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愛人のデザインで賞を取った元夫へ。独立して立ち上げた私のブランド、あなたの会社の下請け契約を切る側になりました  作者: タカケンサンバ


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第38話:浅ましき共謀

六本木六丁目の交差点を見下ろすラグジュアリーホテルの二階、重厚なガラス扉の奥に広がるカフェラウンジは、昼下がりであっても照明が落とされ、低音のモダンジャズが静かに空気を震わせていた。

南青山のオフィスを離れたのは、正午前のことだった。

ビルの前には、すでに週刊誌の張り込み車両や、返金を求める購入者の代理人を名乗る怪しげな男たちの姿がちらつき始めていた。もはやあのアトリエに長居することは、自殺行為に等しかった。


ラウンジの最奥、背の高い観葉植物とパーテーションで視線を遮られたボックス席。

神代俊樹は、深く被った黒いキャップの鍔(つば)を指先で引き下げながら、周囲の客の視線を用心深く警戒していた。

テーブルの上には、一杯二千五百円もするアールグレイのポットと、何重にも折り畳まれたノートパソコン。

そして、何十枚もの書類が挟み込まれた、黒いレザーのポートフォリオファイルが無造作に広げられていた。


「……おい、莉乃。声が大きい。少しトーンを落とせ」

俊樹が低く掠れた声で窘(たしな)める。

向かいの席に座る立花莉乃は、大きなサングラスを鼻根までずらし、薄暗い店内で苛立たしげにストローを弄んでいた。

サンローランのコートの下には、今朝がた六本木のセレクトショップで急遽購入したばかりの、派手なワインレッドのニットドレス。折れたヒールは買い直され、メイクも念入りに直されていたが、厚塗りされたファンデーションの下には、隠しきれない肌荒れと、逃亡者のような怯えの色が色濃く沈んでいた。


「仕方ないじゃない、俊樹さん! 事務所の社長、本当に私の損害賠償を裁判所に持ち込む気よ! 『契約書に違約金の条項がある以上、一括で耳を揃えて払ってもらう』って、取りつく島もないんだから! 実家の父親も『お前みたいな犯罪者まがいの娘は知らん』って電話を切るし……私、もう本当に後がないのよ!」


莉乃の唇が、怒りと恐怖で小さく震える。

彼女にとって、フォロワー数十万人を失い、業界から爪弾きにされることは、自らの存在理由そのものを抹消されるに等しかった。

展示会での欠陥の露見、九条志乃による容赦ない断罪、そしてネット上での盗作検証の嵐。

それらの事実を前にしてもなお、莉乃の脳内には「自分自身の未熟さ」や「技術への冒涜」に対する反省など、一欠片たりとも存在していなかった。

彼女の頭を占めているのは、ただ一つ――どうやってこの泥沼から這い上がり、再び自分を崇拝する大衆の前に「華やかな成功者」として返り咲くか、それだけだった。


「だから言っているだろう、莉乃。慌てるな」

俊樹は身を乗り出し、机の上のノートパソコンを莉乃の目の前へと滑らせた。

画面には、昨夜世界中を震撼させた、あの『L'OMBRE』の公式アナウンスメントが映し出されていた。


「もう一度、よく読め。……L'OMBREは昨夜のパリコレで、世界中のメガメゾンを完全にねじ伏せた。サックス・フィフス・アベニューやボン・マルシェといった世界のトップ百貨店から、一晩で五十億円を超える買い付けオファーが殺到している。……今、地球上で最も熱狂的に求められているブランドだ」


