第37話:蜘蛛の糸
南青山の夕闇は、容赦のない冷気とともに、暖房の途絶えたアトリエ・アルカの社長室を急速に呑み込んでいった。
割れた窓ガラスの隙間から吹き込む乾いた北風が、床に散乱した三ツ星百貨店の違約金請求書や東都中央銀行からの督促状を、カサカサと耳障りな音を立てて波立たせる。
かつてイタリア製のデザイナーズ家具が整然と並び、選ばれた顧客に最高級のシャンパンを振る舞っていたその空間は、今や足の踏み場もないゴミの溜まり場と化していた。
廊下に山積みされた返品段ボールから漂う、鼻を突く石油系の揮発臭。
床に飛び散った陶器の破片、踏み躙られた名刺、そして何日も放置されたテイクアウトのコーヒーカップに浮かぶ灰色のカビ。
すべてが、この会社がすでに社会的な死体であることを無言で告げていた。
「……ハァ……ハァ……」
神代俊樹は、右頬から滴る血を手の甲で拭うことも忘れ、机の上のノートパソコンへと吸い寄せられるように額を擦り寄せていた。
液晶パネルの右半分には、先ほど自ら投げつけた衝撃で無数の亀裂が走り、緑と紫の走査線がチカチカと不気味に明滅している。
だが、割れ残った画面の左半分。
そこに映し出されていた、国際アパレル経済ニュースのヘッドラインの一行を捉えた瞬間、俊樹の濁りきっていた瞳孔が、まるで暗闇で獲物を見出した獣のようにカッと見開かれた。
――『【速報】L&Vホールディングス、パリコレを制圧した覆面ブランド「L'OMBRE」の日本国内一次サプライヤー(生産管理統括会社)を緊急公募』。
――『契約規模:年間発注額・最大五億円。日本国内の高度な縫製ライン・生地産地を束ねるサプライチェーン元締め企業を対象とする』。
「……五……億……」
俊樹の喉仏が、ゴクリと重たい音を立てて上下した。
乾ききった唇が、わななくように震える。
五億円。
現在のアルカ社が抱える負債総額は、二億八千万円。
東都中央銀行の佐山融資課長が突きつけてきた最後通牒――今週末の金曜日午後三時までに「明確な返済原資を証明する大口契約」を提示できなければ、手形は不渡りとなり、銀行取引停止処分、すなわち即時の倒産と自己破産が決定する。
手元の現金は千円あまり。
頼みの綱だった悪徳プロデューサーの間宮は会社の残金を掠め取って香港へ高飛びし、社員は全員逃亡。
もはや東京湾に飛び込むか、首を吊るかしかない絶体絶命の奈落の底に、突如として天の裂け目から一本の眩い光の糸が垂れ下がってきたのだ。
「L'OMBRE……あの覆面ブランドか……!」
俊樹は震える指先でマウスを握り、割れた画面をスクロールした。
走査線の向こう側に並ぶ、フランス語と日本語の対訳テキストを、飢えた野犬のように貪り食う。
『……昨夜、カルーゼル・デュ・ルーヴルで行われたパリ・ファッションウィーク公式ランウェイにおいて、満場のスタンディングオベーションを巻き起こした覆面ブランド「L'OMBRE」。
世界五大百貨店をはじめとする有力バイヤーからの受注総額が初日だけで五十億円を突破したことを受け、ブランドの独占展開権を持つ欧州最大手L&Vホールディングスは、高品質なプレタポルテラインの本格量産体制を構築するため、日本国内における生産体制の全面的な再編を発表した。
日本全国に点在する熟練縫製工場、および伝統的なテキスタイル産地をネットワーク化し、厳しい品質管理基準(QC)と納期管理を一手に引き受ける「国内一次サプライヤー(Tier 1)」を、一般公募コンペ形式にて選定する。
