第42話:処刑台への招待状
南青山の骨董通りに面したアトリエ・アルカ本社ビルの窓を、冬の湿った北風がガタガタと激しく揺らしていた。
午後十一時四十分。
暖房の電源が落とされ、冷え切った三階のオフィスには、吐き出す息が白く濁るほどの冷気と、廊下に山積みされた数百個の返品段ボールから漏れ出る強烈な石油臭が充満していた。
床には、支払期日を過ぎた東都中央銀行からの督促状、三ツ星百貨店からの損害賠償請求書、そして未払いの光熱費の催促通知が、まるで死者の上に撒かれた紙吹雪のように散乱している。
かつて鳴り止まなかったはずの固定電話は、通信会社による利用停止措置が取られたため、今は不気味なほどの完全な沈黙を守っていた。
その死の静寂のただ中、神代俊樹はデスクの前に蹲り、血の滲む親指の爪をギリギリと狂ったように噛み続けていた。
目の下に張り付いた鉛色の隈、脂汗と埃でドロドロになったワイシャツ、そして何日も風呂に入っていない身体から漂う饐えた体臭。
俊樹の右手はマウスを握りしめ、壊れかけたノートパソコンの画面上で、F5キー――ブラウザの再読み込みボタンを、数秒おきに痙攣するように連打していた。
カチッ、カチッ、カチッ……。
無機質なプラスチックの打鍵音だけが、薄暗い部屋に虚しく響く。
「……まだかよ。早くしろよ……頼むから、来てくれ……!」
俊樹の喉から、掠れた祈りのような呻きが漏れ出た。
今日――木曜日の正午。
それは、L&Vホールディングスが公募していた、世界最高峰の覆面ブランド『L'OMBRE』の国内一次サプライヤーコンペにおける、一次書類審査結果の公式通知予定時刻だった。
そして同時に、それは神代俊樹という男の命のタイムリミットでもあった。
明日――金曜日の午後三時。
メインバンクである東都中央銀行が設定した、手形の最終決済期日。
もし正午までにL&Vからの「一次選考通過」という動かぬ証拠を手に入れ、銀行へ新たな大口契約の見込みとして提示できなければ、アルカ社が振り出している数千万円の約束手形は週明けに即座に不渡りとなり、銀行取引停止処分――すなわち法的な倒産と、二億八千万円の負債を背負った自己破産が確定する。
あと二十分。
たった二十分で、自らの人生が天国へ跳ね上がるか、それとも路上で野垂れ死ぬ地獄へ叩き落とされるかが決まるのだ。
心臓が肋骨を内側から激しく叩き、胃の腑が雑巾を絞るようにキリキリと痛む。
極度のストレスにより、俊樹の額からは真冬の寒気の中であるにもかかわらず、大粒の脂汗がボロボロと流れ落ちていた。
「俊樹さん……まだなの?」
部屋の隅、破れたレザーソファの上で、立花莉乃が苛立たしげに膝を揺らしていた。
昨日、代々木上原のスタジオで撮り直した派手なメイクはすでに皮脂で崩れ、厚塗りされたファンデーションの隙間から、隠しきれない肌荒れと青白い疲労が覗いている。
手元には、限度額一杯まで使い切って強制停止寸前のスマートフォン。
画面には、所属事務所のマネージャーから届いた「本日中に違約金の支払い計画書を提出しなければ、明日の朝一番で東京地裁へ財産開示請求の手続きを行う」という最後通牒のメッセージが表示されていた。
「もうすぐ正午よ!? 本当にメール来るの!? もし落ちてたらどうするのよ!? 事務所の社長、本当に私を訴える気よ! 私の人生、完全に終わっちゃうじゃない!!」
「うるせえッ! 黙ってろ!」
俊樹は画面から目を離さず、怒声を張り上げた。
「落ちるわけがねえだろうが! あんな完璧な書類を作ったんだぞ! 三ツ星に納品してきた過去五年間の実績データ、詩織の残していった最高峰の仕様書、それに全国の名門工場のネットワーク……あれだけのクオリティの資料を出せる会社が、この日本に他に何社あると思ってるんだ!」
「でも、展示会のパクリ騒動とか、ネットの炎上だってあるじゃない! 外資の連中に調べられたら――」
「調べられるわけがない!」
俊樹は唾を飛ばして莉乃の言葉を遮った。