「それは分かってるわよ。Twitterでも世界トレンド一位になってたし……」

莉乃は不満そうに呟いたが、画面に並ぶ『五十四億円』『独占契約』という数字に、その濁っていた瞳が引き寄せられるように釘付けになった。


「そしてな、莉乃。その怪物が、今まさに直面している最大の弱点が何だと思う?」

「弱点……?」

「キャパシティ(生産能力)だ」


俊樹は口角を吊り上げ、自信ありげに指を一本立てた。

その顔つきは、かつて南青山でスポンサーを口八丁で丸め込んでいた、あの詐欺師めいた営業マンの顔へと急速に戻りつつあった。


「いいか。L'OMBREは突如として現れた覆面ブランドだ。自前の巨大工場など持っているはずがない。これまではゲリラ的に数百着を限定販売していればよかったが、パリコレで世界中から数万着のプレタポルテの発注が入った。……今、彼らの首脳陣は、世界中からの需要に応えるための生産ラインが足りず、血眼になって日本国内の工場を探し回っているんだ」


俊樹はノートパソコンをタップし、一次サプライヤーの募集要項の画面を拡大した。


「そこで出されたのが、この『国内一次サプライヤー』の緊急公募だ。年間契約規模は最大五億円。……自社で工場を抱えていなくてもいい。国内の優れた縫製工場やテキスタイル産地とのネットワークを持ち、生産管理と品質管理を一手に引き受けられる『元締め企業』を求めているんだよ」


「……元締め」

莉乃の喉が、わずかに動いた。


「そうだ」

俊樹は声を潜め、獲物を誘い込むような甘い毒を含んだ声で捲し立てた。


「いいか、莉乃。アルカの負債は二億八千万円だ。この五億円の一次サプライヤー契約さえ勝ち取れば、前払いの管理受託費だけで、銀行の借金も三ツ星の違約金も、すべて一括でチャラにできる。……それどころか、手元に二億円以上の純利益が残るんだ」


「二億……!」

「ああ。だが、本当の旨味は金だけじゃない。……ここからが、俺たちの真の逆転ロードマップだ」


俊樹の瞳の奥に、浅ましい野心と、肥大化した妄想の炎がメラメラと燃え上がっていた。


「L'OMBREのチーフデザイナーは、パリ在住の正体不明の人物だ。メゾン・マルジェラのように、メディアの前には一切姿を現さない。対外的なビジネスや契約は、すべて出資元であるL&Vホールディングスのアジア本社が代行している。……つまり、現場の生産ラインのトップである一次サプライヤーに入り込めば、俺たちはL&Vの最高幹部たちと直接パイプを持つことができるんだ」


俊樹はテーブルの上に両手を組み、莉乃の顔を覗き込んだ。


「まずは、完璧な生産管理を見せてL&Vの信頼を勝ち取る。そして、奴らが俺たちなしでは服を作れない状態に追い込んだ後で……お前のデザインを、L'OMBREの『日本限定セカンドライン』として提案するんだ」


「私のデザインを……L'OMBREのセカンドラインに!?」

莉乃の息が止まった。


「そうだ。『世界最高峰の構造美と、アジアの若きミューズ・立花莉乃の瑞々しい感性の融合』――どうだ? 外資の連中が最も好む、完璧なストーリーだろうが。L'OMBREという世界一の看板に、お前の顔と知名度を乗せるんだ。そうなれば、今回の展示会の失敗やパクリ疑惑なんて、『古い体質の国内業界による足の引っ張り合いだった』といくらでも美談に塗り替えられる。お前は、世界最高峰のメゾンに認められた正真正銘のトップクリエイターとして、パリの表舞台へ返り咲くことができるんだよ!」


「……っ!」


莉乃の全身に、鳥肌が立った。

脳内で、都合のいい妄想が一気に爆発的な広がりを見せていく。

パリのルーヴルのランウェイ。

無数のカメラフラッシュ。

フロントロウで自分を見上げて拍手を送る、かつて自分を見捨てた事務所の社長や、ケチをつけてきた九条志乃の青ざめた顔。

そして、インスタグラムに寄せられる、何百万もの崇拝のコメント。


「それ……すっごくいい……!」

莉乃の唇が、歓喜に歪んだ。

瞳に宿っていた怯えは完全に消え去り、底知れぬ強欲と自己愛の光が、爛々と輝き始めていた。


「最高じゃない、俊樹さん! L'OMBREのデザイナーって、正体不明の謎の人物なんでしょ? 顔を出せないってことは、どうせ人と話すのも苦手な、陰気なオタクか年寄りに決まってるわ! そんな奴が表舞台に出てこられるはずがないんだから、私が矢面に立ってあげればいいのよ!」


