第44話:雲の上の聖域
地上四十八階建て、総ガラス張りの威容を誇る大手町「L&Vタワー」。
天を突き刺す巨塔の真下、冷たい冬風が吹き抜けるエントランスの自動ドアを潜り抜けた瞬間、外界の喧騒は一瞬にして断ち切られ、大理石と冷涼な空気による絶対的な静寂が二人を迎えた。
神代俊樹は、イタリア製のタキシードスーツの胸元をぐっと張り、黒い不織布のガーメントバッグを小脇に抱え直した。
その隣を歩く立花莉乃は、深紅のイブニングドレスの裾をかすかに揺らし、カツ、カツと甲高いピンヒールの音を大理石の床に響かせている。
露出した白い背中と深いV字の胸元には、通り過ぎるビジネスマンや受付スタッフの視線が集まっていた。莉乃はその視線を「自分の美貌に対する称賛」と完全に受け取り、満足げに艶やかな巻き髪を指先で払った。
「見てよ俊樹さん、みんな私に見惚れてるわ。やっぱりこのドレスにして大正解だったでしょ?」
「ああ……堂々としていろ、莉乃。俺たちは招かれたVIPなんだ」
俊樹は低く囁き返しながら、自らの震えそうになる膝に力を込めた。
一昨日、同じこのロビーで、一万五千円の菓子折りを抱えて受付の若手社員に泣きつき、警備員に両脇を抱えられて舗道へと叩き出された屈辱の記憶。
だが、今日は違う。
俊樹は胸の内ポケットから、スマートフォンを取り出した。
画面には、L&Vホールディングス選考委員会から届いた正式な招待メールと、添付された「VIP来館者専用QRコード」が表示されている。
(見たか……俺を追い出した連中め。俺は日本全国から選ばれた、たった三社の代表としてここに来たんだ)
俊樹は歪んだ優越感を胸に滾らせ、中央のセキュリティゲートへと大股で歩み寄った。
空港の搭乗口を思わせる、銀色に光る最新鋭のフラッパーゲート。
俊樹が読み取り部にスマートフォンをかざすと、澄んだ電子音とともにグリーンのランプが点灯し、透明なアクリルドアが滑らかに左右へ開いた。
続いて莉乃もQRコードをかざし、優雅にゲートを潜り抜ける。
ゲートの脇に直立していた黒い制服の警備員が、俊樹のタキシードと莉乃のドレスを一瞥し、完璧な角度で頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました。L&Vホールディングス特別役員フロアへは、奥のシャトルエレベーターをご利用ください」
その礼儀正しい一礼を受けた瞬間、俊樹の胃の奥に渦巻いていた劣等感は、一瞬にして肥大化した全能感へと塗り替わった。
頭を下げられる側。選ばれし者。
やはり金とステータスこそがこの世のすべてなのだ。
あの雨の夜、神代詩織に五拾万円の手切れ金を投げつけ、アトリエ・アルカを自らの城とした時のあの万能感が、俊樹の血管を再び熱く駆け巡っていた。
「行くぞ、莉乃。雲の上へな」
「ええ、世界の頂点を見せてあげるわ」
一般のオフィスフロアへ向かうエレベーターバンクを通り過ぎ、重厚なスモークガラスのパーテーションで仕切られた最奥の区画。
そこに据えられていたのは、四十八階の特別フロアへ直通する専用の高速シャトルエレベーターだった。
押しボタンすら存在しない。
俊樹が壁面のセンサースキャナーにQRコードをかざすと、ヘアライン加工されたチタン合金の扉が、音もなく左右にスライドした。
かごの中は、エレベーターというよりも、ひとつの密閉された高級サロンのようだった。
壁面にはダークグレーのバッファローレザーが張られ、足元には毛足の深いウール絨毯。
天井からは無駄な継ぎ目のない面発光パネルが、柔らかく冷たい昼光色の光を投げかけている。
二人が乗り込むと、扉は吸い込まれるように完全に閉じられた。
一切の振動も、機械の駆動音もない。
