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愛人のデザインで賞を取った元夫へ。独立して立ち上げた私のブランド、あなたの会社の下請け契約を切る側になりました  作者: タカケンサンバ


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第39話:プライドを捨てた猛獣の哀れ

東京・大手町のビジネス街に吹き抜けるビル風は、氷の剃刀のように鋭く、道行くビジネスマンたちのコートの襟元を容赦なく引き裂いていた。

日本経済の中枢を成すメガバンクの本店や巨大商社が立ち並ぶ整然とした街区。その中心に、周囲を威圧するように天へと突き刺さる全面ガラス張りのランドマーク――地上四十八階建ての超高層複合タワー「L&Vタワー」がそびえ立っていた。


朝の九時前。

陽光を浴びて冷たい銀色に輝く巨大なファサードの真下、地下鉄の出口から吐き出される洗練されたエリートたちの波に逆らうようにして、一人の男が足早に歩道を進んでいた。

神代俊樹だった。


俊樹は、かつて仕立てた最高級のイタリア製チャコールグレースーツを纏っていた。

だが、その生地は連日の着用と手入れの怠りによって至る所に細かなシワが寄り、袖口は薄汚れていた。無精髭を慌てて剃った顎には赤黒いカミソリ負けの跡が点々と残り、目の下には鉛色の深い隈が張り付いている。

銀座の高級香水を過剰なほど首筋に吹き付けていたが、その人工的な甘い芳香の下から、隠しきれない脂汗と、追い詰められた人間の饐(す)えた体臭が微かに漏れ出ていた。


俊樹の右手には、金色のリボンが厳重に結ばれた、老舗デパートの最高級洋菓子店『パティスリー・サダハル・アオキ』の巨大な紙袋がぶら下がっていた。

中に入っているのは、一箱一万五千円もする特注のマカロンとショコラの詰め合わせが三箱。

財布の中に残されていた最後の手持ちの現金を叩き、限度額ギリギリで奇跡的に決済が通った個人用クレジットカードの枠を使って買い求めた、文字通りの「最後の実弾」だった。


「……五億円。何が何でも、この契約だけは他社に渡すわけにはいかん」


俊樹は乾ききった唇を舐め、左腕のロレックスに目を落とした。

公募コンペの締め切りは、明日の正午。

東都中央銀行から突きつけられた手形の不渡り期日――金曜日の午後三時まで、残された猶予は四十時間を切っていた。


本来、L&Vホールディングスが告知した一次サプライヤーの応募方法は、特設ポータルサイトを通じた指定フォーマット(PDF形式)の電子申請のみと厳格に定められていた。

だが、俊樹の骨の髄まで染み付いた「営業マン気質」が、それを許さなかった。

画面越しにデータを送信するだけで、本当に審査員が目を通してくれるのか。

全国から何十社、何百社と群がってくるライバル企業の中で、埋もれてしまうのではないか。

直接会い、顔を売り、菓子折りを差し出し、深々と頭を下げて情に訴えかける――かつて中堅アパレルの営業マン時代、泥臭い根回しと接待でスポンサーを丸め込んできた過去の成功体験が、俊樹の焦燥しきった脳髄を支配していた。


(外資だろうが何だろうが、ビジネスを動かしているのは人間だ。……担当窓口の若手を抱き込み、情熱をアピールして、アルカの提案書を一番上に置かせる。それだけで勝率は跳ね上がるんだ)


俊樹は自らの浅ましい計算を信じ込み、手にした紙袋を握り直すと、L&Vタワーの回転ドアへと足を踏み入れた。


エントランスロビーは、他者を圧倒するような静謐と、ミニマリズムの極致に満ちていた。

天井高十メートルを超える吹き抜けの空間。

白大理石が敷き詰められた床は、磨き上げられた鏡のように天井のLEDライン照明を反射し、空気は微塵の埃すら許さない精密機械のように冷暖房がコントロールされている。

中央に鎮座する総合受付カウンターには、仕立ての良い黒の制服を身に纏った三名の受付嬢と、ネイビーのスーツを着こなした若い男性フロアマネージャーが、寸分の狂いもない姿勢で待機していた。


