第46話:回る椅子、凍りつく時間
「――我が社の高い技術力と、ここにいる立花莉乃の瑞々しい感性を融合させることで、御社のプレタポルテラインに新たな風を吹き込み、世界中を熱狂させてみせます!」
神代俊樹が喉を震わせて放った渾身のプレゼンテーションの結びの言葉が、天井高四メートルを超える広大な特別役員会議室の壁面に反響し、やがて消え去った。
俊樹は両手を机の上に広げたまま、肩で浅く息をしていた。
額には脂汗が光り、こめかみの血管がドクドクと拍動している。だが、その瞳には、自らの饒舌な弁舌に対する確信と、年間五億円の契約を手中に収めたという傲慢な高揚感が満ちていた。
隣に立つ立花莉乃もまた、深紅のイブニングドレスの深い胸元を誇らしげに押し出し、潤んだ瞳で上目遣いに背後のシルエットを見つめている。完璧なプレゼン。完璧なサンプル。そして、男の自尊心をくすぐる完璧な色仕掛け。
これだけのカードを突きつけられて、断れる男などこの世に存在するはずがない――二人は、自らの勝利を寸分も疑っていなかった。
だが。
その熱狂を切り裂くように、部屋の最奥から落ちてきたのは、想像を絶する「冷気」だった。
「――話は、それだけかしら」
低く、耳の奥の鼓膜を氷の針で直接撫でるような声。
高圧的な怒気も、嘲笑の響きもない。
ただ、絶対零度の深海の底から響いてくるような、澄み渡り、一切の感情を削ぎ落とした静寂の響き。
「え……?」
俊樹の喉から、間の抜けた掠れ声が漏れた。
その声の質。
発音のイントネーション。
どこかで聞いたことがある――いや、そんな曖昧な記憶ではない。五年間、毎日毎日、南青山の狭いアトリエで、朝から晩まで隣で聞き続けていた、あの声。
だが、俊樹の脳が、その一致を猛烈な勢いで拒絶した。
あり得ない。そんなはずがない。ここにいるのは、パリ在住の正体不明の奇才であり、欧州巨大コングロマリット「L&Vホールディングス」の最高技術顧問なのだ。こんな天上の聖域に、あの女がいるはずがないのだから。
――キィィ……。
沈黙に支配された部屋に、乾いた微細な音が響いた。
最高級のバッファローレザーが擦れ合う、滑らかな摩擦音。
窓の外のパノラマを見下ろしていた漆黒のハイバック・エグゼクティブチェアが、床のベアリングの上を、ゆっくりと、抗いようのない緩慢な速度で半円を描き始めた。
時間が、引き延ばされる。
秒針の音が止まったかのような錯覚の中、窓から降り注ぐ真昼の強烈な陽光が、椅子の回転に合わせて角度を変えていく。
純白の光の檻から、その人物の右肩が抜け出た。
続いて、寸分の乱れもなく仕立てられた漆黒のラペル。
肘掛けに置かれた、華奢でありながら鋼のような芯を感じさせる細い指先。
逆光のコントラストが剥ぎ取られ、天井に埋め込まれた昼光色のライン照明が、その人物の全身を、容赦のない明瞭さで照らし出した。
そして――椅子が完全に回転を止め、その顔が正面を向いた。
「…………カヒュッ」
俊樹の喉の奥から、肺の空気が強制的に絞り出されたような、無様な異音が漏れた。
心臓が、ドクンと嫌な破裂音を立てて跳ね上がり、そのまま肋骨の内側で凍りついた。
全身の血管から血の気が一瞬にして引き、足の裏から頭の天辺へと、氷水を直接流し込まれたような激しい悪寒が駆け抜ける。
視界が白く明滅し、呼吸の仕方を完全に忘れた俊樹の顎が、ガクガクと小刻みに痙攣し始めた。
「あ……、あ……」
そこに座っていたのは。
完璧に仕立てられた、漆黒のタキシードスーツを纏った女性だった。