ただ、扉の脇に埋め込まれた極細の液晶インジケーターの数字だけが、異次元のスピードで跳ね上がっていく。
――1……10……20……30……。
急激な気圧の変化により、俊樹の鼓膜の奥がツンと痛んだ。
唾を飲み込みながら、俊樹はガーメントバッグのファスナーの隙間に指を差し入れた。
指先が触れたのは、かつて神代詩織が心血を注いで仕立て上げた、あのカシミヤ混ウールのテーラードジャケット。
裏地のネームタグは、すでに自分たちの手でアトリエ・アルカの金糸タグへと付け替えられている。
生地の落ち感、毛芯のしなやかさ、完璧な前肩のカーブ。
触れているだけで、服飾の素人である俊樹の指先にも、それが「本物の結晶」であることが伝わってくる。
(これさえ見せれば、審査員は言葉を失う。……詩織が引いた線だろうが何だろうが、アルカの看板で出した以上、俺の実績だ。文句を言える人間なんざ、この世のどこにもいねえんだ)
俊樹は心の中で、誰に向けるともなく吐き捨てた。
隣の莉乃は、鏡面仕上げのチタン壁に向かって顎の角度を調整し、濡れたような赤い唇をすぼめて自撮りの表情を作っている。
恐怖も、罪悪感も、職人への敬意も持たない二匹の亡霊を乗せて、エレベーターは秒速十メートルの速度で、東京の空へと昇り続けていた。
――45……46……47……48。
コォン、と澄んだ鐘の音が鳴り響き、かごが減速した。
完全な無重力感ののち、チタンの扉が静かに開かれた。
「……っ」
扉が開いた瞬間、俊樹の喉から、声にならない息が漏れた。
そこに広がっていたのは、俊樹がこれまで足を踏み入れたどんな高級ホテルとも、どんな海外メゾンの旗艦店とも根本的に異なる、異次元の空間だった。
地上四十八階――海抜二百メートルを超える「雲の上の聖域」。
足元には、継ぎ目ひとつなく磨き上げられた漆黒のシチリア産大理石が、どこまでも果てしなく続いている。
天井は高く、余計な柱や梁は一切存在しない。
壁面はすべて、余計な装飾を削ぎ落としたオフホワイトの珪藻土と、計算された間接照明のグラデーションだけで構成されていた。
煌びやかなシャンデリアも、けばけばしいゴールドの調度品もない。
あるのは、圧倒的な資本力と、極限まで研ぎ澄まされた美意識だけが到達し得る、「静謐なミニマリズムの極致」。
そして何より、二人を圧倒したのは、フロアの南側全面を占めるパノラマウィンドウの向こうに広がる景色だった。
足元から天井まで届く巨大な強化複層ガラスの向こう側。
冬の澄み切った陽光を浴びて、眼下に広がる皇居の広大な深い緑。
その周囲を取り囲む丸の内、日比谷、霞が関のビル群が、まるで精密なミニチュアのように小さく並んでいる。
遠く東京湾の青い水面が陽光を反射して銀色に輝き、遥か彼方には羽田空港へと降下していく旅客機の銀翼すら視認できた。
東京のすべてを、神の視点で見下ろす場所。
「……す、すごい……」
先ほどまで傲慢に振る舞っていた莉乃の口から、掠れた呟きが零れ落ちた。
ピンヒールで大理石を踏みしめる足が、無意識のうちにすくんでいる。
SNSのフォロワー数や、港区のタワーマンションの夜景自慢などという児戯が、一瞬で粉々に粉砕されるほどの、本物の権力と富の重圧。
俊樹の背筋を、ツッと一本の冷たい汗が伝い落ちた。
足の裏から、大理石の冷気がタキシードのズボンを伝って這い上がってくるような錯覚。
南青山のオフィスで、シャンパンをラッパ飲みしながら「五億円なんて朝飯前だ」「外資の連中を騙してやる」と吠えていたあの浅ましい万能感が、この冷徹な空間の威圧感の前に、急速に萎縮していくのを俊樹は必死で押し留めようとしていた。
(怯えるな……! ビビるんじゃない! 俺はここに立つべき男なんだ! この巨大な富を、俺の力で動かしてやるんだ……!)