俊樹は浅く息を吸い込み、首筋のネクタイを締め直すと、かつて南青山で振る舞っていた「時代の寵児たる気鋭の経営者」の笑みを張り付けてカウンターへと歩み寄った。


「おはようございます。株式会社アトリエ・アルカ代表取締役の、神代と申します」


俊樹は胸ポケットから、金箔押しが施された自らの名刺を素早く抜き出し、両手で差し出した。

受付の若い男性社員が、会釈とともにそれを受け取る。だが、その瞳には親しみも、へつらいもなかった。ただ、冷徹なまでに無機質なプロフェッショナルの光。


「アトリエ・アルカの神代様ですね。本日はどのようなご用件でしょうか」

「ええ。現在、御社が公募されております『L'OMBRE』の国内一次サプライヤーの件で参りました」


俊樹は声のトーンをわずかに落とし、親密さを装うように身を乗り出した。

そして、手にした『パティスリー・サダハル・アオキ』の豪奢な紙袋を、カウンターの上へと滑らせるように置いた。


「これ、ほんの心ばかりのものですが……皆様で召し上がってください。銀座で一番美味しいショコラです。……それでですね、本日は本プロジェクトの調達責任者様、あるいはサプライチェーン統括役員の方に、ほんの五分……いえ、三分で結構ですので、直接ご挨拶をさせていただきたく存じまして」


俊樹の顔に、脂汗が滲み出る。

彼は脇に抱えていた厚さ五センチを超える黒革のバインダー――詩織の過去五年間の仕様書を自社の技術として改ざんし、莉乃のポートフォリオを添えた提案書を軽く掲げてみせた。


「我が社は長年にわたり、三ツ星百貨店様をはじめとする国内最高峰の売り場にハイエンドな既製服を納品し続けてきた、極めて高度な技術マネジメント実績がございます。全国の熟練機屋、縫製工場とのパイプも完璧に掌握しております。……この提案書の要点だけでも、直接、決裁権をお持ちの方にお耳入れできればと思い、参上いたしました」


俊樹の口から流れるように吐き出される、滑らかなセールストーク。

かつて地方の零細工場を買い叩く際、あるいは銀行の融資窓口を言いくるめる際に使ってきた、自信満々の欺瞞の言葉。


だが。

男性社員の視線は、差し出された提案書にも、カウンターに置かれた一万五千円の菓子折りにも、一瞬たりとも落ちなかった。

男は俊樹の顔を正面から見据えたまま、平坦な、抑揚のない声で告げた。


「神代様。恐れ入りますが、担当役員との事前アポイントメントはお取りいただいておりますでしょうか」

「あ……いや、アポイントは取っておりませんが、緊急の公募案件ということで、直接お持ちした方が熱意が伝わるかと――」


「申し訳ございません」

男性社員は俊樹の言葉を、硬質な敬語で遮った。

「当グループにおきましては、事前のアポイントメントのないお客様の役員フロアへの立ち入り、ならびに担当者へのお取り次ぎは、セキュリティ規定により一切禁じられております」


「そこを何とか! ほんの名刺交換だけでいいんです!」

俊樹はカウンターに両手を突き、声を上擦らせた。

「アトリエ・アルカの神代ですよ!? 先日のジャパン・モード・クリエイション大賞で最優秀新人賞を獲得したブランドです! 我が社の技術力があれば、L'OMBREの国内量産ラインを世界一の精度で立ち上げられるとお約束します! 担当部署の内線番号だけでも教えていただければ、私から直接――」


「神代様」

男性社員の眉が、ほんの数ミリ、不快そうに動いた。

男はカウンターの上に置かれた紙袋を、両手で丁寧に、だが一切の躊躇なく俊樹の手元へと押し戻した。


「当グループでは、サプライヤー選定における公平性を期すため、候補事業者様からの金品、贈答品、ならびに差し入れの受領をコンプライアンス規程により固く禁じております。お持ち帰りください」


「こ、これはただの菓子でして、他意は――」

「お受け取りできません」

社員の口調が、一段と冷たさを増した。


「また、本件公募に関する提案書の提出は、告知要項に明記されております通り、指定のオンライン申請システムを通じてのみ受け付けております。紙媒体の直接持ち込みによる受領、ならびに選考過程における口頭での個別プレゼンテーションは、いかなる企業様であっても一切認めておりません。……規定のメールアドレス、またはポータルサイトよりアップロードをお願いいたします」


「そ、そんな四角四面のことを言わずに……! 私は社長の神代ですよ!? 担当の責任者に一本電話を繋いでいただくだけでいいんです! お願いします、ほんの少しだけでいいんです!!」


俊樹は完全にプライドをかなぐり捨てていた。

カウンター越しに身を乗り出し、喉を嗄らして懇願する。

かつて「気鋭の若手カリスマ」とメディアに持ち上げられ、現場の職人を「いつでも替えがきくゴミ」と切り捨てていた男が、今や外資系ビルの受付の若手社員の前で、必死に命乞いをする野良犬のように媚びを売っていた。