選定された企業には、年間最大五億円の製造委託管理費の前払い保証、ならびに設備投資に対する無利息融資枠が付与される予定――』
「一次サプライヤー……! 自社でミシンを踏む工場じゃない……! 下請け工場を束ねて、工程と品質を管理する『元締め』の募集だ……!!」
俊樹の頭の中で、停止しかけていた思考の歯車が、火花を散らしながら猛烈な勢いで回転を始めた。
血生臭い唾液が、口いっぱいに広がる。
アパレル産業における重層下請け構造。
頂点に君臨する巨大ブランド(発注元)と、末端で汗を流す地方の縫製工場や機屋。
その間に立ち、ブランド側から巨額の予算を一括で請け負い、末端の工場に仕様書を流して工賃を差配し、抜くべき中間マージンを懐に収める企業――それが「一次サプライヤー(元請け商社・管理会社)」だ。
自社工場など持つ必要はない。
自らミシンを踏む必要も、布を裁断する必要もない。
必要なのは、発注元を納得させる「過去の百貨店クラスへの納品実績」と、末端の工場を動かすための「生産管理体制のプレゼンテーション」だけなのだ。
「応募資格……! 応募資格はどうなっている!?」
俊樹は目を血走らせ、募集要項の細則を凝視した。
――応募要件:
一、過去五年間にわたり、国内主要百貨店、または大手アパレル向けにハイエンドな既製服の納品管理実績を有すること。
二、国内の熟練縫製工場、ならびにテキスタイル産地との直接的な取引口座、または強固なネットワークを保有していること。
三、短期間での量産立ち上げに対応可能な技術マネジメント体制を備えていること。
「……ある。あるぞ……!」
俊樹の口から、掠れた、だが狂気的な歓喜を孕んだ笑い声が漏れ出した。
ヒヒッ、と喉の奥が鳴る。
「全部、うちの条件に当てはまっているじゃないか……! アトリエ・アルカは、三ツ星百貨店の一等地に服を卸してきた実績がある! 過去五年間の納品伝票も、売上台帳も、すべて手元に残っている! 地方の工場とのネットワーク? 尾州の機屋、山形のニット工場、秋田の縫製ライン、墨田区の町工場……連絡先リストなら、会社のデータベースに山ほど眠っているんだ!!」
俊樹は立ち上がり、狂ったようにデスクの引き出しを漁り始めた。
書類の束を乱暴に引っ張り出し、床へぶちまける。
奥底から現れたのは、黒い背表紙の分厚いファイリングバインダーだった。
そこには、かつて神代詩織が数年間かけて全国の繊維産地を自らの足で巡り、職人たちと膝を突き合わせて築き上げてきた、詳細な「協力工場データベース」が収められていた。
工場の設備状況、ミシンの機種、得意とする素材の番手、職人の得意な縫製ピッチ、さらには各工場の経営者の人柄や連絡先の内線番号に至るまで、詩織の几帳面で美しい文字でびっしりと書き込まれた、血と汗の結晶。
「これだ……! これさえあれば、外資のファンドなんて一発で丸め込める!」
俊樹はバインダーを胸にかき抱き、血の滲む唇を歪めた。
「L&Vの担当者なんて、極東の島国の現場の細かい内情なんざ知るはずがないんだ! うちが長年、この全国の優秀な職人たちを束ねてきた『技術の総本山』だと書類を仕立て上げればいい! 詩織の残していった過去の仕様書を引っ張り出し、アルカの自社実績として提出すれば、どの応募企業よりも圧倒的なクオリティに見えるはずだ!」
