第43話:虚飾の武装
木曜日の朝、東京を覆う冬の空気は、刃物のように研ぎ澄まされていた。
六本木ヒルズの足元、けやき坂から一本入った静謐な路地に佇む、完全予約制の高級インポート・レンタルブティック『サロン・ド・リュクス』。
普段ならば各界のセレブリティや財界人の令嬢が社交界の夜会のために訪れるそのサロンの奥、全面が鏡張りになったフィッティングルームの空気は、異様な緊張と、脂ぎった熱気に満ちていた。
「……通ったな。よし、これでいい」
神代俊樹は、レジ端末から吐き出されたカード決済のレシートをもぎ取ると、薄汚れた手帳の奥へと乱暴にねじ込んだ。
切られたのは、アトリエ・アルカの法人名義で作られた、最後の一枚のクレジットカード。
すでに各金融機関からの融資がストップし、口座残高が千円あまりにまで干からびている中、限度額の隙間にわずかに残っていた数十万円のショッピング枠を、本日のレンタル代として限界まで使い切ったのだ。
今月末の引き落とし日になれば、確実に決済不能となってカードは強制失効する。
だが、俊樹の眼中にそんな先の破滅は映っていなかった。
「今日、あのL&Vタワーで年間五億円の契約書にサインすれば、こんな端金、一秒で取り返せるんだ」
俊樹は鏡の前に立ち、自らの姿を矯めつすがめつ見つめた。
身に纏っているのは、イタリア・ナポリの最高峰サルトリアが仕立てた、シルク混ウールの漆黒のタキシードスーツ。
レンタル料だけで一日十五万円を超える最高級品だ。
ラペルには鈍い光沢を放つシルクサテンが張られ、胸元には純白のドレスシャツと、幾重にも折り目を整えたシルクのボウタイ。
目の下に刻まれた鉛色の隈は、サロンの専属メイクアップアーティストに頼み込んでコンシーラーで念入りに塗り潰させ、無精髭の剃り跡にも厚くファンデーションを叩き込ませていた。
表面だけを見れば、そこにあるのは「時代の先端を行く若きカリスマプロデューサー」の完璧な姿だった。
だが、その豪奢なイタリア製ウールの内側で、俊樹の皮膚は冷たい脂汗でじっとりと湿り、心臓は早鐘のように不気味な脈動を打ち続けていた。
首筋に吹き付けた最高級パルファンの甘い香りの下から、連日の不眠と極度の恐怖が生み出した、胃液の逆流するような饐えた臭気が微かに立ち上っている。
「どう、俊樹さん? 似合うでしょ?」
重厚なベルベットのカーテンを引き開けて現れたのは、立花莉乃だった。
その姿を目にした瞬間、フィッティングルームに控えていたサロンの女性スタッフが、息を呑んでわずかに眉をひそめた。
莉乃が纏っていたのは、ミラノの気鋭メゾンが発表したばかりの、深紅のシルクサテンによるイブニングドレスだった。
胸元は肋骨の境目が見えそうなほど鋭利なV字に深く切り込まれ、豊かなバストの谷間をこれ見よがしに強調している。
さらに、背中は腰骨の窪みのあたりまで完全に露出しており、裾には太腿の付け根まで届く大胆なスリットが入っていた。
昼間のビジネスミーティング、それも世界最高峰の投資コングロマリットの本社へ乗り込む服装としては、あまりにも場違いで、下品なまでの夜会の娼婦めいた装い。
だが、莉乃は全身鏡の前で腰をくねらせ、ピンヒールを鳴らして悦に入っていた。
髪は艶やかな巻き髪にセットされ、唇には濡れたような真紅のルージュ。
昨夜まで南青山の薄暗いオフィスで、床に散らばる返品のゴミの山を前に「私の人生をどうしてくれるのよ!」と泣き叫び、ヒールを折って逃げ惑っていた女と同一人物とは到底思えない、厚顔無恥なまでの変わり身の早さだった。
「完璧よ。この胸元のカッティング、最高に盛れてるわ。……海外のCEOって、こういうゴージャスでセクシーな東洋の美女に本当に弱いのよね。プレゼンの席で私が上目遣いに見つめて微笑みかけてあげれば、相手の男なんて一発でイチコロよ」
「ああ……最高だ、莉乃。誰もがお前の美貌にひれ伏すはずだ」
俊樹はだらしなく口角を吊り上げ、莉乃の腰を引き寄せて肩を抱いた。
常軌を逸した二人の狂気。
数千万円の違約金請求書、手形の不渡り期日、全国から送り返されてきた悪臭を放つポリエステルの山――それらの破滅の現実から目を逸らすため、二人はこの「最高級の衣装」という名の分厚いメッキを全身に塗りたくり、自らに麻薬のような万能感を注入していたのだ。
「おい、サンプルのジャケットは持ったな?」
「もちろんよ。あそこのガーメントバッグに入ってるわ」
莉乃が顎でしゃくった先、ソファの上に置かれていたのは、黒い不織布の衣装カバーだった。
中に入っているのは、アトリエ・アルカの地下金庫に保管されていた、過去のアーカイブの一着。