その異様な光景に、ロビーを行き交う人々が足を止め始めた。

ネイビーやグレーの洗練されたスーツを着こなしたL&Vグループの社員たち、海外からの来訪者たちが、眉をひそめながら俊樹の背中を遠巻きに眺めている。

『何だ、あの男は』

『アパレルの営業か? みっともないな』

『菓子折りで外資のコンペをねじ曲げようとするなんて、時代錯誤もいいところだ』

英語やフランス語、そして冷笑を含んだ日本語の囁きが、冷たい大理石の空間に波紋のように広がっていく。


「神代様」

男性社員の背後から、二人の屈強な警備員が音もなく歩み寄ってきた。

胸元にL&Vのセキュリティバッジをつけた警備員たちは、無言のまま俊樹の左右へと立ち塞がった。


「他のお客様のご迷惑となります。これ以上の業務の妨害、ならびにロビー内での無許可の滞留はお控えください。……出口へご案内いたします」


「ま、待て! 触るな! 俺は客だぞ! アトリエ・アルカの代表取締役だぞッ!!」

俊樹が腕を振り払おうとしたが、警備員の手は鋼のように硬く、俊樹の腕をガッチリとホールドした。

乱暴に引きずり出されるわけではない。だが、寸分の反論も許さない圧倒的な力で、俊樹の身体はエントランスの自動ドアへと向けて誘導されていく。


「離せ! 提案書を見てくれ! この書類を見れば、うちの技術が本物だと分かるはずだ! 頼む、役員に渡してくれ! 頼むからァァッ!!」


俊樹の悲鳴のような叫び声が、静寂な大理石のホールに無様に木霊した。

だが、誰一人として足を止める者はいなかった。

受付の社員たちはすでに視線を次の来訪者へと戻し、フロアを歩くビジネスマンたちは、汚物を見るような一瞥を投げ捨てて通り過ぎていく。


――プシューッ。


巨大なガラスの自動ドアが開き、俊樹の身体は、容赦のない冬のビル風が吹き荒れる屋外の舗道へと押し出された。


「……く、そっ……!」


寒風が、汗で濡れた俊樹の首筋を刺すように冷やしていく。

舗道の上、舞い散る落ち葉の中で、俊樹は突き返された洋菓子の紙袋を抱え、荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。

手の甲には、警備員に掴まれた赤い鬱血痕が残っている。


だが――俊樹は諦めなかった。

諦められるはずがなかった。

ここで引き返せば、金曜日の午後三時に待っているのは、東都中央銀行による手形の不渡り処分と、二億八千万円の負債を抱えた自己破産という名の断頭台だけなのだ。


俊樹はタワービルの正面玄関が見渡せる、広場向かいの石造りの植え込みの縁に腰を下ろした。

紙袋を抱え込み、寒さに震えながら、ガラス張りのエントランスを睨みつける。


(待つんだ……。担当役員がランチに出てくるか、あるいは海外からのVIPが到着する瞬間を待ち伏せするんだ……。直接手渡しさえできれば、この提案書の中身を見せさえすれば、必ず話を聞いてくれるはずだ……!)


正午。

オフィス街の昼休みを迎え、タワービルの回転ドアから無数のビジネスマンが吐き出されてくる。

俊樹は高級そうなコートを着た外国人の男が現れるたびに、跳ね起きるように駆け寄り、紙袋を掲げて声をかけた。


「エクスキューズ・ミー! アイ・アム・プレジデント・カミシロ! アトリエ・アルカ! プリーズ、ルック・アット・ディス!」


だが、返ってくるのは冷淡な視線と、無言で手を振って拒絶する仕草だけだった。

ある者は不審者を見るように眉をひそめて小走りに去り、ある者は警備員を呼ぶ仕草を見せて俊樹を威嚇した。

午後二時、午後三時、午後四時――。

冬の短い陽光は瞬く間にビルの谷間へと沈み、大手町のビル街は急速に青黒い宵闇と冷気に包まれていく。


俊樹の足先は感覚を失い、鼻水が止まらなくなっていた。

手にしたマカロンの箱は、何度も抱きしめ直したせいでリボンが解け、角が潰れていた。

何時間も吹き曝しの舗道に立ち尽くし、通行人に頭を下げ続ける男の姿。

かつて南青山のサロンで、高級ワインを揺らしながら、雨の夜に妻を五拾万円の手切れ金とともに追い出した、あの傲岸不遜な男の面影は、どこにも残っていなかった。


「……何やってんだ、俺は……」


俊樹の唇から、情けない嗚咽が零れ落ちた。

膝がガクガクと震え、寒さと惨めさで視界が涙で滲む。

だが、その涙の奥にあるのは、自らの犯した罪に対する反省などではなかった。


(なんで俺が……こんな目に遭わなきゃならないんだ……! 俺は選ばれた人間のはずだ……! 詩織のやつめ……! あいつが俺の傍で黙って服を縫い続けていれば、こんな屈辱を味わうことなんざなかったんだ……! 全部、全部あいつのせいだ……!!)