肩先から胸元へと流れる襟のラインには、一ミリの浮きも歪みもなく、人体の鎖骨と前肩のカーブを完全に掌握した神業の立体裁断が施されている。
無駄な装飾を一切削ぎ落としたその佇まいは、装飾によって身を飾るのではなく、衣服そのものの構造美によって着る者の尊厳を天の高みへと押し上げていた。
黒髪はタイトに後ろで束ねられ、白磁のように透き通った肌の上に、チタンフレームの細い眼鏡が知的な光を宿している。
そして――その眼鏡の奥にある、双眸。
感情の欠片すら浮かべず、ただ冷徹に、机を挟んだ二人を見下ろすその漆黒の瞳。
見下ろされているのではない。
まるで、顕微鏡のプレパラートの上に載せられた害虫の死骸を観察するかのような、絶対的な無機質さと、底知れぬ断罪の眼差し。
――神代詩織。
紛れもない、神代詩織本人だった。
「な……ん……で……」
俊樹の脳髄が、激痛を伴って軋みを上げた。
拒絶。
混乱。
恐怖。
視神経が捉えた映像と、自らが信じ込んできた現実との落差が大きすぎて、脳のシナプスが焼き切れる寸前の悲鳴を上げている。
なぜ、お前がそこにいる?
なぜ、お前がその椅子に座っている?
お前は、あの雨の夜、南青山のタワーマンションのリビングで、みすぼらしいボストンバッグ一つを抱えて放り出された女ではないのか。
「お前みたいな地味で陰気な女が横にいたらブランドの格が落ちる」
「お前は言われた通りに作業するだけの能無しの寄生虫だ」
そう罵倒され、顔面に五拾万円の手切れ金を投げつけられ、泥水に濡れたアスファルトの上へ追い出された、あの惨めな負け犬の元妻ではないのか。
だが――目の前に座るその女性のどこに、かつての面影があるというのか。
夫の顔色を窺い、自己主張もできず、狭いアトリエの床で針を刺して指先を血で染めながら、誰かの影として縮こまっていたあの女の姿など、そこには微塵も存在しなかった。
ここにいるのは、世界を熱狂させるハイブランド『L'OMBRE』の頂点に君臨し、数千億の巨大資本を背後に従え、自らの生み出した服の力だけで世界をねじ伏せた、正真正銘の「女王」だった。
「……っ!?」
隣に立つ立花莉乃もまた、息を呑んだまま硬直していた。
掲げていたiPadを持つ手が、小刻みに震え始める。
自慢の深紅のドレスも、大胆に露出させた胸元も、完璧に塗り固めたメイクも、目の前の女が放つ圧倒的な「本物の気迫」の前に、まるで道端の泥水に落ちた紙屑のように、下品で無様な色あせたゴミへと成り下がっていた。
「……う、そ……」
莉乃の唇から、引きつった呟きが漏れた。
「なんで……? 俊樹さん、この女……あの、あんたの……元奥さん……?」
莉乃の言葉に、俊樹は答えることすらできなかった。
声帯が麻痺していた。
指先が凍りつき、膝の関節がガクガクと音を立てて崩れそうになるのを、大理石のテーブルの縁に指を食い込ませることで辛うじて支えていた。
沈黙。
広大な役員会議室の空気が、絶対零度まで凍結していく。
詩織は、微動だにしなかった。
椅子の上で足を組み替えることもなく、背筋を完璧な角度に伸ばしたまま、静かに二人を見据え続けている。
その細い指先には、墨田区の町工場から肌身離さず身につけている、あの使い古したピンクッション。
そして、黒大理石の天板の上、詩織の手元には、黒光りする重厚な鋼の刃――祖父の代から受け継いできた「庄三郎」の裁ちバサミが、静かに横たえられていた。