かつてジャパン・モード・クリエイション大賞を受賞した際、神代詩織が三日三晩寝ずに立体裁断を行い、人体の骨格の運動量をミリ単位で計算して仕立て上げた、奇跡のようなテーラードジャケットだった。
俊樹たちは、昨夜のうちにそのジャケットの裏地についていた『Pattern & Design: Shiori Kamishiro』の小さなタグをカッターナイフで綺麗に切り落とし、代わりにアルカ社の金糸ネームタグをアイロンで貼り付けていた。
「これを見せれば、奴らはうちの『技術力』を疑う余地すらない」
俊樹は黒いガーメントバッグを愛おしそうに撫でた。
「詩織の引いた線だろうが何だろうが、会社の金で作ったものは会社の資産だ。……外資の審査員共が、この幾何学的なカッティングの美しさにどれほど度肝を抜かれるか、目に浮かぶようだぜ」
「そうよ! 中身を誰が縫ったかなんて関係ないの! 今、この服を誰が動かしているかがすべてなのよ!」
莉乃は甲高い声で笑い、手鏡を取り出して唇のルージュの輪郭を指先でなぞった。
服とは、自らの虚栄心を飾り立て、他者を欺くためのハリボテ。
布に命を吹き込む職人の汗も、人体の尊厳を守るためのミリ単位の苦闘も、この二人の頭には一欠片も存在しなかった。
二人はサロンの出口へと向かい、冷たい冬の光が差し込む六本木の路地へと踏み出した。
路肩には、俊樹が事前に手配させていた黒塗りの大型ハイヤー――漆黒のエグゼクティブ・アルファードが、アイドリング音を低く響かせて待機していた。
運転手が素早く降りてきて後部座席のスライドドアを開け、深々と頭を下げる。
俊樹はふんぞり返るようにして革張りのシートへと身を沈め、隣に莉乃を滑り込ませた。
「大手町、L&Vタワーの正面車寄せまで。首都高を使って最短で飛ばしてくれ」
「かしこまりました、神代様」
重厚なスライドドアが静かに閉まり、車内は外界の騒音から完全に遮断された。
滑るように発進したハイヤーは、六本木通りを抜け、谷町ジャンクションから首都高速都心環状線へと合流していく。
スモークガラスの向こう側を、東京タワーの赤い鉄骨、赤坂のビル群、そして霞が関の官庁街が、冬の冷たい陽光を浴びながら後方へと流れていく。
車内の静寂の中、莉乃は手元のバッグから最新型のiPadを取り出し、昨日完成させたばかりの自らのポートフォリオを開いた。
画面に並ぶ、レタッチでウエストを極限まで絞り、胸元を強調した妖艶な自撮り写真の数々。
そして、『CREATIVE VISION & PORTFOLIO / RINO TACHIBANA』とゴールドのフォントで記された表紙。
「ねえ、俊樹さん。今日のプレゼン、最初の挨拶は私がやってもいい?」
莉乃は画面を見つめたまま、甘ったるい声で言った。
「私がまず、このポートフォリオを見せながら『L'OMBREの世界観に、アジアのミューズとしての私の魂をどう融合させるか』を熱っぽく語るのよ。相手のCEOが白人なら、英語で『I am the muse of new generation(私は新時代のミューズよ)』って微笑みかけてあげるわ。それから俊樹さんが、例の小難しい工場のネットワークや仕様書の話をすればいいじゃない」
「ああ、いい作戦だ」
俊樹はシートに深く背を預け、腕を組んで頷いた。
「L&Vの公募メールを見たか? 四十八社の中から、最終プレゼンに残ったのはたったの三社だぞ。……あの日本の繊維業界を牛耳る東証プライムの大手商社や、何千台ものミシンを抱える巨大OEMグループが、書類審査の段階でごっそりと落とされたんだ。その頂点に、俺たちアトリエ・アルカが選ばれた。……これの意味が分かるか、莉乃?」
俊樹は身を乗り出し、獲物を狙う肉食獣のように目をギラつかせた。
「向こうはな、ただ言われた通りに服を縫うだけの『退屈な工場』なんて求めていないんだよ。今、世界中を熱狂させているL'OMBREの勢いをさらに加速させるための、圧倒的な話題性とスター性を求めているんだ。……お前のインフルエンサーとしての発信力、そして俺が書類に仕立て上げた全国の職人たちを顎で使うマネジメント能力。それこそが、L&Vが喉から手が出るほど欲しがっていたものなんだよ」
「そうよね! やっぱり私の時代が来てるのよ!」
莉乃は歓声を上げ、iPadを膝の上で抱きしめた。
「三ツ星百貨店のバイヤーだか、九条志乃だか知らないけど、あんな頭の固い年寄り連中に私の才能が理解できるわけがなかったのよ! 世界基準のメガコングロマリットだけが、私の本当の価値を見抜いてくれたんだわ! あいつら、今日のプレゼンが終わって契約が決まったら、どんな顔をするかしらね!」