かつて――俊樹は、この工場たちをどう扱ってきたか。
アワードを受賞してチヤホヤされていた頃、俊樹は地方の工場からの電話など一度も直接取ろうとはしなかった。
『下請けの職人風情が生意気な口を利くな』
『工賃を三割引け。嫌なら次のシーズンから仕事を全部引き揚げるぞ』
『お前らの代わりなど、中国やベトナムにいくらでもいるんだ』
理不尽な買い叩きを繰り返し、納期の直前に一方的なキャンセルを突きつけ、資金繰りに窮した下請けの悲鳴を嘲笑いながら、浮いた金を西麻布の豪遊と莉乃への高級ブランドのプレゼントに注ぎ込んできたのだ。
そして何より、現場で職人たちと向き合い、彼らの尊厳を守るためにミリ単位の仕様書を引き続けていた妻・詩織を、「言われた通りに作業するだけの能無しの寄生虫」と罵倒して放り出した。
その自分が。
すべてを失い、借金に首を絞め上げられた今、生き残るために縋り付こうとしているのが、まさに自らが虫けらのように踏みにじってきた「下請けの元締め」という泥の席なのだ。
だが、今の俊樹の心には、羞恥も、反省も、自らの過去の行いに対する呵責など微塵も存在しなかった。
あるのは、剥き出しの生存本能と、肥大化した虚栄心だけだった。
「下請けだろうが何だろうが関係ねえ! 年間に五億円だぞ……! この一次サプライヤーの内定通知書さえ手に入れば、金曜日の銀行の破産宣告なんて一撃で吹き飛ばせる! 東都中央銀行の佐山だって、『あのL&Vの直轄元請けになった』と知れば、土下座して追加融資を頼み込んでくるに決まっている! 三ツ星の違約金も、手形の決済も、全部前払いの受託金で一括返済だ! アルカは……俺の会社は、奇跡の大復活を遂げるんだ!!」
「……俊樹さん……?」
背後から、掠れた、怯えるような女の声が響いた。
俊樹がハッと振り返る。
社長室のドアの陰に、立花莉乃が立っていた。
数十分前、俊樹と掴み合いの修羅場を演じ、階段を転げるように逃げ去ったはずの女。
だが、片方のヒールが折れ、泥にまみれたサンローランのコートを着た彼女には、行く場所など東京のどこにもなかったのだ。
事務所からは見捨てられ、実家からは勘当され、ネット上では本名と顔写真が晒され、街に出れば指を差される。
結局、彼女はこの薄暗い南青山の廃墟へ、泥水を啜るようにして戻ってくるしかなかった。
「……何よ、それ。五億円って……何の話……?」
莉乃は充血した目を瞬かせ、ボサボサの髪の隙間から、俊樹が抱えるバインダーを凝視した。
その顔は涙とマスカラで汚れ、唇は寒さで紫色に変色していたが、俊樹の口から漏れた「五億」「復活」という単語に、消えかけていた浅ましい欲望の火が、ピクリと反応していた。
俊樹は冷え切った目で莉乃を一瞥した。
先ほどまで「死ね」「ペテン師」と罵り合っていた相手だ。
本来なら叩き出すところだった。
だが、俊樹の脳内で、悪魔的な打算が瞬時に組み上げられた。
(……待てよ)
俊樹は口角を歪め、ゆっくりと莉乃へと歩み寄った。
(L&Vのような外資のメガコングロマリットは、数字や実績だけでなく、『ブランドの華やかさ』や『インフルエンサーを活用した若年層への発信力』にも目を光らせているはずだ。……莉乃のモデルとしての知名度は、炎上しているとはいえ、まだSNSのフォロワー数という数字としては残っている。プレゼン資料に『若きアイコンによるクリエイティブ・マネジメント』という看板を添えれば、書類のハクづけになる……!)
