第47話:寄生虫の絶叫
地上二百メートルの上空に浮かぶ特別役員会議室の空気は、完全に凝固していた。
外のパノラマウィンドウからは、冬の鋭利な日光が降り注ぎ、黒大理石の一枚板で作られたテーブルの天板を、まるで凍てついた漆黒の氷原のように白く照らし出している。
だが、その空間のどこにも、太陽の温もりなど一欠片も存在しなかった。
漂っているのは、皮膚の毛穴という毛穴を針で刺すような、絶対零度の静寂だけだった。
「し……詩織……!? な、ぜ……お前が……そこに……座って……」
神代俊樹の喉から、空気の漏れるような、かすれきった呻き声が零れ落ちた。
イタリア製の最高級タキシードの襟元は、一瞬にして噴き出した冷たい脂汗でべっとりと張り付き、呼吸をするたびに首を絞め上げてくる。
俊樹の視界は、激しい貧血のように白く明滅していた。
眼球の奥がズキズキと痛み、脳髄が、網膜の前の光景を現実として認識することを拒絶して警報を鳴らし続けている。
神代詩織。
かつて南青山のマンションのリビングで、冷えたシャンパンを片手に、自分が土足で踏みにじった女。
服飾の名門大を首席で出たことだけが取り柄の、自己主張もできず、愛想笑いすら満足に浮かべられない、地味で陰気な裏方。
「お前のような女が横にいたらブランドの格が落ちる」
「お前は言われた通りに作業するだけの能無しの寄生虫だ」
そう吐き捨て、五拾万円の端金を手切れ金として顔面に叩きつけ、雨の夜の暗闇へと追い出した、あの女が。
なぜ、この世界最高峰の投資コングロマリット「L&Vホールディングス」の聖域にいる?
なぜ、世界を席巻する謎のハイブランド『L'OMBRE』の命運を握る、最高技術顧問兼チーフデザイナーのエグゼクティブチェアに、平然とした顔で腰掛けているのだ?
あり得ない。
そんな悪夢が、現実に存在していいはずがない。
俊樹の膝が、ガクガクと音を立てて震え出し、大理石の天板に突いていた両手の指先から、急速に血の気が引いていく。
脳内で、これまで自分が組み上げてきた「成功へのシナリオ」のすべてが、ガラガラと音を立てて崩壊しかけていた。
だが――。
その俊樹の横で、まったく別の種類の狂気が爆発した。
「……は? ちょっ……と……」
立花莉乃が、手にしたiPadを抱えたまま、目を丸くして固まっていた。
だが、その顔に浮かんでいたのは、俊樹のような底知れぬ恐怖ではなかった。
事態の全容を理解できない浅薄さと、持ち前の肥大化した自己愛、そして何よりも「自分が見下していた格下の存在が、自分より上の席に座っている」という事実に対する、耐え難い屈辱と憤怒だった。
莉乃の引きつった顔面が、一瞬にして耳の付け根まで真っ赤に染め上げられた。
鼻翼が激しく広がり、濡れたような真紅のルージュが塗られた唇が、怒りでワナワナと痙攣する。
「なんなのよこれッ!? 悪質なドッキリかなにかのつもり!?」
キィィィンッ! と鼓膜を劈くような、甲高い金切り声。
静謐を極めていた百平米の役員会議室に、品性の欠片もない下品な絶叫が無様に反響した。
莉乃は深紅のイブニングドレスの裾を乱暴に蹴り飛ばし、ピンヒールを絨毯の上に突き立てて、一歩前へと詰め寄った。
「俊樹さんッ! ちょっと、しっかりしなさいよ! この女、あんたが捨てたあの地味で陰気な元奥さんでしょ!? なんでこんなハイブランドの役員室の、一番偉そうな椅子に座ってるわけ!?」
莉乃の怒声は止まらなかった。
彼女の貧困な想像力の中では、「神代詩織がL'OMBREの頂点に君臨している」という現実など、天地が逆転しても結びつかなかったのだ。
彼女にとって詩織とは、授賞式の楽屋裏の冷たい床に這いつくばり、自分が不機嫌になって引っ張って破いたドレスの裾を、必死になって縫い直していた惨めな下僕でしかなかった。
夫に捨てられ、仕事も奪われ、手切れ金五十万円で放り出された、憐れな敗残者でしかなかったのだ。
「あんた、どうやってここに入り込んだのよッ!?」
莉乃はiPadを大理石のテーブルの上に乱暴に叩きつけた。
ガツン! と硬質な衝突音が響き、液晶画面の端に微かな亀裂が入る。