俊樹は奥歯を噛み締め、小脇に抱えたガーメントバッグをぎゅっと胸元に押し付けた。
「アトリエ・アルカの神代俊樹様、ならびに立花莉乃様ですね」
静寂を破り、凛とした女性の声が響いた。
俊樹が弾かれたように顔を上げると、通路の奥から一人の女性コンシェルジュが音もなく歩み寄ってきていた。
仕立ての完璧なチャコールグレーのパンツスーツを身に纏い、一切の無駄のない所作で二人の前で深々と一礼する。
その胸元には、L&Vグループの象徴たる銀色のラペルピンが冷たい光を放っていた。
「お待ち申し上げておりました。特別役員会議室へご案内いたします」
「あ……ああ、よろしくお願いします」
俊樹は乾いた喉を鳴らし、咄嗟に営業用の笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉が強張って上手く動かなかった。
「こちらへどうぞ」
コンシェルジュが踵を返し、大理石の通路を先導していく。
俊樹と莉乃は、その背後に続いた。
莉乃の深紅のドレスのスリットが揺れ、ピンヒールが大理石を打つ音が響く。だが、その足音すら、高い天井と珪藻土の壁面に吸い込まれ、不気味なほど小さく霧散していった。
通路の壁面には、名だたる現代美術の巨匠たちの抽象画が、美術館のように贅沢な間隔で掛けられている。
どの作品も、装飾ではなく「空間の余白」を際立たせるためだけに計算し尽くされて配置されていた。
通路を進むにつれ、大理石の床は、毛足の深い特注のチャコールグレーの吸音絨毯へと切り替わった。
足音が完全に消え失せる。
まるで、外界の法則が一切通用しない、別世界の深奥へと引きずり込まれていくような錯覚。
やがて、通路の最奥。
四十八階の角部屋に位置する、ひときわ重厚な両開きの扉の前に、コンシェルジュが立ち止まった。
黒檀の無垢材で作られた、厚さ十センチを超える重厚な防音扉。
ドアノブはなく、枠の横に埋め込まれたチタン製のカードリーダーが、淡いブルーのLEDを不気味に点滅させている。
「こちらが、特別役員会議室でございます」
コンシェルジュが静かに振り返り、二人に告げた。
「本日のプレゼンテーションには、当グループのアジア統括CEO、専属知財法務責任者、ならびに『L'OMBRE』のすべての設計とデザインを統括する最高技術顧問兼チーフデザイナーが出席しております」
「チ、チーフデザイナー……?」
莉乃がピクリと反応し、胸元を強調するように背筋を伸ばした。
「あの、パリコレで話題になってた、正体不明のデザイナーさんですね? 直接お会いできるんですか?」
「ええ」
コンシェルジュは微動だにせず、感情を交えない完璧なビジネススマイルで答えた。
「本プロジェクトの最終決裁権は、すべてそのチーフデザイナーに一任されております。サプライヤーとしての採否、ならびに契約の可否は、その場において即時判断されます」
「即時判断……!」
俊樹の喉仏が、ゴクリと激しく上下した。
今日、この部屋の中で、すべてが決まる。
五億円の生産受託契約を勝ち取り、東都中央銀行をねじ伏せて栄光の座へと返り咲くか。
それとも、二億八千万円の負債を抱えて破滅の奈落へと叩き落とされるか。
(勝つ……! 勝つに決まっている! 俺たちには詩織の残した最高峰の図面と、この奇跡のサンプルがあるんだ! 四十八社の中から俺たちを選んだんだ、向こうだって契約する気満々で呼んでいるに決まっている!)
俊樹はネクタイの結び目を両手で力任せに締め直した。
イタリア製のタキシードの襟を正し、胸ポケットのチーフの位置を確認する。
「俺はここに立つべき男だ」
「俺は時代の寵児だ」
頭の中で、自らを洗脳するように何十回と呪文を繰り返す。
唇を舐め、顔に張り付かせたのは、かつてスポンサーを丸め込んできたあの不遜な営業マンの笑み。
隣の莉乃も、手鏡を取り出してルージュの輪郭を指先でなぞり、ドレスの胸元の開き具合を限界まで押し広げた。
「任せて、俊樹さん。私がそのデザイナーもCEOも、全部骨抜きにしてあげるわ」
二人の浅ましい武装は、完全に完了していた。
嘘と剽窃と色仕掛け。
自らの身の丈に合わない虚栄の鎧を全身に纏い、二人は獲物を狙うハイエナのように扉を見据えた。
「――それでは、ご案内いたします」
コンシェルジュがポケットから黒いカードキーを取り出し、チタンのリーダーへと翳した。
ピピッ。
硬質な電子音が静寂を切り裂く。
重厚な電磁ロックが解除される、低く重い金属音が響いた。
そして、黒檀の巨大な防音扉が、音もなく、ゆっくりと内側へと開かれていった。
漏れ出てきたのは、部屋を満たす冷涼な空気と、高純度のエスプレッソの微かな苦い芳香。
そして――肌をチクチクと刺すような、絶対零度の静止した気迫。
俊樹は震える足に力を込め、チャコールグレーの絨毯を踏みしめた。
自らの意志で。
自らの足で。
過去のすべての罪を清算し、完全なる破滅を迎えるための、世界で最も残酷な処刑台のど真ん中へと――。




