第41話:影の執務室
地上四十八階、地上二百メートルを超える上空に広がる大手町「L&Vタワー」の最上層。
東の地平線から昇る初冬の冷たい朝陽が、足元から天井まで張り巡らされたパノラマガラスを黄金色に染め上げていた。
眼下には、模型のように整然と広がる皇居の深い森、その向こうに連なる霞が関や丸の内のビル群、そして遥か西の空に冠雪した富士の峰が、澄み切った大気の中に凛と浮かび上がっている。
東京のすべてを睥睨するその空間――L&Vグループ最高執行部のみに立ち入りが許された特別執務室は、外の喧騒を完全に遮断した、水底のような静寂に満たされていた。
広大なフロアの床には、足音を吸い込む毛足の長いチャコールグレーの特注絨毯。
ミニマリズムの極致とも言える室内には、余計な調度品は一切置かれていない。
中央に鎮座するのは、幅四メートルを超える黒大理石の一枚板で作られたエグゼクティブ・ミーティングテーブル。
その重厚な大理石の天板の上には、今朝の正十二時に締め切られたばかりの『L'OMBRE』日本国内一次サプライヤー公募コンペにエントリーしてきた、全国数十社に及ぶアパレル商社、大手OEM受託企業、そして老舗縫製グループの分厚い審査ファイルが、整然と四つの山に分けて積み上げられていた。
そのテーブルの中央、ハイバックの革張りチェアに腰掛けていたのは、神代詩織だった。
纏っているのは、無駄な装飾を削ぎ落とした自作の漆黒のテーラードスーツ。
細身のラペルが描く流麗なロール、首元に吸い付くような前肩の立体的な仕立てが、彼女の小柄な身体を、他者を寄せ付けないほどの圧倒的な威厳と知性で包み込んでいる。
黒髪はタイトに後ろで束ねられ、白磁のように透き通った横顔に、チタン製の細いリーディンググラスのフレームが知的な影を落としていた。
手首には、墨田区の町工場から肌身離さず身につけている使い古したピンクッション。
そして、書類の脇には、漆黒のネル生地の上に静かに横たえられた「庄三郎」の裁ちバサミ。
「……詩織さん。一次選考の全体概況です」
テーブルの対角線上、寸分の乱れもなく仕立てられたスリーピースを着こなした倉田拓海弁護士が、手元のタブレットから視線を上げ、静かに口を開いた。
銀フレームの眼鏡の奥にある瞳は、冷徹な法と理性の光を湛えている。
「昨日正午の締め切りまでに、指定ポータルサイトを通じて正式に提出されたエントリー総数は、四十八社。その内訳は、東証プライム上場の総合アパレル商社が六社、国内外に自社工場を持つ大手OEM専業企業が十二社、そして地方の縫製・織物産地の協同組合連合が二十二社。……残る八社が、独自の企画提案を盛り込んできた中堅・中小のアパレルブランドです」
「壮観だな」
執務室の窓際、パノラマウィンドウに背を預け、湯気を立てるエスプレッソのデミタスカップを傾けていたレオン・城崎・ヴァランタンが、低く喉を鳴らした。
琥珀色の瞳を細め、窓外の東京の街並みから視線をテーブルへと戻す。
「カルーゼル・デュ・ルーヴルのランウェイを制圧した翌日から、L&Vのアジア本部には『下請けとして参画させてほしい』という問い合わせの電話が鳴り止まなかった。年間最大五億円の製造受託枠、そして何より『世界一のハイブランドの直轄サプライチェーン』という名誉……。この極東のアパレル界に眠る資本と設備が、こぞって君の足元に平伏そうと群がってきたわけだ」
「群がってきたのは、名誉のためだけではありません」
詩織は手元の書類から視線を外さず、淡々と、だが冷徹な声で応じた。
「国内の縫製産業は、長年にわたる海外ファストファッションの台頭と、大手元請けによる理不尽な買い叩きによって、すでに瀕死の重傷を負っています。高度な技術を持ちながらも、安価な海外製品との価格競争に晒され、後継者も育たず、機械を止める寸前まで追い込まれている工場が全国に無数にある。……彼らにとって、適正な工賃と正当な評価を約束するこの五億円の案件は、まさに生き残りを賭けた最後の生存競争なのです」
「その通りです」
倉田が頷き、テーブルの端に置かれていた、ひときわ分厚い一冊の黒革バインダーへと手を伸ばした。
その表紙には、金文字の箔押しで、かつて南青山で栄華を誇っていた見慣れたロゴマークが刻まれていた。
