の背筋に、先ほどとは質の異なる戦慄が走った。
仕立ての極致とも言える、深いミッドナイトブルーのスリーピース・スーツ。
英国サヴィル・ロウの伝統と、フランスの洗練を融合させたそのシルエットは、鍛え上げられた長身の骨格に寸分の狂いもなく吸い付いている。
日本人離れした彫りの深い端正な顔立ちに、光の加減で冷たい金色の輝きを宿す琥珀色の瞳。
レオン・城崎・ヴァランタン。
欧州巨大コングロマリット「L&Vホールディングス」のアジア総括CEOであり、極東のアパレル・ラグジュアリー産業の生殺与奪の権を握る、若き帝王その人だった。
レオンの足音は、毛足の深いチャコールグレーの絨毯に吸い込まれ、一歩進むごとに部屋の気圧を押し下げていく。
その手には、クリスタルガラスの灰皿や煙草の類いはない。ただ、ビジネスの絶対的支配者特有の、冷ややかな余裕だけが全身から漂っていた。
「レ、レオン……CEO……!?」
俊樹の喉から、掠れた声が漏れた。
経済誌の表紙や、国際ニュースの画面越しにしか見たことのなかった雲の上の存在。
一昨日、ビルの正面玄関で菓子折りを抱えて待ち伏せしようとして、名前を出すことすら許されなかった、あの巨大資本の頂点に立つ男が、今、目の前に立っている。
だが――驚愕はそれだけで終わらなかった。
レオンのすぐ背後から、もう一人の男が音もなく歩み入ってきた。
寸分の乱れもなく撫で付けられた黒髪に、チタンフレームのスクエア眼鏡。
チャコールグレーのストライプスーツに身を包み、脇には黒革の分厚いアタッシェケースを抱えている。
L&V専属の企業法務・知財専門弁護士、倉田拓海。
眼鏡の奥で細められたその双眸には、獲物を追い詰めた処刑人のような、冷徹で怜悧な光が宿っていた。倉田は俊樹と莉乃を一瞥すると、その薄い唇の端を、嘲笑うかのようにわずかに吊り上げた。
そして。
その倉田のさらに後ろから、最後の一人が姿を現した、まさにその瞬間だった。
「…………っ!?」
俊樹の眼球が、これ以上ないほどに見開かれた。
心臓が、肋骨を突き破らんばかりに激しく跳ね上がる。
息が止まり、全身の毛穴が逆立つような衝撃が、俊樹の脳髄を直撃した。
「……長谷川……さん……?」
信じられないものを見る目で、俊樹は立ち尽くした。
そこに立っていたのは――。
長谷川慎司だった。
かつてアトリエ・アルカにおいて、二十年以上にわたり筆頭パタンナーとして現場を支え続け、そして詩織が追放された後、莉乃のデタラメなデザイン画に苦言を呈したことで、俊樹自らが怒鳴りつけ、追い出した男。
『お前はデザイナーの感覚を形にするただの職人だろうが!』
『口答えする暇があったら手を動かせ、この老害が!』
そう罵倒され、莉乃から「時代遅れの技術」と鼻で笑われ、雨の浅草へと退職届を叩きつけて去っていった、あの頑固な中年パタンナーの姿が、そこにあった。
だが――俊樹の知る長谷川の姿とは、まるで違っていた。
いつも作業場で着古していた毛玉だらけのカーディガンや、チョークの粉で汚れたエプロン姿ではない。
長谷川が身に纏っていたのは、驚くべき気品と威厳を放つ、完璧なチャコールグレーのテーラードスーツだった。
愛知県一宮市の奥田織物が織り上げた、空気を抱き込む極上のタスマニアメリノウール。
重力と人体の骨格の運動量をミリ単位で計算し尽くした、神代詩織の手による究極のパターン。
そして、墨田区の佐伯朋香が、摩擦熱を抑えた特注の低速ミシンで一針一針魂を込めて縫い上げた、奇跡の一着。
五十歳手前の、少し背中の丸まりかけていた職人の身体が、そのスーツを羽織った瞬間、まるで英国貴族のマスターテーラーのように、凛とした誇りと圧倒的な品格を放っていた。
首元からは、長年愛用してきた真鍮のスケールが、誇らしげに覗いている。
長谷川は眼鏡の奥の鋭い眼光で、大理石のテーブルの向こうに立つ俊樹と莉乃を、射抜くように見据えていた。
「な……なんで……」
俊樹の足元が、激しく揺らいだ。
混乱。
恐慌。
脳内の歯車が、激しい火花を散らして崩壊していく。
なぜだ。
なぜ、自分が切り捨てた人間たちが、ここにいる?
