第45話:逆光のシルエット
重厚な黒檀の防音扉が、背後で吸い込まれるように音もなく閉ざされた。
カチリ、と微かな電子ロックの噛み合う音が、張り詰めた室内の空気に鋭く響き渡る。
その瞬間、外界――地上二百メートル下の大手町のオフィス街、冷たい冬風のざわめき、そして南青山の路地裏に漂っていたあの饐えた破滅の臭気すらも、完全に別の銀河の出来事であるかのように隔絶された。
大手町「L&Vタワー」四十八階、特別役員会議室。
広さは百平米をゆうに超えていた。
床には、足音を完璧に吸い込む毛足の深いチャコールグレーの吸音絨毯が敷き詰められ、壁面には一切の絵画や装飾を排したオフホワイトの珪藻土が、彫刻のような陰影を湛えている。
室内の湿度と温度は、まるで最先端の美術品収蔵庫のように完璧に制御され、漂っているのは高純度な空気の冷たさと、微かな上質のリネンオイルの芳香だけだった。
部屋の中央を貫くように鎮座していたのは、長さ十メートルに及ぶ、黒大理石の一枚板で作られた長大なミーティングテーブル。
継ぎ目ひとつなく鏡面に磨き上げられたその漆黒の天板は、天井の直線的な間接照明の光を、氷の表面のように冷たく反射している。
だが――神代俊樹と立花莉乃の視線を一瞬にして奪い、その呼吸を凍りつかせたのは、部屋の広さでも、大理石の威容でもなかった。
部屋の最奥。
南側と西側の二面を覆い尽くす、足元から天井まで広がる巨大なパノラマウィンドウ。
午前十時の冬の澄み切った陽光が、遮るもののない天空から斜めに降り注ぎ、部屋の奥一帯を、眩いばかりの純白の逆光で包み込んでいた。
光の海の向こうには、遠く雪を頂く富士の峰と、銀色に輝く東京湾の水平線が、まるで天上界の借景のように広がっている。
そして。
その神聖なまでの逆光のど真ん中。
窓の外の景色を見下ろすようにして、巨大なハイバックのエグゼクティブチェアが、こちらに完全に背を向けて置かれていた。
深い黒の最高級オイルレザーで包まれたその椅子に、一人の人物が、微動だにせず腰掛けていた。
逆光のコントラストによって、その姿は完全なる漆黒の「シルエット」として浮かび上がっていた。
細身でありながら、寸分のブレもない垂直の背筋。
肩には、吸い付くように仕立てられた漆黒のテーラードジャケットが羽織られ、首筋から背中へと流れるラインは、一本の研ぎ澄まされた日本刀を思わせる凄絶な気迫を放っている。
肘掛けに置かれた指先には、余計な宝飾品など何一つ見当たらない。
ただ、窓の外の街並みを睥睨するように、静止していた。
「……っ」
俊樹の喉仏が、ゴクリと重たい音を立てて上下した。
足の裏から、冷たい悪寒が全身を駆け上がる。
声が出ない。
そこに座っているのが何者なのか、顔どころか、年齢も性別すらも逆光に溶けて判然としない。
だが、その背中から放たれる気配――自らの身体の一ミリの狂いすら許さぬような、極限の規律と絶対的な審美眼の重圧が、部屋全体の気圧を押し下げているかのように重苦しく皮膚を刺していた。
「当グループの最高技術顧問兼、本プロジェクトの最終決裁者です」
二人の斜め後ろに控えていた女性コンシェルジュが、抑揚のない滑らかな声で告げた。
「サプライヤー選定に関する全権が、この場に委ねられております。……プレゼンテーションを開始してください」
コンシェルジュは深々と一礼すると、音もなく後退り、重厚な黒檀の扉を開けて退室した。
バタン。
重い密閉音が響き、完全な静寂が再び部屋を支配する。
残されたのは、俊樹と莉乃、そして逆光の中に佇む、背を向けたままの謎のシルエットだけだった。
「……」
沈黙。
背後の人物は、椅子を回転させようとも、振り返ろうともしなかった。
ただ、窓の外の東京を見下ろしたまま、完全な静止を保っている。
まるで、部屋に入ってきた二人の存在など、視界に入れる価値すら認めていないかのような、底知れぬ冷淡さ。
(な……何なんだ、この威圧感は……)
俊樹の額に、ツッと大粒の冷や汗が滲み出た。
レンタルした最高級タキシードの襟元が、まるで首輪のように首を締め上げてくる。
だが、ここで怯むわけにはいかなかった。
背後には、二億八千万円の負債と、明日午後三時に迫る手形の不渡り、そして破産という名の断頭台が口を開けて待っているのだ。
この席で五億円の契約書をもぎ取らなければ、自分は今日で終わりなのだ。
(落ち着け……! 相手はパリ在住の正体不明の奇才デザイナーだ。変人や気難しい職人なんざ、アパレル業界にはいくらでもいる。……外資の連中なんて、最初はこちらを試すために高圧的な態度を取ってくるのが常套手段だ。呑まれるな。俺の営業力と、莉乃の華があれば、どんな偏屈な芸術家だろうと丸め込める!)