――『L'OMBRE 日本国内一次サプライヤー応募提案書:株式会社アトリエ・アルカ』。
――『最高技術統括:神代俊樹 / クリエイティブディレクター:立花莉乃』。
「そして――その生存競争の列の最前列に、自ら首を差し出すようにして飛び込んできたのが、この会社です」
倉田の手によって、そのバインダーが詩織の目の前へと、滑るように差し出された。
一番上に置かれていた書類。
申請受付番号『LV-JP-SUP-0014』。
昨夜の未明、神代俊樹が血の滲む指先で送信ボタンを押し込んだ、あの百四十ページに及ぶエントリーシートだった。
「……」
詩織は無言のまま、白く細い指先を伸ばした。
手袋を嵌めていない素手の指先が、バインダーの黒いレザーの表紙に触れる。
わずか一ヶ月前まで、自分が寝食を忘れ、身を粉にして支え続けていた会社の名前。
五年間、自らの才能と青春のすべてを注ぎ込み、そして最後は「能無しの寄生虫」と罵られて泥水のアスファルトへと放り出された、あの呪われた城の看板。
詩織は静かに、表紙をめくった。
パラリ、と紙が擦れ合う音が、静まり返った執務室に小さく響く。
一ページ目。
神代俊樹の署名が記された、仰々しい挨拶文。
『我が社は創業以来、日本の伝統美と現代モードの融合を掲げ、代表取締役・神代俊樹の類まれなディレクションのもと、国内屈指のクオリティを誇るプレタポルテを世に送り出してまいりました……』
二ページ目。
【主要製品仕様書・設計アーカイブ(抜粋)】。
そこに印刷されていた図面を目にした瞬間、詩織のチタンフレームの眼鏡の奥の瞳が、わずかに細められた。
「……呆れたわね」
詩織の唇から、氷柱のように冷たい呟きが零れ落ちた。
吐息すら凍りつきそうなほどの、底知れぬ侮蔑。
「これ……私が三年前に、三ツ星百貨店のプレタポルテラインのために作成した、カシミヤ混ウールコートの立体仕様書だわ」
詩織の指先が、図面の右下をトンと叩いた。
そこには、修正テープで白く塗り潰された痕跡の解像度ノイズが、スキャナーの影として微かに残っていた。
かつて詩織が硬度2Hの鉛筆で丁寧にサインした『設計責任者:神代詩織』の筆跡を強引に消し去り、その上から、俊樹の下品に角ばったサインペンで『統括技術責任者:神代俊樹』と殴り書きされた文字。
「肩甲骨の丸みに合わせたダーツの分散量、袖山のイセ込みのピッチ、表地と毛芯の収縮差を埋めるための裏地のキセの計算……。何十回とトワルを組み直し、私が一人で引いた線よ。……神代俊樹は、この線の一本すら、なぜそこに引かれているのか理解していない。定規の当て方すら怪しい男が、よくも抜け抜けと自分の実績として提出できたものだわ」
詩織は指先を動かし、次のページをめくった。
【国内提携生産ライン・ファクトリーネットワーク一覧】。
そこに並んでいた名立たる工場のリストを目にした瞬間、詩織の眉根が、ピクリと不快そうに跳ね上がった。
『愛知県一宮市・奥田織物(極細番手ウール専属供給契約・直属ライン)』
『東京都墨田区・佐伯縫製(超高密度プレタポルテ専属縫製工場・資本提携先)』
『秋田県・東北縫製加工連合(大型ロット対応直属ライン)』
「……専属契約? 資本提携?」
詩織の声音に、先ほどまでの冷淡さとは異なる、静かな怒りの地熱が混ざり込んだ。
「奥田さんは、俊樹の顔すら見たことがないはずよ。大手アパレルの買い叩きに苦しみ、工場を畳もうとしていたあの人を、私は尾州の埃っぽい機場で頭を下げて口説き落としたのよ。……佐伯縫製に至っては、俊樹が一方的に手形を踏み倒し、発注をキャンセルしたせいで、朋香のお父さんが心労で脳梗塞で倒れたのよ。あの子たちが血の涙を流しながら守り抜いたミシンを、自分の『手駒』として書類に書き連ねるなんて……」
詩織の指先が、紙面を強く押さえつけた。
指紋が白くなるほどの力。
怒り。
だが、それは激情に身を任せた怒りではなかった。
人体の尊厳を守るために針を握り、布の命を誰よりも愛する職人として、他人の汗と涙を紙屑のように弄ぶ人間に対する、本質的な嫌悪と断罪の意思だった。
「そして――極めつけは、この添付資料ですね」
倉田が苦笑を浮かべ、バインダーの巻末を指し示した。