地味で陰気だと罵って追い出した元妻・詩織が、最高技術顧問のエグゼクティブチェアに座っている。
老害と罵倒して放逐したパタンナー・長谷川が、最高峰のスーツを着て、L&Vの幹部として堂々と立っている。
そして、世界を動かす投資家と、当代屈指の知財弁護士が、彼女たちの脇を固めている。
「長谷川さん……!? あんた、会社を辞めて……路頭に迷ってたんじゃ……!?」
俊樹の掠れた声に対し、長谷川は眉一つ動かさなかった。
ただ、その厳格な職人の口元から、冷ややかな、吐き捨てるような言葉が落ちた。
「路頭に迷う? ……笑わせるな、神代俊樹」
長谷川の声は、低く、重く、会議室の空気を震わせた。
「お前たちのような、布の目の向きすら知らん素人二人に、私の引く線は一ミリたりとも渡せないと言って会社を出たあの日から……私は、本物の服作りの現場に身を置いている。……お前たちの下らない虚栄心と足の引っ張り合いに付き合っている暇など、私には一秒もなかったよ」
「ひっ……!」
莉乃が喉の奥で短い悲鳴を上げ、俊樹の背後へと隠れるように身を縮めた。
かつて「時代遅れの技術に固執してると居場所なくなりますよ?」と鼻で笑い、サンプルのトワルを引き裂いて嘲笑った相手。
その長谷川から向けられる、一切の感情を交えない絶対的な侮蔑の視線に、莉乃の全身の皮膚が粟立っていた。
レオン・城崎・ヴァランタンが、優雅な足取りで大理石のテーブルの奥へと歩み寄った。
男は一度も俊樹や莉乃に視線を向けることなく、エグゼクティブチェアに座る詩織の真横へと進み出た。
そして、手袋を外した右手を胸元に当て、詩織に向かって、深々と、心底からの畏敬を込めて頭を下げたのだ。
「遅くなってすまない、マダム・影。……東京地裁、ならびに公正取引委員会への提出書類の最終確認に、少々手間取ってしまってね」
「いいえ、レオン。時間は十分です」
詩織は静かに頷き、眼鏡の奥の瞳を向けた。
その二人のやり取りを目にした瞬間、俊樹の呼吸が完全に止まった。
あのレオン・城崎・ヴァランタンが。
世界中のメガメゾンを傘下に収め、数千億円を動かすあの若き巨頭が、神代詩織に対して、まるで自らの主君に対するかのような、絶対的な敬意を払っている。
レオンはゆっくりと顔を上げると、大理石のテーブルの向かい側に立つ二人へと、琥珀色の瞳を向けた。
その眼差しは、先ほどまでの優雅さを一瞬にしてかなぐり捨て、極寒のシベリアの氷壁のように冷徹を極めていた。
「さて……株式会社アトリエ・アルカの代表取締役、ならびにクリエイティブディレクター殿」
レオンの低く、滑らかな声が響く。
「先ほど、我がグループの防音扉の向こうまで、実に下品な悲鳴が響き渡っていたようだがね。……不審者? 能無しの寄生虫? 警備員を呼んでつまみ出せ、だったかな?」
「め、滅相もございません……! それは、その……誤解でして……!」
俊樹は脂汗をダラダラと流しながら、両手を胸の前で激しく振った。
だが、レオンは俊樹の醜い弁明を一瞥することすらしなかった。
レオンは一歩前へ出ると、詩織の肩の斜め後ろに立ち、威厳に満ちた仕草で、その小柄な女性を指し示した。
「正式に紹介しよう」
レオンの声が、四十八階の特別役員会議室の天井を揺るがすように、堂々と、荘厳に響き渡った。
「彼女こそが――カルーゼル・デュ・ルーヴルのランウェイを制圧し、世界の五大百貨店を跪かせ、今まさに地球上のモードの頂点を塗り替えようとしている覆面ブランド『L'OMBRE』の、すべての型紙を引き、すべての設計仕様書を書き上げ、全コレクションのデザインを生み出している、唯一無二の創設者であり、最高技術顧問兼チーフデザイナー――マダム・影。神代詩織その人だ」