「相手はルクセンブルクのファンドだ! 極東の島国のSNSのノイズなんざ、いちいち気にする暇なんざあるか! 向こうが見ているのは、紙の上に並んだ数字と、年間に何万着の服を縫えるかという生産管理のキャパシティだけだ! お前が作ったあのポートフォリオだって、外資の役員共には最高のフックになってるはずなんだよ!」
俊樹は自分自身に言い聞かせるように、激しい勢いで捲し立てた。
そう、落ちるはずがないのだ。
あの書類は、自分が五年間かけて築き上げた(と思い込んでいる)アルカの栄光のすべてを注ぎ込んだ最高傑作なのだ。
詩織の引いた線も、奥田織物や佐伯縫製の名前も、すべては会社の代表である自分の所有物だ。
他人の才能を盗んだという自覚など、俊樹の都合の良い脳内からは完全に消去されていた。
あるのは、年間五億円という甘美な果実を手に入れ、銀行をねじ伏せ、再び時代の寵児として返り咲くという、狂気じみた万能感の幻影だけだった。
十一時五十八分。
壁掛け時計の秒針が、チッ、チッ、と冷酷な音を刻む。
十一時五十九分。
俊樹の心拍数が限界を突破し、呼吸が浅く乱れる。
カチッ、カチッ、カチッ……。
画面のリロードを繰り返す指先が、小刻みに震える。
そして――。
長針と短針が、真昼の十二時で完璧に重なり合った、まさにその瞬間だった。
――ピロン。
静まり返った社長室に、澄んだ電子受信音が鳴り響いた。
俊樹の身体が、電流を流されたかのようにビクリと跳ね上がった。
画面の受信トレイの最上段に、太字の英語の見出しがポップアップする。
送信者:『L&V Holdings S.A. / Tokyo Supply Chain Selection Committee』
件名:『【選考結果通知】L'OMBRE 国内一次サプライヤー公募 一次審査結果について(受付番号:LV-JP-SUP-0014)』
「……き、来た……!」
俊樹の喉から、カヒュッと空気の漏れるような異音が上がった。
あまりの恐怖に、指先が凍りつき、マウスのボタンを押すことができない。
隣で莉乃がソファから飛び起き、俊樹の肩口から画面に食い入るように顔を寄せてきた。
「開けて! 俊樹さん、早く開けてよ!!」
「あ、ああ……!」
俊樹は震える人差し指に力を込め、メールのリンクをダブルクリックした。
画面が切り替わり、L&Vグループの格式あるロゴマークとともに、日本語で記された公式通知の本文が展開される。
俊樹と莉乃の血走った目が、その文字列を上から下へと舐め回すように追っていく。
『拝啓
貴社におかれましては、益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
この度は、当グループ傘下のプレタポルテブランド「L'OMBRE」日本国内一次サプライヤー公募コンペティションにエントリーいただき、誠にありがとうございました。
厳正なる書類選考の結果、全国四十八社におよぶ応募事業者様の中から、貴社「株式会社アトリエ・アルカ」を、最終プレゼンテーション選考(残り三社)の候補者として選出いたしましたことをご通知申し上げます。
貴社よりご提出いただきました過去の極めて精緻な設計仕様書、ならびに国内熟練ファクトリーを網羅した生産管理ネットワーク、および独自のマーケティングヴィジョンは、選考委員会において極めて高い評価を獲得いたしました。
つきましては、最終契約締結に向けた最終選考プレゼンテーションを、下記要領にて実施いたします。
記
日時:来週木曜日 午前十時開始
場所:東京都千代田区大手町 L&Vタワー四十八階 特別役員会議室
出席者:当グループ最高技術顧問兼チーフデザイナー(最終決裁権者)、アジア統括CEO、専属法務責任者
持参物:貴社の技術力を証明する実物サンプル(ジャケットまたはコート一型)、ならびに最終プレゼンテーション資料一式
なお、当日は選考終了後、内定企業様との間で即時の基本合意契約(年間最大五億円の生産受託保証)の締結手続きへ移行する予定となっております。
以上
敬具』
「…………」
一秒。
二秒。
三秒。