俊樹は奥歯を強く噛み締め、両手で頬の筋肉を無理やり引き上げると、かつて数々のスポンサーを言いくるめてきた、あの会心の営業スマイルを顔面に貼り付けた。
隣の立花莉乃もまた、最初の一瞬こそ気圧されていたものの、すぐに持ち前の強烈な自己愛と虚栄心を取り戻していた。
莉乃は深紅のイブニングドレスの胸元を指先でわずかに押し広げ、豊かなバストの谷間を強調するように肩甲骨を寄せて胸を張った。
手にしたiPadの画面を点灯させ、自らのレタッチ写真をトップに表示させる。
そして、ピンヒールをカツンと絨毯の上に響かせながら、大理石のテーブルの脇へと艶然とした足取りで一歩踏み出した。
「初めまして、最高技術顧問様」
莉乃の唇から、鈴を転がすような甘ったるい、計算し尽くされた猫撫で声が滑り出た。
彼女は長いまつ毛を伏せ、上目遣いにその背中を見つめながら、自らの首筋の滑らかな肌を誇示するように首を傾げた。
「株式会社アトリエ・アルカのクリエイティブディレクターを務めております、立花莉乃です。……本日は、世界を席巻する『L'OMBRE』の革新的な世界観に、私自身の感性とヴィジョンを直接お伝えできるこの機会をいただき、心より光栄に存じます」
莉乃は胸元に片手を当て、深々と頭を下げてみせた。
ドレスの深いV字の切れ込みから、白い肌が惜しげもなく覗く。
男の審査員であれば、誰もが視線を釘付けにされるはずの、完璧な色仕掛けの所作。
だが――。
エグゼクティブチェアの主は、指先ひとつ動かさなかった。
ピクリとも反応しない。
莉乃の甘い声も、香水の芳香も、まるで空気の振動としてすら認識していないかのように、完全な無視。
「……っ」
莉乃の貼り付けた笑顔の端が、屈辱でわずかに引きつった。
だが、俊樹が素早く前に進み出た。
「初めまして、最高技術顧問様! アトリエ・アルカ代表取締役の神代俊樹と申します!」
俊樹はよく通る朗々としたビジネスボイスを響かせ、大理石のテーブルの正面、そのシルエットの真向かいに立った。
そして、小脇に抱えていた黒い不織布のガーメントバッグをテーブルの上に恭しく置くと、滑らかな手つきでファスナーを開いた。
――サァッ。
ガーメントの中から引き出されたのは、昨夜、二人が地下金庫から引っ張り出し、詩織のネームタグを切り落として自社の金糸タグを貼り付けた、あのカシミヤ混ウールのテーラードジャケットだった。
俊樹は手袋もつけぬ手でジャケットの両肩を持ち上げ、光の反射を計算するようにして、黒大理石の天板の上に美しく広げた。
「まずは、言葉よりも先に、我が社の『技術力』そのものをご高覧いただきたく存じます」
俊樹は自信満々に胸を張り、ジャケットのラペルを指先で誇らしげに示した。
「こちらは、我が社のアーカイブの中でも最高峰の技術を結集させた一着でございます。最高級のカシミヤ混ウールを用い、芯地には本毛芯を贅沢に据え付け、人体の運動量と美しさを極限まで両立させた立体裁断。……いかがでしょうか。このアームホールの流麗な吸い付き、首元から肩先へと流れる完璧な前肩設計。これこそが、我がアトリエ・アルカが長年にわたり培ってきた、世界基準のテーラリング技術でございます」
俊樹の口から、澱みなく美辞麗句が吐き出される。
かつて神代詩織が、三日三晩徹夜し、指先を針で何十回も刺しながらミリ単位で割り出した奇跡の幾何学。
それを、あたかも自らの手腕とディレクションによって生み出された自社の誇りであるかのように、平然とした顔で語り続ける。
「御社『L'OMBRE』が昨夜のパリ・コレクションにおいて満場の喝采を浴びたこと、私も心より敬服しております。しかしながら、世界中から殺到する数万着のプレタポルテのオーダーに応えるためには、小手先の縫製工場では到底太刀打ちできません。……必要なのは、厳しい品質管理基準(QC)を完璧に統括し、職人たちを束ね上げる、強靭な『国内一次サプライヤー』の存在です」
俊樹は脇に抱えていた百四十ページに及ぶ分厚い提案書――昨夜、詩織の図面を盗用し、架空の工場ネットワークを書き連ねたあの書類の束を、バサリと大理石のテーブルの中央へと滑らせた。
「ご覧ください。我が社は過去五年間にわたり、三ツ星百貨店様をはじめとする国内最高峰のラグジュアリーフロアに、累計三万着を超えるハイエンド既製服を供給してまいりました。代表である私の直接的な技術指導のもと、製品不良率は一貫して〇・一パーセント以下を維持。……さらに、愛知県一宮市の奥田織物様、東京都墨田区の佐伯縫製様といった、日本屈指の熟練ファクトリーを専属的なネットワークとして完全に掌握しております」