「…………っ!!!!」
その宣告が下された、まさにその瞬間だった。
世界が。
俊樹がこれまで信じ、縋り付き、自らを飾り立ててきた世界のすべてが、完全に音を立てて崩壊した。
「あ……が……っ」
俊樹の喉から、言葉にならない、潰れた蛙のような音が漏れた。
頭蓋骨の内側で、何かが決定的に粉砕される音がした。
マダム・影。
パリ・ファッションウィークで満場のスタンディングオベーションを巻き起こした、あの正体不明の怪物。
一晩で五十億円を超える買い付けオファーを叩き出し、九条志乃が「失われた服飾の神髄」と涙を流して讃えた、世界の頂点。
ネット上で「#WhoisLOMBRE」のハッシュタグが世界トレンド一位を獲得し、自分たちが南青山のオフィスで「どうせ表に出せないブスか年寄りがやってる時代遅れの職人技アピールだ」と嘲笑っていた、あのブランドの主。
それが。
神代詩織。
自分が「地味で陰気だ」と切り捨てた元妻。
自分が「俺のプロデュース力でお前を食わせてやっている」とガスライティングを浴びせ続けた女。
手切れ金五十万円を顔面に叩きつけ、雨の夜の泥水へと放り出した、あの小柄な女その人だった。
「う……そだ……」
俊樹の膝が、ガクガクと激しく震え出した。
「嘘だ……嘘だろ……! そんな……そんな馬鹿なことがあってたまるかァッ!!」
俊樹の叫びは、もはや人間の言葉としての体を成していなかった。
受け入れられるはずがない。
もし、この現実を受け入れてしまえば、自分がこれまで誇ってきた「アトリエ・アルカの成功」も、「若きカリスマプロデューサー」としての栄光も、すべてが神代詩織という巨星の才能にへばりついて甘い汁を吸っていただけの、惨めで浅ましい寄生虫の戯れ言であったと認めざるを得なくなるからだ。
だが、現実は冷酷だった。
大理石のテーブルの向こう側で、詩織は一切の動揺も見せず、ただ静かに、冷え切った瞳で元夫を見下ろしていた。
その隣には、世界最強の投資家レオンが立ち、背後には当代屈指の知財弁護士・倉田が控え、そして元請けの横暴を誰よりも知るパタンナー・長谷川が、腕を組んで冷淡に睨みつけている。
包囲網は、完璧だった。
逃げ道など、この部屋のどこにも、この世界のどこにも、一ミリたりとも残されていなかった。
「……あ、足が……」
ガクン、と俊樹の右膝から完全に力が抜けた。
ドサリ!!
鈍く重たい音が、吸音絨毯の上に響き渡った。
神代俊樹の身体が、大理石のテーブルの縁から滑り落ち、床の上に両膝をついて崩れ落ちたのだ。
レンタルしたばかりの十五万円のイタリア製タキシードのズボンが、絨毯の塵にまみれる。
テーブルにしがみつく両手の指先は白く痙攣し、顎がカタカタと音を立てて震え、見開かれた瞳からはポロポロと大粒の脂汗と涙が零れ落ちていく。
「俊樹さん……!?」
背後で、莉乃が悲鳴を上げて後退り、壁の珪藻土に背中を激しく打ち付けた。
その顔は、もはや厚塗りのファンデーションでも隠しきれないほど土気色に変色し、自慢の深紅のドレスの裾を震える手で握りしめながら、失禁寸前の恐怖で腰を抜かしかけていた。
役者は、揃った。
奪われた者と、奪った者。
本物の技術を研ぎ澄ませた職人と、他人の才能に寄生して虚飾を貪り食ってきた偽物たち。
そして、法と資本の絶対的な処刑人たち。
地上二百メートルの雲の上の聖域において、神代俊樹と立花莉乃の二人は、自らが組み上げた嘘と欺瞞の果てに、完全に断頭台の階段を登り切ってしまったのだ。




