第40話:色仕掛けと虚栄のポートフォリオ
南青山の路地裏にひっそりと看板を掲げる、完全会員制の高級インポート・レンタルブティック。
普段ならば富裕層の令嬢やセレブリティが夜会のためのドレスを選び出すその豪奢なフィッティングルームの片隅で、立花莉乃は手元のスマートフォンを睨みつけ、神経質に爪を噛んでいた。
指先のマニキュアは剥げ落ち、手首には焦燥のあまり掻き毟った赤い引っかき傷が残っている。
「……決済、通ったわね」
レジカウンターの端末から、ジジッと紙の明細が吐き出される音を聞き、莉乃は心底から安堵のため息を漏らした。
手元に残された三枚のクレジットカード。
すでにキャッシング枠もショッピング枠も限度額の限界(天井)に達し、先ほどの一括決済によって、利用可能枠は文字通り「数十円」の残高を残すのみとなっていた。今月の引き落とし日を迎えれば、口座残高不足で即座に強制解約となるのは火を見るより明らかだった。
だが、今の莉乃にとって、来月の支払いのことなどどうでもよかった。
手に入れたのは、イタリアの老舗メゾンから買い付けられたばかりの、深紅のシルクサテンのイブニングドレス。
胸元が限界までV字に深く切り込まれ、背中は腰骨のあたりまで大胆に露出した、退廃的で蠱惑的な一着だった。
「これよ……。これさえあればいいのよ」
莉乃は鏡の前でドレスを自分の身体に押し当て、恍惚とした笑みを浮かべた。
事務所からの六千五百万円の損害賠償請求。
実家の父親からの勘当宣告。
ネット上に溢れかえる「パクリ詐欺師」「殺人未遂デザイナー」という罵詈雑言。
それらの過酷な現実がどれほど自らを包囲していようとも、莉乃の歪みきった自己愛は、何一つ傷ついてはいなかった。
悪いのはすべて、あの粗悪な中国工場を手配した間宮であり、現場を統括できなかった俊樹であり、自分の類まれな感性を理解できない「頭の固いオバサン」の九条志乃なのだ。
自分は被害者だ。
時代の寵児として祭り上げられ、男たちに利用され、捨てられかけた悲劇のヒロインなのだ。
だからこそ――自らの美貌と若さを武器にして、すべてを取り戻して何が悪いというのか。
「欧米の巨大ファンドのCEOなんて、みんな傲慢な男たちに決まっているわ」
莉乃は口角を吊り上げ、鏡の中の自分にウィンクしてみせた。
「スーツで着飾った偉そうな白人やハーフの投資家なんて、こういう大胆で華やかな東洋の美女に一番弱いのよ。……プレゼン当日は、このドレスを着て、香水をたっぷりと纏って、潤んだ瞳で相手のトップを見つめてあげるの。『私のインスピレーションを形にしてくださるパートナーを探していました』って囁けば、イチコロに決まってるじゃない」
服の構造?
パターンの幾何学?
生地の縮率?
そんな面倒な理屈など、男を転がすための「華やかさ」の前には何の意味も持たない。
男の欲望を刺激し、庇護欲を煽り、自分の意のままに操る――それこそが、立花莉乃が読者モデルとして男たちの間を渡り歩き、アトリエ・アルカの「若きミューズ」の玉座を掠め取るために磨き上げてきた、唯一無二の「絶対的な武器」だった。
その足で莉乃が向かったのは、代々木上原のビルの地下にある、時間貸しのハウススタジオだった。
ギャラの前払いで呼び出したのは、SNSのフォロワーが数千人しかいない、食い詰めた若手のフリーランスカメラマン。
スタジオの無機質なコンクリート壁の前に、ヴィンテージのベルベットチェアと、古道具屋から借りてきた古いトルソーが一台、無造作に置かれていた。
「はい、もっと顎引いて! 物憂げな視線、少し斜め上ね! 照明、莉乃ちゃんのデコルテにダイレクトに当てて!」
パシャパシャパシャッ!