莉乃は手袋をはめた指先で、テーブルの向こうの詩織を真っ直ぐに指差した。
「清掃員か何かのフリして紛れ込んだの!? それとも、俊樹さんがここにプレゼンに来るのを嗅ぎつけて、ストーカーみたいに待ち伏せしてたわけ!? みっともないにもほどがあるわよ! あんたがいくら復縁を迫ったって、俊樹さんは私を選んだの! 華もセンスもないあんたなんか、とっくに用済みで捨てられたのよ!!」
唾を飛ばし、喚き散らす莉乃。
その姿には、先ほどまで「新時代のミューズ」を気取って上目遣いに微笑んでいた面影など、微塵も残っていなかった。
剥き出しのヒステリー。
露出した胸元が激しく波打ち、厚塗りされたファンデーションが皮脂と怒りの熱でドロドロと浮き上がり、首筋の青筋が醜く浮き上がっている。
「ちょっと! 警備員は何やってんのよッ!!」
莉乃は振り返り、閉ざされた黒檀の扉に向かって叫んだ。
「セキュリティはどうなってるわけ!? こんな不審者が、世界最高のL&Vの役員室に入り込んでふんぞり返ってるのよ!? 早く警備員を呼んで、この能無しの寄生虫をつまみ出してよ!! 警察に突き出しなさいよッ!!」
喚き立てる声が、高い天井に跳ね返り、空虚に響き渡る。
だが――。
どれほど莉乃が叫ぼうとも。
扉が開く気配は、微塵もなかった。
警備員が駆け込んでくる足音も、外のスタッフが狼狽する気配すらもない。
室内を満たしているのは、ただ、不気味なまでの静寂だった。
エアコンの送風音すら聞こえない。
まるで、外界の時間の流れから完全に切り離された真空地帯のように、冷徹な静寂が横たわっている。
そして――。
大理石のテーブルの向こう側。
最高級レザーのエグゼクティブチェアに腰掛けた神代詩織は、微動だにしていなかった。
「…………」
眉ひとつ、動かさない。
唇を尖らせることも、怒りに顔を歪めることも、嘲笑を漏らすことすらない。
ただ、両手を椅子の肘掛けに静かに置いたまま、氷のように研ぎ澄まされた眼差しで、目の前で喚き散らす莉乃の姿を、冷淡に見据えていた。
その視線。
それは、怒れる人間が敵に向ける視線ではなかった。
路傍でけたたましく羽音を立てて暴れ回る、名もなき羽虫を一瞥するような、絶対的な無関心と、感情の介在しない観察者の瞳。
「な……なによ……」
莉乃の唇が、ピクリと引きつった。
叫び続けていた声が、不意に途切れる。
おかしい。
何かが、決定的に狂っている。
もし、この女が不審者として勝手に侵入してきたのなら、なぜこんな堂々としていられるのか。
なぜ、この部屋のセキュリティセンサーが作動しないのか。
なぜ、先ほどの女性コンシェルジュは、この女に向かって「当グループの最高技術顧問兼、本プロジェクトの最終決裁者です」と深々と頭を下げて紹介したのか。
「な、なんで……何も言い返さないのよ……」
莉乃の声のボリュームが、急速に落ちていく。
喉の奥が、急激に渇いていくのを感じた。
詩織の双眸から放たれる、底知れぬ静寂の重圧。
それは、大声で喚き散らすことしかできない莉乃の薄っぺらいプライドを、真正面からすり潰すような、本物の巨星の威圧感だった。
莉乃の視線が、無意識のうちに、詩織の全身を舐めるように走った。
――仕立てが、違う。
ファッションの基礎など何一つ知らず、型紙の読み方すら怪しい莉乃であっても、その「異常さ」には気づかざるを得なかった。
詩織が纏っている、漆黒のタキシードスーツ。
自分が今日、限度額ギリギリのカードでレンタルしてきたあの深紅のイブニングドレスが、まるで道端の安売りセールで買ってきた化学繊維のボロ布に見えるほど、その黒は深く、重く、そして息を呑むほど滑らかだった。
肩先からラペル、そして前身頃の合わせに至るまで、生地の落ち感に、一ミリの波打ちも、一箇所の引きつれも存在しない。
詩織の呼吸に合わせて、布地がまるで生き物のようにかすかに伸縮し、首元と鎖骨のラインに吸い付くように自立している。
それは、先日のパリ・コレクションにおいて世界中の批評家たちを狂乱させ、九条志乃が涙を流して絶賛した、あの『L'OMBRE』のシグネチャースタイルそのものだった。