二人の呼吸が完全に停止していた。
画面に並ぶ文字の意味を、脳が処理しきれずにフリーズしている。
四十八社の中から、残り三社。
最終プレゼンテーション選考への選出。
そして――『即時の基本合意契約(年間最大五億円)』の文字。
そして、四秒後。
「……う」
俊樹の唇から、掠れた声が漏れた。
その顔の筋肉が、引きつるように、激しく歪んでいく。
「……う、あ……あ、ああ……」
「俊樹さん……? これ、って……」
次の瞬間、アトリエ・アルカの廃墟のようなオフィスを、爆発的な咆哮が叩き割った。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!!!」
俊樹は椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、両拳を天井に向かって突き上げた。
デスクの上の書類が舞い上がり、足元のゴミが蹴散らされる。
「通った!! 通ったぞ莉乃ォォォッ!! 一次通過だ!! 三社の中に残ったんだよォォォッ!!」
「キャアアアアアアアアアアアッッ!!」
莉乃が耳をつんざくような悲鳴を上げて飛び跳ね、俊樹の首に抱きついた。
二人は床の上に倒れ込みそうになりながら、抱き合って飛び跳ね、狂ったように笑い転げた。
「やった! やったぁぁぁ! 四十八社の中から選ばれたのね!? 三社よ!? 大手商社も有名なOEM会社も全部蹴散らして、私たちが勝ったのよ!!」
「見たか! 俺の言った通りだろうがッ!!」
俊樹は涙と鼻水を流しながら、大口を開けて吼えた。
「外資の連中は見る目があるんだよ! 日本の古臭い業界の連中とは格が違う! 俺たちの提出した仕様書と、工場のネットワークの凄まじさを、あいつらは一発で見抜いたんだ! 『極めて高い評価を獲得した』って書いてあるぞ! 俺の実績だ! 俺のプロデュース力が、世界のL&Vに認められたんだよォォッ!!」
「私のポートフォリオよ!」
莉乃が俊樹の胸をバンバンと叩きながら、得意満面に叫び返した。
「『独自のマーケティングヴィジョン』って書いてあるじゃない! あれは私のことよ! 私の美貌と企画書が、フランス人の役員たちの心に突き刺さったのよ! 『この可愛い子をブランドの顔にしたい』って思ったに決まってるわ! やっぱり私の才能は本物だったのよ!!」
「そうだ! お前のおかげだ、莉乃! 俺とお前が手を組めば、世界中を騙……いや、世界中をねじ伏せることなんて朝飯前なんだよ!!」
俊樹は莉乃の身体を持ち上げ、狂乱の中でくるくると回った。
二億八千万円の負債。
東都中央銀行の脅迫。
三ツ星百貨店の違約金。
事務所からの賠償請求。
それらすべての絶望の暗雲が、たった一本のメールによって、一瞬にして黄金色の札束の雨へと塗り替えられたのだ。
「五億円だ……! 年間五億円の契約だぞ!」
俊樹は床に落ちたノートパソコンを抱きしめ、画面にキスをした。
「このメールを今すぐプリントアウトして、東都中央銀行の佐山に叩きつけてやる! 『あの世界一のL'OMBREの最終候補三社に残った。来週木曜日には五億円の契約書にサインする』って見せつければ、あいつら手のひらを返して土下座してくるぞ! 手形の不渡りどころか、追加融資の一億円だって喜んで融通してくるに決まっている! 借金なんて全部チャラだ! アルカは完全に息を吹き返したんだ!!」
「ねえ俊樹さん! お祝いよ! お祝いしなきゃ!!」
莉乃が叫んだ。
「お祝いだ! 酒だ、酒を持ってこい!」
俊樹はオフィスの給湯室へと駆け込み、冷蔵庫の野菜室の奥を漁った。
底から引っ張り出してきたのは、かつてアルカの絶頂期に取引先から贈られ、飲む機会を失ったまま冷やされていた一本のシャンパン――最高級プレステージ・キュヴェ『ドン・ペリニヨン・P2』。
十万円を超える年代物のヴィンテージだった。
「これだ! 今日の日のために取っておいたんだ!」
俊樹は栓抜きの金具を力任せに引きちぎると、コルクを親指で押し上げた。
――ポンッ!!