ストロボの白い光が、暗いスタジオを激しく明滅させる。
莉乃は深紅のドレスの裾を大胆に広げ、トルソーの肩に細い指先を這わせた。
トルソーには、適当にピンで留められた黒いシルクの端切れが巻き付けられている。まるで、今まさに自らの手でオートクチュールのドレープを生み出している瞬間であるかのように演出された、完全なるフェイク。
莉乃は長いまつ毛を伏せ、唇をわずかに半開きにして、官能的でありながら孤高の芸術家を気取った表情をカメラへと投げ続けた。
撮影は二時間に及んだ。
撮り上がった数百枚の写真の中から、莉乃は入念に選定を重ねた。
肌の質感を陶器のように滑らかにし、ウエストのくびれを強調し、脚の長さを二割増しに引き伸ばすレタッチ(画像加工)を、自らのスマートフォンで素早く施していく。
そして、それらの写真を、あらかじめ用意していたパワーポイントのテンプレートへと流し込んでいった。
表紙のタイトル――。
ゴールドの筆記体で飾られたその文字は、見る者が失笑を禁じ得ないほどの虚飾に満ちていた。
――『CREATIVE VISION & PORTFOLIO / RINO TACHIBANA』。
(立花莉乃が拓く、次世代ラグジュアリープレタポルテの地平)。
中身に並べられていたのは、実態の伴わない美辞麗句のオンパレードだった。
『Z世代およびミレニアル世代を熱狂させる、SNSエンゲージメント率国内トップクラスのアイコン』
『服を建築物から「エモーショナルなキャンバス」へと解放する、直感的なデザインフィロソフィー』
『世界基準のラグジュアリーと、日本の若年層マーケットをダイレクトに結ぶ唯一無二の架け橋』
寸法データはない。
過去に引いた型紙の図面も一枚もない。
あるのは、加工された莉乃の美貌と、胸元を強調したセクシーなカット、そして「若き天才女性デザイナー」としての自画自賛のテキストだけ。
だが、莉乃は満足そうに口元を歪め、完成したPDFデータをタブレットに保存した。
「完璧だわ……。これを見せれば、相手の役員だって私をただの下請けのスタッフなんかじゃなく、ブランドの『共同ディレクター』として迎え入れたくなるはずよ」
莉乃は深紅のドレスを乱暴に紙袋へと詰め込むと、南青山のオフィスへと向けてタクシーを拾った。
南青山の「アトリエ・アルカ」本社ビルは、昼間であっても死の静寂に沈んでいた。
三階のオフィスへ入ると、そこには大手町での門前払いを食らい、泥だらけになって帰ってきた神代俊樹が、パソコンの前に蹲っていた。
スーツの膝には舗道の砂埃が白く擦り切れ、手元には潰れた『パティスリー・サダハル・アオキ』のマカロンの箱が転がっている。
「俊樹さん……」
莉乃が声をかけると、俊樹はギロリと血走った目を向けた。
頬の傷からは血が固まり、無精髭と脂汗でドロドロになったその顔には、敗残者の狂気が滲み出ていた。
「莉乃……ポートフォリオはできたのか」
「ええ、完璧よ。見て」
莉乃はiPadを俊樹の目の前に差し出した。
深紅のドレスを纏い、妖艶な笑みを浮かべる莉乃の写真の数々と、仰々しい横文字が並ぶポートフォリオ。
俊樹は画面をスワイプしながら、食い入るようにその資料を凝視した。
普通のアパレル経営者であれば、技術要件が何一つ書かれていないこの資料を一瞥しただけでゴミ箱へ放り込むところだった。
だが――常軌を逸した極限状態にある俊樹の目には、この薄っぺらい虚飾の束が、暗闇を照らす黄金の切り札に見えていた。
「……素晴らしい」
俊樹の喉から、掠れた賛嘆が漏れた。
「素晴らしいぞ、莉乃……! これだ。L&Vのような外資のメガコングロマリットは、ただ服を縫える職人など求めていない。世界中に話題をばら撒き、SNSでバズを起こせる『スター性』を求めているんだ。……お前のこの華やかさは、うちの提案書の最大のフックになる!」