「フッ……ざまあみろ、と笑ってやるさ」
俊樹は鼻を鳴らし、窓の外のビル群を見下ろした。
「東都中央銀行の佐山融資課長もそうだ。『今週末までに返済原資を示せなければ手形を不渡りにする』だと? 偉そうに脅しやがって。……今日、L&Vタワーから五億円の基本合意書を持って銀行へ乗り込んでやる。あのハゲ頭を床に擦り付けさせて、『神代社長、どうか当行に口座を残してください』と泣きつかせてやるよ。逃げ出した間宮も、裏切った社員共も、全員後悔させてやるんだ」
二人の口から吐き出されるのは、留まることのない傲慢と、復讐への浅ましい妄執だった。
自分たちが犯した罪――他人のデザインを剽窃し、粗悪な中国工場で服を量産し、購入者の肌に折れ針を突き刺し、展示会で恥を晒したという冷酷な事実など、都合の良い脳内からは完全に消去されていた。
すべては他人のせいであり、自分たちは不当に足を引っ張られた天才なのだと。
そして、この五億円の契約によって、自らの正しさが世界に証明されるのだと。
ハイヤーが神田橋のランプを降り、大手町のオフィス街へと滑り込んでいく。
整然と区画された銀色のビル街。
歩道を歩くビジネスマンたちは、誰もが上質なウールのロングコートに身を包み、洗練された足取りでそれぞれのオフィスへと吸い込まれていく。
その光景を見下ろしながら、莉乃は優越感に浸るように呟いた。
「見てよ、俊樹さん。あそこで歩いてるサラリーマンたち、毎日満員電車に揺られて、月に何十万かの小銭のために働いてるのよ。……笑っちゃうわよね。私たちは今日、たった一時間のプレゼンで五億円を手に入れるのよ? 住む世界が違いすぎるわ」
「ああ、そうだ。俺たちは選ばれた人間なんだからな」
俊樹は顎を引き、ネクタイの結び目を整えた。
――だが。
皇居の濠を左手に臨み、日比谷通りへと左折した、その瞬間だった。
フロントガラスの向こう側、冬の澄み切った青空を突き刺すようにして、その威容が現れた。
地上四十八階建て。全面が濃紺のミラーガラスで覆われた、圧倒的な巨塔――『L&Vタワー』。
「……っ」
俊樹の心臓が、トクンと不意に嫌な音を立てて跳ね上がった。
太陽の光を浴びて青白く輝くその摩天楼は、あまりにも巨大で、あまりにも冷徹で、まるで地上の凡百の人間を虫けらのように見下ろす巨人の墓標のように見えた。
一昨日、このビルの正面玄関で、一万五千円のマカロンの紙袋を抱えて警備員に排除され、夕暮れの冷たい舗道で何時間も頭を下げ続けた、あの屈辱の記憶が、俊樹の脳裏を一瞬だけ掠めた。
手足の先が、ふっと冷たくなる。
得体の知れない悪寒。
喉の奥が、砂を噛んだようにカラカラに干からびる。
(……何だ? 何を怯えているんだ、俺は)
俊樹は頭を小さく振って、胸の内の恐怖を力づくで払いのけた。
(何を怖がることがある。あの時はアポイントがなかったから門前払いされただけだ。今日の俺は、四十八社の中から勝ち残った『選ばれし候補者』として、正面から招かれているんだぞ。……書類審査を通ったんだ。向こうは俺たちの実績にすでに惚れ込んでいるんだ)
「俊樹さん、見て! あそこよ!」
莉乃が歓声を上げ、タワービルのエントランスを指差した。
彼女の瞳には、一切の躊躇も、警戒心も存在しなかった。
ただ、自らの美貌で世界を屈服させられるという、浅ましくも強固な盲信だけがギラギラと輝いていた。
「車寄せに入ります」
運転手の落ち着いた声とともに、ハイヤーは緩やかにスロープを上がり、巨大なキャノピー(天蓋)が覆うエントランス車寄せへと滑り込んだ。
午前九時四十五分。
プレゼンテーション開始まで、あと十五分。
ドアマンが恭しく駆け寄り、ハイヤーの後部座席のドアが開かれた。
流れ込んできたのは、大手町のビルの谷間を吹き抜ける、氷のように冷たい冬の風。
「行くぞ、莉乃」
俊樹は黒いガーメントバッグを小脇に抱え、イタリア製スーツの裾を払って車から降り立った。
「私に任せて、俊樹さん!」
莉乃は深紅のドレスの胸元をぐっと押し広げ、ピンヒールをアスファルトに突き立てて降り立った。
二人は、自らがこれから登る階段が、栄光の玉座へ通じる道などではなく、過去のすべての罪を清算させるために用意された「絶対の処刑台」であるとは夢にも思わずに。
甘い蜜の匂いに群がる羽虫のように、意気揚々と、その冷徹な自動ドアの奥へと足を踏み入れていった。
四十八階の最上層。
逆光の執務室で、神代詩織が冷たいハサミを構えて待つ、その審判の間へと――。