「莉乃」
俊樹は先ほどまでの怒声をすっかり消し去り、かつて愛人を口説き落とした時の、甘く湿った声を取り繕ってみせた。
「戻ってきたのか。……悪かったな、さっきは俺も取り乱していた」
「え……?」
莉乃が戸惑いながら後ずさりする。
俊樹は割れたノートパソコンの画面を指差し、莉乃の手首を優しく引き寄せた。
「見ろ、莉乃。……神は、俺たちを見捨てていなかったんだ」
「これ……L'OMBRE……?」
莉乃が画面の文字を追う。
「あの、ネットで話題になってた覆面ブランド……? パリコレで大成功したって、さっきTwitterのトレンドにも上がってたけど……」
「そうだ」
俊樹は莉乃の肩を抱き寄せ、耳元で囁きかけるように言った。
「その世界一のブランドが、日本国内の生産を一手に引き受ける『一次サプライヤー』を公募している。契約金は年間最大五億円だ。……いいか、莉乃。アルカには、過去に百貨店に納品してきた膨大な実績がある。詩織が残していった全国の工場のネットワークもある。この公募に勝てる会社は、日本中を探してもアルカ以外にあり得ないんだ」
「で、でも……下請けでしょ?」
莉乃の唇が、わずかに尖った。
「私、デザイナーよ? 下請けの工場のおばさんみたいな仕事なんて、やりたくないんだけど……」
「馬鹿を言え!」
俊樹は莉乃の肩を強く揺すった。
「ただの下請けじゃない! 世界最高峰のハイブランドの生産を牛耳る『元締め』だ! それに、L'OMBREのチーフデザイナーは、パリ在住の正体不明の人物だ。表舞台には一切顔を出さない。……もし、俺たちがサプライチェーンに入り込んでL&Vの幹部に取り入れば、どうなると思う?」
俊樹の濁った瞳の奥に、怪しい光がギラギラと蠢く。
「五億円でアルカの借金をすべてチャラにした後、次のステップがある。お前のデザインを『L'OMBREの日本限定セカンドライン』として提案するんだ。『世界最高峰の技術と、日本の若きミューズの感性の融合』というストーリーを仕立て上げれば、外資の連中は飛びつくぞ。そうなれば、お前の炎上なんて一瞬で吹き飛ぶ。お前は、世界最高峰のメゾンに認められた正真正銘のトップデザイナーとして、華々しくパリのランウェイへ返り咲くことができるんだ!」
「パリの……ランウェイ……!?」
莉乃の瞳に、パッと眩い光が灯った。
自己愛の塊。
反省を知らぬ無知。
他人の威光に寄生してでも、再びちやほやされたいという底知れぬ虚栄心。
俊樹の吐き出した毒入りの甘言は、絶望に震えていた莉乃の急所を、寸分の狂いもなく貫いていた。
「ほ、本当……? 私、またセレブに戻れるの……? インスタで、みんなを見返せるの……!?」
「ああ、戻れるとも! 俺とお前が手を組めば、不可能なことなんて何一つないんだ!」
俊樹は莉乃を力強く抱きしめた。
互いの身体から漂う、冷たい汗と泥の臭い。
数十分前に互いの喉元を締め上げ、血を流し合っていた二人が、今や再び「甘い蜜」の匂いに群がるハイエナのように、醜悪な笑みを交わし合っていた。
かつて「下請けなどいつでも替えがきく」と職人を切り捨てた男と。
型紙の一枚も引けず、他人のデザインを切り貼りして「才能」と嘯いていた女。
二匹の寄生虫は、自らの罪を何一つ悔いることなく、今度は世界一のブランドの威光を貪り食うために、再び手を取り合ったのだ。
「よし……! 締め切りは今週の木曜日だ!」
俊樹はデスクの上に散らばる詩織のバインダーをバサリと広げた。
「一次エントリーシートの作成に入るぞ! 詩織の過去五年間の仕様書から、最も見栄えのいい図面をスキャンしてアルカの自社実績として偽装する! 工場の連絡先リストも、全部うちの『直属専属ライン』として書き換えるんだ! 莉乃、お前もポートフォリオを用意しろ! 手持ちの奇跡の一枚の写真をかき集めて、『クリエイティブ・ディレクター立花莉乃』の企画書をでっち上げるんだ!!」
「うん! 任せて、俊樹さん!」
莉乃は折れたヒールを脱ぎ捨て、目を輝かせながらパソコンの前へと駆け寄った。
外では、冬の冷たい雨が南青山の街を暗闇で包み込んでいた。
破滅の淵に立つ泥舟の船室で、二人は自らが掴んだ蜘蛛の糸を信じ込み、熱狂の中でキーボードを叩き始めた。
だが。
彼らは知る由もなかった。
その蜘蛛の糸を、計算され尽くした針と糸で編み上げ、暗闇の底へと静かに垂らした張本人が。
他ならぬ、自分たちが雨の夜に五拾万円の手切れ金とともに追い出した元妻・神代詩織本人であり。
この公募こそが、彼らの浅ましさと無能さを白日の下に晒し、一撃で処刑台の露と消すための、絶対不可避の「死の罠」であったということを。
運命の審判の日へ向けて、時計の針は、狂いなく刻まれ続けていた。