景気のいい乾杯の音が、埃っぽいオフィスに響き渡った。
立ち上る白い炭酸の霧とともに、芳醇なブドウの香りが石油臭い部屋の中に広がっていく。
グラスなど探す暇も惜しく、俊樹はボトルの口を直接くわえ、黄金色の液体をゴクゴクと喉へと流し込んだ。
「プハァッ……! 美味い! 五億円の味がするぞ、莉乃!」
「私にもちょうだい!」
莉乃がボトルを奪い取り、同じようにラッパ飲みでシャンパンを煽った。
上質な泡が彼女の顎を伝い、ワインレッドのニットドレスの胸元を濡らしていくが、莉乃は気にする素振りすら見せず、喉を鳴らして高笑いを上げた。
「あははははっ! 最高! 見たかしら、私を切り捨てた事務所の社長! ネットで悪口書いてた貧乏人ども! 私を『ゴミ』って切り捨てた九条志乃のクソババア! ざまあみなさいよ!! 私は来週から、世界一のハイブランドのディレクターよ! あんたたちなんか足元にも及ばない、正真正銘のスーパーセレブに返り咲くのよ!!」
二人は床の上に散らばるゴミの山の中で、互いにボトルを回し飲みしながら、下品な歓声を上げ続けた。
周囲を取り囲む、数百箱の返品段ボール。
悪臭を放つポリエステルのドレスの死骸。
破られた窓ガラスから吹き込む冷たい北風。
そのグロテスクな廃墟の中で、高級シャンパンを浴びるように飲み干しながら狂喜乱舞する男女の姿は、正気の沙汰とは思えないほど異様で、滑稽で、そして浅ましい地獄絵図だった。
「おい、莉乃! 来週の木曜日の準備だ!」
俊樹は空になったボトルを床に投げ捨て、パリンと割れる音にも構わずに言った。
「L&Vタワーの四十八階だぞ! あそこの特別役員会議室に乗り込むんだ! みすぼらしい格好で行くわけにはいかん! 最高級のイタリア製スーツをもう一着レンタルして、髪も完璧にセットする! お前も、あの胸元の開いたインポートドレスを着ていけ! 相手のアジア統括CEOを、お前の色気で骨抜きにしてやるんだ!」
「任せてよ!」
莉乃は赤く染まった頬を歪め、胸を叩いた。
「サンプルのジャケットも、詩織の残していったアーカイブの中から一番仕立てのいいやつをクリーニングして持っていけばいいんでしょ? 『これが我が社の技術力です』って見せて、私の美貌で微笑みかけてあげれば、相手の役員なんてイチコロよ! 五億円の契約書にサインさせたその場で、『立花莉乃のセカンドライン』の企画書もテーブルに叩きつけてやるんだから!」
「ハハハ! 完璧だ! 完璧すぎるぞ、莉乃!」
俊樹は莉乃の腰を引き寄せ、下卑た笑みを浮かべて唇を重ねた。
二人の頭の中には、すでに勝利の凱歌しか鳴り響いていなかった。
他人の引いた図面を盗み、存在しない工場の名前を騙り、愛人の肉体をエサにして外資の巨額マネーを掠め取る――その欺瞞と詐欺のすべてが、自分たちの「正当な実力」であると、男と女は本気で信じ込んでいたのだ。
――だが。
彼らは知る由もなかった。
そのメールの文面を、一文字一文字、冷徹な計算のもとに起案したのが。
大手町L&Vタワー四十八階の特別執務室に座る、知財弁護士・倉田拓海その人であり。
メールに記された『当グループ最高技術顧問兼チーフデザイナー(最終決裁権者)』という肩書きの主こそが。
他ならぬ、かつて自らが雨の夜に五拾万円の手切れ金とともにゴミのように放逐した元妻――神代詩織本人であるということを。
そして。
彼らが狂喜乱舞して飛びついたその「来週木曜日、四十八階特別役員会議室」という華々しい舞台こそが。
逃げ場を完全に塞がれ、過去のすべての罪を白日の下に晒され、社会的な息の根を完全に止められるための――世界で最も残酷で、美しい「公開処刑台」であるということを。
冬の冷たい陽光が、南青山の荒れ果てたオフィスを射抜いていた。
虚飾の城の主たちが、自らの足で断頭台の階段を登り切るその瞬間まで。
運命の審判の時計の針は、チッ、チッ、と音を立てて、確実に刻まれていた。