莉乃はサングラスを外し、テーブルの上に身を乗り出した。


「プレゼンには、私も絶対に行くわ! L&Vの最高幹部って、欧州のセレブや投資家たちでしょ? 相手が男なら、私の美貌とセンスでイチコロよ! 胸元の開いた最高のドレスを着て、潤んだ瞳で見つめてあげれば、イチコロで気に入られるに決まってるわ! 『専属モデル兼クリエイティブアドバイザー』のポジションもぎ取って、L'OMBREの顔になってやるんだから!」


「ハハハ! その意気だ、莉乃!」

俊樹は満足そうに喉を鳴らして笑った。


反省など、何一つしていなかった。

人体の骨格を無視したデザイン画を描き、現場の職人を怒鳴り散らし、中国の格安工場で他人のデザインを盗用した結果、多くの購入者を傷つけ、大炎上を引き起こしたという客観的な罪の意識など、二人の頭には微塵も存在しなかった。

彼らにとって、他人の技術やブランドの看板は、自らの虚栄心を満たし、金と名声を手に入れるための「踏み台」に過ぎないのだ。

かつて詩織の才能に寄生していたように、今度は世界一のブランドである『L'OMBRE』に寄生して返り咲く――その浅ましい企みに、二人は完全に酔いしれていた。


「よし、善は急げだ。公募の締め切りは明後日、木曜日の正午だ」

俊樹はテーブルの上の黒いレザーファイルをバサリと開いた。


そこに入っていたのは、かつてアトリエ・アルカの地下金庫に眠っていた、神代詩織が遺した過去五年間の遺産――膨大な設計仕様書、型紙のマスターデータ、そして全国の工場との連絡網だった。


「一次選考は、提出書類による実績審査だ。……ここが一番の肝になる」

俊樹は書類の一枚を指で弾いた。


「L&Vが求めているのは、『過去五年間にわたる百貨店クラスへのハイエンドな納品実績』と、『高度な技術を持つ国内工場の直接的なネットワーク』だ。……これを見ろ」


俊樹が示したのは、詩織が三日三晩徹夜して書き上げた、三ツ星百貨店向けのカシミヤ混ウールコートの極めて精密な立体仕様書だった。

人体の可動域に合わせたアームホールの曲率、毛芯の手縫い据え付け指示、生地の地の目をミリ単位で指定した幾何学的なカッティング指示。


「この仕様書の右下を見てみろ」

俊樹がペンを取り出した。

そこには、詩織の几帳面な筆跡で『設計責任者:神代詩織』とサインされていた。

俊樹は迷うことなく、修正テープをその文字の上に走らせた。

真っ白に塗り潰された枠の上から、太いサインペンで、力強く自らの名前を書き殴る。


――『設計統括責任者:神代俊樹』。


「……ふっ、これでいい」

俊樹は冷酷に口角を歪めた。


「詩織の引いた線も、過去のアルカの受賞歴も、すべて会社の代表取締役である俺の『プロデュース実績』だ。法的には何の問題もない。この仕様書のスキャンデータを、アルカの独自開発技術としてエントリーシートに添付する」


「工場のネットワークはどうするの?」

莉乃が覗き込む。

バインダーには、愛知県一宮市の奥田織物、墨田区の佐伯縫製、秋田や新潟の熟練工場の名前と連絡先が、詩織の手で克明に記されていた。


「簡単さ」

俊樹はせせら嗤った。

「『これらの工場は、我が社が長年専属的に囲い込んできた直属の生産ラインである』と記載する。……向こうは外資のファンドだ。日本の零細な機屋や町工場の一つひとつに、事前に電話をかけて確認するような暇なんざありゃしない。書類の体裁さえ完璧に整っていれば、審査員は『これだけの生産網を束ねているのか』と感嘆するに決まっている」