そして――詩織の右手。
白く、細く、だが無数の針タコとハサミだこが刻まれたその手首には、見慣れたピンクッションが巻かれていた。
そして、黒大理石の天板の上、詩織の指先が触れる位置に、静かに置かれているもの。
――黒光りする、重厚な鋼の刃。
祖父の代から受け継ぎ、服飾学校時代から毎日手入れを欠かさなかった、あの「庄三郎」の裁ちバサミ。
そのハサミの冷たい輝きを目にした瞬間、莉乃の脳裏に、先日の展示会の悪夢がフラッシュバックした。
九条志乃が言い放った、あの死刑宣告。
『服に対する敬意も、着る人間への誠意もない。布地の目を無視して裁断した、ただのゴミね』
そして、ネット上で爆発した、あの告発の嵐。
折れたミシン針。
引き裂かれた脇下の縫い目。
海外ブランドの画像を切り貼りしただけの、お粗末な盗作の証拠。
「……あ……」
莉乃の喉から、掠れた吐息が漏れた。
心臓が、早鐘のように激しく脈打ち始める。
指先が、冷え切っていく。
(違う……。ドッキリなんかじゃない……)
莉乃の浅薄な脳内でも、パズルのピースが、恐ろしい勢いで噛み合い始めていた。
L'OMBREの立ち上げ。
ファーストコレクションのゲリラ販売で完売した三百着。
ルーヴルの地下を制圧した、三十六着の漆黒のコレクション。
そして、この国内一次サプライヤーの緊急公募――。
なぜ、アルカ社が提出したあのデタラメな提案書が、名だたる大手商社や有名OEM企業を差し置いて、書類審査を通過したのか。
なぜ、四十八社の中から、アルカ社が「最終候補三社」に選ばれたのか。
なぜ、この大手町L&Vタワーの最上階に、自分たちが招かれたのか。
――偶然などでは、なかった。
――自分たちの実力が認められたわけでも、莉乃のポートフォリオに外資の役員が惚れ込んだわけでもなかった。
最初から。
すべて、最初から仕組まれていたのだ。
この女の手によって。
自分たちが雨の夜に追い出し、才能を奪い、ゴミのように踏みにじった、この元妻の手によって――。
「ひ……っ」
莉乃の喉から、小さな悲鳴が漏れた。
先ほどまでの傲慢な勢いは完全に霧散し、足がガクガクと震えて、無意識のうちに半歩後ずさった。
胸元を強調していた両手は、恐怖で自らの身体を抱きしめるように縮こまり、真紅のルージュが塗られた唇は、血の気を失って紫色に変色していく。
「俊樹さん……」
莉乃は震える手で、俊樹のタキシードの袖を掴んだ。
その爪が、俊樹の腕に食い込む。
「ねえ、俊樹さん……これ、嘘でしょ……? なんで詩織が……なんで、この女が……L'OMBREの……?」
だが。
袖を掴まれた俊樹は、莉乃の問いかけに答えることなどできなかった。
俊樹の顔は、すでに土気色を通り越し、死人のように青白く硬直していた。
大理石のテーブルに両手を突いたまま、顎がカタカタと激しい音を立てて鳴っている。
全身から噴き出す冷や汗が、眉間を伝い、鼻先からテーブルの黒大理石の上へと、ポタ、ポタと落ちて小さな水たまりを作っていた。
「……詩織……」
俊樹の唇から、血を吐くような掠れ声が漏れた。
その瞳の奥には、すべてを失った男の、底知れぬ絶望と狂気が渦巻いていた。
「お前が……L'OMBREの……デザイナー……だったのか……?」
俊樹の問いかけに対しても、詩織は言葉を発しなかった。
ただ、静かに、氷のような瞳で元夫を見つめ返している。
その沈黙こそが、何よりも雄弁な、絶対の肯定だった。
自分たちが盗み、自らの手柄として誇ってきた過去の栄光。
自分たちが「いつでも替えの利く作業員」と切り捨てた女の技術。
その女が、自分たちの手が届かない天上の頂点に立ち、自らを破滅させるための処刑人として、目の前に座っているという動かしがたい現実。
神代俊樹と立花莉乃の二人は、自らの浅ましい虚栄心と強欲に目を眩ませ、自らの足で、逃げ場のないギロチンの刃の真下へと首を突っ込んでいたのだ。
静まり返った特別役員会議室。
張り詰めた空気の向こう側で、いまだ誰も触れていない重厚な黒檀の扉の奥から、複数の足音が近づいてくる気配が、微かに響き始めていた。