「でしょ!?」
莉乃が得意満面に胸を反らせた。
「プレゼン当日は、私があのドレスを着て会場に行くわ! 相手のトップが男なら、私の色気で骨抜きにしてあげる! 『L'OMBREのセカンドラインを私に任せてくれたら、世界中の若い子たちに広めてあげる』って提案して、専属アドバイザーの座もぎ取ってやるんだから!」
「ああ、そうだ! 女の武器だろうが何だろうが、利用できるものは何一つ惜しむな!」
俊樹は立ち上がり、莉乃の肩を力強く叩いた。
かつて妻・詩織の誠実な職人気質を「地味で陰気だ」と切り捨てた男が、今や愛人の色仕掛けと虚栄のポートフォリオを頼みの綱として、五億円のコンペを勝ち抜こうと本気で目論んでいた。
倫理の崩壊。
プロフェッショナリズムの完全なる喪失。
だが、二人の間には、破滅へと直走る共犯者特有の、熱狂的な高揚感だけが渦巻いていた。
「さあ、エントリーシートの最終仕上げだ」
俊樹はデスクの前の椅子を引き、割れた画面のノートパソコンの前に腰を下ろした。
画面には、L&Vホールディングスのサプライヤー公募ポータルサイトの入力フォーム。
提出期限は、明日の正午。
添付ファイルの上限は二百メガバイト。
二人は、自らが組み上げた「嘘の塊」を、指定の入力欄へと容赦なく流し込み始めた。
――項目一:【過去五年間の主要納品実績、および品質管理体制】。
俊樹の指先が、キーボードの上を狂ったように叩く。
『株式会社アトリエ・アルカは、創業以来、三ツ星百貨店本館をはじめとする国内主要ラグジュアリーリテールに対し、累計三万着を超えるハイエンド既製服を供給してまいりました。代表取締役・神代俊樹の直接的なテクニカルディレクションのもと、製品不良率は過去五年間で一貫して「〇・一パーセント以下」を維持。業界最高水準の品質管理マニュアルを確立しております』
「不良率〇・一パーセントって……」
後ろから画面を覗き込んだ莉乃が、思わず口を挟んだ。
「先日の展示会の服、ネットで売った分は七割以上が返品されてるじゃない……」
「馬鹿者、本当のことを書く奴がどこにいる!」
俊樹はキーボードを叩く手を止めずに怒鳴り散らした。
「向こうはルクセンブルクのファンドだぞ! わざわざ日本の宅配業者の返品伝票を一枚ずつ照合するような暇なんざあるわけがない! 書類審査なんてものはね、見た目の数字が綺麗に揃っていればそれでパスするんだよ!」
俊樹は続けて、詩織がかつて作成した仕様書のスキャンデータを、何十枚とアップロード欄へとドラッグ&ドロップしていった。
詩織が夜を徹して引いた、人体の骨格に吸い付くようなアームホールの設計図。
カシミヤの縮率を計算し尽くした幾何学的なカッティングパターン。
それらの図面の右下に記されていた『設計責任者:神代詩織』のサインは、先ほど俊樹の手によって修正テープで消し去られ、『統括技術責任者:神代俊樹』という太いペンキ文字に上書きされていた。
――項目二:【国内縫製工場、およびテキスタイル生産拠点のネットワーク】。
俊樹は、詩織が遺した黒いバインダーを開き、そこに記されていた地方工場のリストをそのままタイピングしていった。
『愛知県一宮市・奥田織物(極細番手ウール専属供給ライン)』
『東京都墨田区・佐伯縫製(超高密度プレタポルテ専属縫製工場)』
『秋田県・東北縫製加工連合(大型ロット対応直属ライン)』
「これらの優良拠点は、すべて我がアトリエ・アルカが長年の信頼関係のもとに資本的・技術的に専属提携を結んでいる直属ネットワークであり、L&Vグループからのいかなる短納期・大型発注に対しても、即座に月産五千着の生産ラインを稼働させることが可能です」
専属提携?
資本提携?