自らの無能と浅ましさを棚に上げ、どこまでも他人に責任を擦り付け続ける歪んだ自尊心。

その腐りきった執念だけが、凍えそうな俊樹の身体を辛うじて支えていた。


午後五時半。

街灯が灯り始めた頃、エントランスの自動ドアから、先ほどの若い男性フロアマネージャーがコートを羽織って出てきた。

俊樹は反射的に駆け寄った。


「担当者さん! 頼みます!」


俊樹は男の前に回り込み、歩道の上で、深々と腰を折った。

頭が地面につきそうなほどの、直角の土下座に近いお辞儀。

擦り切れたスーツの裾が、冷たいアスファルトの塵を掃く。


「アトリエ・アルカの神代です! 一日中お待ちしておりました! どうか……どうかこの提案書だけでも、選考委員会の机の上に届けていただけないでしょうか! 我が社のすべてが、この書類に詰まっているんです! これを見ていただければ、絶対に後悔はさせません! 一生のお願いです、どうか……どうかご高覧いただけるよう、お取り計らいをお願いいたします!!」


唾を飛ばし、震える両手で提案書を頭上に掲げる俊樹。

通行人たちが足を止め、驚いたようにその異様な光景を見つめる。


だが――男性マネージャーの足は、一瞬たりとも止まらなかった。


男は掲げられた提案書に視線を向けることすらなく、まるで道端の石ころを避けるように、歩幅を一切崩さずに俊樹の横を通り過ぎた。

冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。


「……神代様。申し上げたはずです。すべてはオンラインのシステム上で厳正に審査されます。個人的な接触は、審査における不正行為とみなされる恐れがございますよ」


男の背中から投げかけられた事務的な一言。

それが、俊樹の最後の足掻きに対する、完全なるトドメだった。


男の足音は、夕暮れの大手町の雑踏の中へと消えていった。


「あ……、あ……」


頭を下げた姿勢のまま、俊樹は石のように固まっていた。

両手に掲げたバインダーが、鉛のように重い。

冷たいアスファルトの上に、ポタポタと、俊樹の鼻水と涙が黒い染みを作っていく。


誰も見向きもしない。

誰も相手にしてくれない。

金も、知名度も、虚栄のメッキも剥ぎ取られた神代俊樹という男は、この冷徹な摩天楼の谷間において、一匹の羽虫ほどの価値すら持っていなかったのだ。


俊樹はゆっくりと頭を上げた。

見上げるL&Vタワーの最上層――四十八階のガラス窓には、夕暮れの茜色の光が反射し、神々の住まう天上界のように眩く輝いていた。


「……オンライン、か」


俊樹の口から、掠れた、血を吐くような声が漏れた。

男は潰れた洋菓子の紙袋を引きずり、痛む膝を軋ませながら、力なく立ち上がった。


「審査しろよ……。だったら、そのシステムとやらで、嫌というほど審査してくれ……。詩織の引いた完璧な図面と、莉乃の華やかなポートフォリオだ……。書類審査になれば、絶対にうちがトップに立つに決まっている……!」


俊樹は泥に汚れた革靴を引きずりながら、地下鉄の駅へと向かって歩き出した。

その背中は小さく丸まり、かつて妻を土足で踏みにじった男の威勢は、微塵も残っていなかった。


だが、俊樹は夢にも思っていなかった。


その見上げる最上階――四十八階の特別執務室の窓辺から。

自らが雨の夜に五拾万円で追い出した元妻・神代詩織が、レオン・城崎・ヴァランタンとともに、舗道の上で無様に頭を下げ続ける元夫の惨めな姿を、氷のように冷徹な眼差しで見下ろしていたということを。


そして、俊樹がこれから命を懸けてシステムへ送信するその提案書こそが、彼ら自身の手で首を絞めるための、完璧な処刑の証拠となるということを――。


冬の闇が、東京の街路を完全に支配しようとしていた。

破滅へのタイムリミットまで、あと三十六時間。

獲物は自ら、逃げ場のない檻の奥深くへと、着実に足を踏み入れていた。

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