嘘。
虚偽。
剽窃。
何一つ真実のない、粉飾で塗り固められた詐欺のプレゼンテーション。
だが、俊樹の瞳には、一切の躊躇も罪悪感もなかった。
あるのは、この場を支配し、五億円の契約を力づくでもぎ取るという、ギラギラとした強欲の光だけだった。
「そして――何よりも我が社が他社と決定的に異なるのは、ただ服を作るだけの退屈な下請けではない、ということです」
俊樹は会心の笑みを浮かべ、隣の莉乃へと大袈裟に手を差し伸べた。
「ここにいる立花莉乃は、SNS総フォロワー数六十万人を超え、先日のジャパン・モード・クリエイション大賞において最優秀新人デザイナー賞を獲得した、名実ともに次代のモードを牽引するトップアイコンでございます」
莉乃がタイミングを合わせ、iPadを両手で掲げてみせた。
画面には、胸元を強調した妖艶な自撮り写真と、『CREATIVE VISION & PORTFOLIO』の文字。
「顧問様」莉乃が再び甘ったるい声で囁きかける。
「L'OMBREの持つ圧倒的な構造美に、私の瑞々しい感性と、Z世代・ミレニアル世代を熱狂させる発信力を融合させることで、アジア全域に向けた『日本限定セカンドライン』を展開することが可能です。……私が専属モデル兼アドバイザーとして矢面に立ち、ブランドの持つ崇高な影を、世界中の若い女性たちの光へと変えてみせます♡」
莉乃は自信満々に微笑み、完璧な角度で小首を傾げた。
自らの美貌と、男の自尊心をくすぐる言葉。
これまで数々のプロデューサーや雑誌編集者を虜にし、自らの意のままに操ってきた「絶対の武器」。
「いかがでしょうか、最高技術顧問様!」
俊樹は両手を大きく広げ、大理石のテーブルに身を乗り出した。
顔面には、これ以上ないほど輝かしい、完璧な営業マンの笑みが張り付いている。
「卓越した製造管理能力、名門工場の専属ネットワーク、そして時代のアイコンによる爆発的なプロモーション力! この三つを完璧に兼ね備えたサプライヤーは、日本中……いえ、世界中を探しても、我がアトリエ・アルカをおいて他に存在いたしません! 御社『L'OMBRE』の世界制覇の最後のピースとして、我が社を一次サプライヤーに選定いただくことを、強く確信しております!!」
俊樹の力強い声が、百平米を超える広大な役員会議室の隅々まで、朗々と反響した。
完璧なプレゼンだった。
実績、数字、サンプル、そして華やかなヴィジョン。
これだけのものを並べ立てられて、断れる経営者などこの世に存在するはずがない。
手応えは百パーセント。
五億円の契約書は、すでに自分たちの手の中にあるのだと、俊樹の心臓は歓喜に打ち震えていた。
――だが。
プレゼンテーションが終わり、俊樹の声の余韻が消え去った後。
室内に戻ってきたのは、針が落ちても聞こえるほどの、底知れぬ沈黙だった。
「……」
拍手はない。
感嘆の溜息もない。
質問の言葉すら、一言も返ってこない。
逆光の中に佇むハイバックチェアのシルエットは、依然として窓の外を見下ろしたまま、石のように静止していた。
太陽の光が、その人物の肩のラインを黄金色に縁取っている。
だが、その光の眩しさが強まれば強まるほど、背中から漂う「沈黙」の圧力は、氷海のように深く、重く、俊樹と莉乃の喉元を締め上げ始めた。
「……あの、最高技術顧問様?」
俊樹の顔から、営業用の笑顔がピクリと引きつった。
冷たい汗が、こめかみを伝って顎へと垂れ落ちる。
「ご、ご質問や、サンプルの確認など……何か気になる点がおありでしょうか……?」
俊樹が恐る恐る問いかけた、その時だった。
静寂に包まれた役員会議室の空気を切り裂くように、低く、冷たく、そして耳の奥の鼓膜を直接撫でるような声が、静かに落ちてきた。
――「……話は、それだけかしら」
その声を聞いた瞬間。
俊樹の全身の血管から、スウッと血の気が引いていった。
聞き覚えのある声。
あまりにも、あまりにも聞き慣れすぎていた、あの低く澄んだ、一切の感情を交えない静かな響き。
「え……?」
俊樹の喉から、掠れた異音が漏れた。
隣の莉乃も、怪訝そうに眉をひそめ、首を傾げる。
そして――。
キィ、と微かな上質な革の摩擦音を響かせながら。
逆光の中に佇んでいたハイバックのエグゼクティブチェアが、ゆっくりと、半円を描いて回転を始めた。
眩い太陽の光の檻から、その人物の全身が、照明の当たる大理石のテーブルの向こう側へと、音もなく滑り出してくる。
破滅の幕が、今まさに、無慈悲に引き落とされようとしていた。