そのハサミの刃先が、天井の照明を冷たく反射し、まるで処刑台のギロチンの刃のように、俊樹の首筋を無言で狙い定めている。
「……アトリエ・アルカ代表取締役、神代俊樹氏」
詩織の唇が、静かに開かれた。
抑揚のない、だが部屋の隅々まで染み渡る、凛とした澄んだ声。
「そして……クリエイティブディレクター、立花莉乃氏」
二人の名前が、最高技術顧問の口から淡々と読み上げられる。
かつて南青山のサロンで、酒を酌み交わしながら「私たちは選ばれた人間」と自惚れ、世界中を欺いてきた二匹の寄生虫の看板。
それが、今、世界で最も格式高い舞台の上で、白日の下に晒されていた。
「素晴らしいプレゼンテーションだったわ」
詩織は眼鏡の位置を、中指でわずかに押し上げた。
その瞳の奥に、氷海のように冷たい、底知れぬ嘲笑が微かに揺らめいた。
「過去五年間にわたる、三万着の納品実績。不良率〇・一パーセント以下の完璧な品質管理マニュアル。そして……愛知県一宮市の奥田織物、東京都墨田区の佐伯縫製を専属的に囲い込んでいるという、強靭なファクトリーネットワーク」
詩織は視線を落とし、テーブルの上に広げられた百四十ページの提案書――昨夜、俊樹が血の滲む指先で送信した、あの嘘と剽窃で塗り固められた書類の束へと向けた。
「何ひとつ、淀みのない言葉だったわ。……まるで、すべてが最初からあなた自身の手で築き上げられた、揺るぎない真実であるかのように」
「し……、詩……」
俊樹の口から、空気が抜けるような音が漏れる。
舌が上顎に張り付き、言葉が紡げない。
詩織の言葉は、褒め言葉などではなかった。
自らの犯した罪、自らの吐いた嘘、自らの盗んだ手柄のすべてを、一文字の狂いもなく正確に把握している者だけが放つことのできる、逃げ場のない「包囲網の確認」だった。
「詩織……なぜ、お前が……そこに……」
俊樹は激痛の走る喉を無理やり震わせ、ようやくそれだけの言葉を絞り出した。
「なぜ……お前が、L&Vの……最高技術顧問なんだ……!? L'OMBREは……パリのブランドのはずだろ……!? なぜ、お前が……その椅子に座っているんだッ!?」
俊樹の悲鳴のような問いかけ。
だが、詩織の表情は、ピクリとも動かなかった。
詩織はゆっくりと手を伸ばし、大理石のテーブルの上に置かれていた、あのサンプル――俊樹たちが自社の技術力として誇らしげに広げた、カシミヤ混ウールのテーラードジャケットの前へと、指先を滑らせた。
白く、細く、だが無数の針タコとハサミだこが刻まれた、職人の指先。
その手が、ジャケットのラペルに触れた瞬間。
室内の空気が、さらに一段、深い底へと沈み込んだ。
「まだ……気づかないの? 神代俊樹」
詩織はジャケットの襟元を撫でながら、低く、哀れむように呟いた。
「布の一片、針の一本すら触れないあなたが……私の引いた線の上に胡座をかいて、他人の服を盗むことしか知らなかったあなたが。……自らの足で歩き出した私の服の重みに、気づくはずもないわね」
詩織の視線が、再び俊樹を真正面から射抜いた。
その瞳に宿る、圧倒的な光。
かつて男が「地味で陰気な影」と蔑み、土足で踏みにじった女は、今やその影そのものを世界を呑み込む漆黒の鎧へと鍛え上げ、男のすべての虚栄を焼き尽くすために、その玉座に君臨していた。
回る椅子。
凍りつく時間。
自らが掴んだと思っていた蜘蛛の糸が、実は自らの首を絞め上げるための絞首刑の縄であったという残酷な現実が、逃げ場のない大理石の部屋の中で、神代俊樹の脳髄を容赦なく叩き潰そうとしていた。