「さすが俊樹さん! 完璧じゃない!」

莉乃が歓声を上げ、手を叩いた。


「さらにだ、莉乃。お前の出番だ」

俊樹は莉乃の前に、真っ白な企画書用紙を置いた。


「エントリーシートの巻末に、『特別添付資料:次世代クリエイティブ・マネジメント構想』という別紙をつける。お前のこれまでのモデルとしての実績、SNSのフォロワー数、そして『立花莉乃が提案する、新時代のプレタポルテのヴィジョン』をまとめるんだ。手持ちの最高のポートフォリオ写真を貼り付けて、お前がいかに時代の空気を動かせるアイコンであるかをアピールしろ」


「任せてよ!」

莉乃はバッグから最新型のiPadを取り出し、目を輝かせながら自らの写真フォルダを開いた。

「奇跡の一枚って言われてる宣材写真、いっぱいあるから! 海外のセレブ風にレタッチしたやつを並べて、『若年層を熱狂させるデザインセンス』ってタイトルで最高の企画書を作ってあげるわ! 外資の役員なんて、こういう華やかなポートフォリオを見せれば一発でイチコロよ!」


「ああ、そうだ。頼んだぞ、莉乃」


二人は、熱に浮かされたように作業に没頭し始めた。

カフェラウンジの静寂の中、キーボードを叩く乾いた音と、書類をコピー機に通す紙の擦れる音が、低音のジャズに混ざり合っていく。


詩織が血を吐くような思いで引いた幾何学の設計図を、自らの実績として塗り替える俊樹。

他人の服を着て撮った自撮り写真を並べ、自らを「天才デザイナー」と偽装する莉乃。

二人が組み上げているエントリーシートは、何から何まで、嘘と剽窃と粉飾だけで固められた、中身のない巨大な張りぼてだった。


だが、彼らは本気で信じていた。

この書類さえ提出すれば、五億円の契約が手に入り、借金は消え去り、再び自分たちは東京の、いや世界のモードの頂点へ返り咲くことができるのだと。


「……できたぞ」


午後五時を回った頃。

俊樹はプリントアウトされた百ページを超えるエントリーシートの束を、両手でトントンと揃えた。

表紙には、金文字の箔押し加工が施されたアルカ社のロゴとともに、仰々しいタイトルが印刷されていた。


――『L'OMBRE 日本国内一次サプライヤー応募提案書:株式会社アトリエ・アルカ』。

――『最高技術統括:神代俊樹 / クリエイティブディレクター:立花莉乃』。


「完璧だ……」

俊樹の唇から、恍惚とした吐息が漏れた。

「これ以上の提案書を作れる会社が、日本中を探して他にいるはずがない。……勝ったぞ、莉乃。俺たちの勝ちだ」


「キャハッ! やったぁ!」

莉乃が俊樹の首に抱きつき、甘えた声を上げた。

「ねえ俊樹さん、今夜は前祝いしましょ! 六本木の高いお肉、食べに行こうよ!」

「ああ、行こう。この程度の投資、五億円が入ってくれば端金みたいなものだからな」


二人は豪奢なグラスに残っていた冷えた紅茶を一気に飲み干すと、満足げな笑みを浮かべて立ち上がった。

自らの足元に、すでに底なしの処刑台が組み上がっていることなど、微塵も疑わずに。


――だが。

彼らは知る由もなかった。


その提出先である、L&Vジャパン本社ビルの最上階・特別執務室において。

神代詩織が、レオン・城崎・ヴァランタンと倉田拓海弁護士とともに、まさにこの「アトリエ・アルカ」からの申請書類が届く瞬間を、冷徹な氷のような眼差しで待ち構えているということを。


自ら処刑台へと歩みを進める二匹の寄生虫。

彼らが誇らしげに提出するその偽りの書類こそが、自らの息の根を止めるための、最も決定的な「証拠物件」になるということを――。


冬の夜の帳が、六本木の街を冷たく包み込んでいく。

破滅への時計の針は、狂いなく、確実に、その最後の瞬間へ向けて進んでいた。

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