【特別企画提案書:CREATIVE VISION & PORTFOLIO / RINO TACHIBANA】。
カラー印刷されたそのページには、胸元を大きくはだけた深紅のイブニングドレスを纏い、カメラに向かって上目遣いで妖艶な笑みを浮かべる立花莉乃のグラビア写真が、大判で何枚も貼り付けられていた。
添えられていたのは、耳を疑うような言葉の羅列。
『Z世代を熱狂させる圧倒的なインフルエンス力』
『服をキャンバスに変える、直感的なインスピレーション』
『L'OMBREの構造美と、立花莉乃のミューズとしての感性が融合した、日本限定セカンドラインの創出』
「……反吐が出るわね」
詩織はバインダーを無造作に放り出した。
バサリ、と大理石のテーブルの上に重たい音が響く。
「人体の骨格も、重力も、布の地の目すら理解できない素人が、胸元の露出した写真を並べて、世界最大のラグジュアリーファンドを色仕掛けで落とせると本気で信じている。……反省どころか、どこまでも他人の褌で相撲を取り、他人の威光に寄生することしか考えられない人間たちだわ」
「救いようのない愚かさだ」
レオンがエスプレッソのカップをサイドテーブルに置き、テーブルへと歩み寄ってきた。
男の端正な唇には、極上の喜劇を観賞しているかのような、冷酷で優雅な笑みが浮かんでいた。
「倉田から報告を受けているよ。昨日、この神代俊樹という男は、エントランスの受付に一万五千円のマカロンの箱を持って現れ、担当役員に取り次げと喚き散らして警備員に排除されたそうだ。その後、夕暮れまでビルの前の舗道に立ち尽くし、通行人に頭を下げていたらしい」
「……あの男のやりそうなことです」
詩織は冷え切った目で言った。
「中身のない人間ほど、形式的な根回しやコネクション、小手先の媚び売りで世界が動いていると信じ込んでいる。自分の手で布の一片すら触ったことのない男の、浅ましい限界です」
倉田が手元の端末を操作し、三枚の書類を画面に呼び出した。
「詩織さん。このアルカ社の提出書類ですが、法的にはすでに『完全な自爆装置』として機能しております」
倉田の眼鏡の奥で、知財弁護士の鋭利な光が走る。
「詩織さんのサインを修正して自己の実績として偽装した行為は、著作権法上の著作者人格権(氏名表示権)の侵害、ならびに不正競争防止法第二条第一項の誤認惹起行為に該当します。さらに、奥田織物や佐伯縫製との虚偽の提携関係を公的なコンペティションにおいて記載したことは、明白な虚偽申告――刑法第二百四十六条の詐欺未遂罪の構成要件を完璧に満たしています」
倉田はタブレットを置き、静かに詩織を見つめた。
「つまり、この書類を一次審査の選考委員会に回すまでもなく、コンプライアンス規程違反、および重大な虚偽記載として、今この瞬間に『即時失格(足切り)』にすることが可能です。……理由を説明する必要すらありません。ポータルサイト上で不合格通知のボタンを一つ押すだけで、彼らのエントリーは跡形もなく消滅します」
「ああ、そうだね」
レオンが腕を組み、琥珀色の瞳を詩織へと向けた。その声音には、詩織の判断を試すような、深い知性の響きがあった。
「一次書類審査で落とすこともできるが、どうする? 神代詩織。……君の手を汚すまでもない男だ。ここで門前払いを食らわせれば、今週末の金曜日、彼らは東都中央銀行からの手形不渡り処分を受け、誰に看取られることもなく自己破産して消え去る。……君が直接、あの泥舟の悪臭を嗅ぐ必要すらないんだよ」
静寂が、執務室を満たした。
初冬の乾いた風が、四十八階の強化ガラスを微かに震わせている。
不合格のボタンを一つ押すだけ。
それだけで、かつて自分を裏切り、雨の夜に放り出した元夫と愛人は、自滅の坂を転がり落ちて破滅する。
法的な制裁。
経済的な破綻。
それで復讐は完結するはずだった。
だが――。
「……」
詩織はゆっくりと立ち上がった。
大理石のテーブルを回り込み、パノラマウィンドウの前へと歩み出る。
ガラスの向こう、遥か眼下に広がる東京の街。
南青山のオフィス、西麻布のレストラン、六本木のタワーマンション。
かつて自分が「夫の夢」を支えるために、狭いアトリエで血のにじむ指先を見つめながら信じようとしていた、あの偽りの街。