何一つ、真実など存在しなかった。
奥田創は俊樹の顔すら見たことがなく、佐伯朋香の工場に対しては手形を踏み倒して倒産寸前まで追い込み、秋田の工場からは「二度とアルカの仕事は受けない」と絶縁状を叩きつけられているのだ。
だが、俊樹は平然とした顔で、それらの名門工場を自らの「手駒」として書類上に並べ立てていった。
――項目三:【ブランド価値向上に資するクリエイティブ提案】。
ここで俊樹は、莉乃の作成した『CREATIVE VISION & PORTFOLIO』のPDFファイルを添付した。
そして、推薦文としてこう書き殴った。
『我が社は単なる製造下請けに留まりません。国内最高峰のインフルエンサーであり、次代のモードを牽引するクリエイティブディレクター・立花莉乃(SNS総フォロワー数六十万人超)を擁し、L'OMBREの持つ圧倒的な構造美を、アジア全域の若年富裕層へ向けて爆発的に拡散させる独自のプロモーション戦略を提案いたします。……製造からマーケティングまでを一気通貫で統括できるサプライヤーは、我が社をおいて他に存在いたしません』
「……できた」
時計の針が、深夜二時を回った頃。
入力フォームの全項目が埋まり、添付ファイルのプログレスバーが百パーセントに到達した。
モニターの青い光が、散らかった社長室の闇の中に、俊樹と莉乃の青白い顔を照らし出している。
総ページ数、百四十ページ。
詩織の技術を盗んだ偽りの図面。
地方の名門工場を勝手に私物化した虚偽のネットワーク。
そして、色仕掛けと自己愛だけで固められた莉乃のポートフォリオ。
それは、ファッションへの敬意も、職人への誠意も、客への良心すらも一欠片も持たない、人間の浅ましさと欺瞞のすべてを凝縮した「悪魔の書類」だった。
「俊樹さん……」
莉乃が俊樹の腕にしがみつき、震える声で囁いた。
「これで……勝てるのよね? 私たち、五億円を手に入れて、またセレブに戻れるのよね……?」
「ああ、勝てる」
俊樹の濁った瞳の奥に、狂信的な光が宿っていた。
男はマウスのカーソルを、画面右下に赤く点滅する『SUBMIT(申請書を送信する)』のボタンへと合わせた。
「これだけの完璧な書類を作れる会社が、日本中を探して他にあるはずがない。……詩織の遺した図面も、お前の美貌も、すべて俺の勝利のための踏み台だ。……外資のファンドなんざ、この書類を見れば一発でひれ伏すに決まっている!!」
カチリ。
人差し指が、力強く左クリックを押し込んだ。
送信中のインジケーターが数秒間回転し、やがて画面の中央に、無機質な完了メッセージが表示された。
――『Application Submitted Successfully. Reference Number: LV-JP-SUP-0014(申請は正常に受理されました。受付番号:LV-JP-SUP-0014)』。
「送信……完了したぞ!」
俊樹が叫び、両手を高く掲げた。
「キャハハッ! やったぁ!!」
莉乃が歓声を上げ、俊樹の首に飛びついた。
「勝ったわ! これで借金も全部チャラよ! パリコレのセカンドライン、私の名前で出してやるんだから!!」
二人は暗いオフィスの中で抱き合い、互いの身体を求め合うように貪り、勝利を確信した下品な笑い声を響かせた。
数時間前まで互いの喉元を締め上げ、血を流し合っていた男女が、自らが組み上げた嘘の城の上で、再び甘い夢に酔いしれていた。
――だが。
彼らは知る由もなかった。
光回線を通じて送信されたその「受付番号:LV-JP-SUP-0014」のデータが。
大手町にそびえ立つL&Vタワー四十八階の特別執務室のサーバーへと、ダイレクトに着信したということを。
そして、その画面の前に座っていたのが。
他ならぬ、自らが雨の夜に五拾万円で追い出した元妻・神代詩織本人であり。
彼女の隣には、冷徹な知財弁護士・倉田拓海と、世界を動かす投資家レオン・城崎・ヴァランタンが、静かにワイングラスを傾けながら、その申請書類の到着を待ち構えていたということを。
自ら首に縄をかけ、処刑台の階段を駆け上がってきた二匹の寄生虫。
彼らが誇らしげに提出したその虚飾のポートフォリオと粉飾の提案書こそが、逃げ場を完全に塞ぐ「動かぬ死刑判決の証拠」となる瞬間が、刻一刻と近づいていた。