五年間、毎日毎日、夫の顔色を窺い、自尊心を削り取られ、最後は手切れ金の茶封筒を顔面に投げつけられた、あの屈辱。
『お前みたいな地味で陰気な女が横にいたらブランドの格が落ちる』
『莉乃はインスピレーションの塊だ。お前とは華が違う』
『お前は言われた通りに作業するだけの寄生虫だ。誰のおかげで今まで飯が食えたと思ってる?』
あの男は、今もなお信じているのだ。
自分は選ばれたプロデューサーであり、悪運と他人の足の引っ張り合いによって一時的に躓いただけだと。
莉乃の美貌と、詩織から盗んだ図面さえあれば、いつでも世界を欺いて返り咲くことができるのだと。
(……そんな終わり方を、許すはずがない)
詩織の胸の奥底で、青白い炎が、静かに、だが絶対零度の熱量を持って燃え盛っていた。
書類審査で不合格にすればどうなるか。
俊樹は必ずこう言い訳するだろう。
『外資の審査員が見る目を欠いていた』『不当なシステムエラーで落とされた』と。
自らの無能と罪に向き合うこともなく、被害者面をして、最後まで自分の虚栄の殻の中に閉じこもり続けるに決まっているのだ。
詩織は振り返った。
その瞳には、迷いなど一欠片も存在しなかった。
研ぎ澄まされた刃物のように冷たく、深海の底のように静かな、真の処刑人の眼差し。
「……いいえ、レオン。倉田さん」
詩織の声が、静まり返った執務室の空気を凛と切り裂いた。
「一次審査は、合格にしてください。……最終プレゼンテーション選考へ、アトリエ・アルカを通してください」
「ほう?」
レオンの口角が、愉悦に吊り上がった。
「書類審査で落としては駄目なのです」
詩織はテーブルの上の、アルカ社のバインダーへと冷徹な視線を落とした。
「あの男たちに、与えるのです。……四十八社の中から、わずか三社に絞り込まれた『最終選考の席』という名の、最高の栄光を。自らの浅ましい嘘と粉飾が通用したと錯覚させ、天にも昇るような全能感と、億単位の金が手に入るという甘美な希望を、骨の髄まで吸わせるのです」
詩織は机の上の「庄三郎」のハサミへと手を伸ばし、その冷たい鋼の柄をそっと握りしめた。
「人間が一番深い絶望を味わうのは、いつだと思いますか? 最初から暗闇の底にいる時ではありません。……自らの手で掴み取ったと思った『最後の希望』が、最も見下し、最もゴミのように踏みにじっていた人間の掌の上だったと知った時です」
詩織の唇に、美しく、そして残酷な微笑みが浮かんだ。
「最終プレゼンの会場は、ここ――このL&V本社の特別役員会議室ですね?」
「ああ」レオンが深く頷く。「当グループの最高技術顧問、ならびにアジア総括CEOが出席する、絶対の聖域だ」
「そこで、迎え撃ちましょう」
詩織は凛とした姿勢で、二人の男を見据えた。
「最高級のスーツで着飾り、嘘八百のプレゼンを意気揚々と語るあの男たちの前に……私が座ります。この手で仕立てた最高の服を着て、あの男たちが『無能な寄生虫』と見下していたこの女が、彼らの命運のすべてを握る『L'OMBREのチーフデザイナー』であることを、白日の下に突きつけてあげるのです」
完璧な処刑のシナリオ。
神代俊樹と立花莉乃の肥大化した虚栄心を、最も高く跳び上がらせた瞬間に、自らの手で奈落の底へと叩き落とす。
服飾の神を冒涜し、職人たちを踏みにじってきた偽物たちに、本物の技術とプロフェッショナリズムの鉄槌を下すための、完璧な舞台装置。
倉田弁護士は眼鏡を押し上げ、深く、満足そうに一礼した。
「……承知いたしました。一次選考通過の通知状、ならびに最終プレゼンテーションへの招請状を、アトリエ・アルカ宛てに直ちに起案いたします。……候補企業三社の筆頭として、彼らに最高の招待状を送り届けてみせましょう」
「頼みます、倉田さん」
詩織はハサミを作業台の上へと静かに戻した。
窓の外では、東京の摩天楼が冬の眩い光を浴びて輝いていた。
南青山のオフィスで、今頃、自らの浅ましい嘘が通るかどうか、爪を噛みながら画面を見つめているであろう元夫と愛人。
彼らの首に巻き付けられた見えない縄は、今、詩織の指先によって、完全に引き絞られようとしていた。
処刑台への招待状が、今、放たれようとしていた。




