第36話:背信の爪痕
南青山の骨董通りに面したアトリエ・アルカ本社ビルの四階。かつては選ばれたクライアントと富裕層のパトロンだけが足を踏み入れることを許された「特別役員室」は、今や電気も止められ、冬の雨の湿気と冷気が床底から這い上がる廃墟の様相を呈していた。
深紅のペルシャ絨毯の上には、踏み躙られた名刺、破り捨てられた企画書、そして割れたバカラのロックグラスの破片が散乱している。
暖房の切れた室内は、吐く息が白く濁るほど冷え切っていた。だが、部屋の中央に置かれた漆黒のマホガニーデスクの前に蹲る神代俊樹の背中は、脂汗でワイシャツがじっとりと張り付き、小刻みに、痙攣するように震え続けていた。
「……二億……八千……四百万円……」
俊樹のひび割れた唇から、掠れた呟きが零れ落ちる。
卓上に広げられた、手書きの資金繰り表。
赤インクで殴り書きされた数字の羅列が、俊樹の網膜を毒針のように突き刺していた。
東都中央銀行からの既存融資の一括返済請求――一億八千二百四十万円。
三ツ星百貨店から突きつけられた、イベント中止に伴う損害賠償および違約金――四千五百万円。
尾州の毛織問屋連合、東北のボタン・ファスナー副資材問屋への買掛金の焦げ付き――二千六百万円。
そして、間宮健二が中国工場への仲介手数料および返金交渉費用と称して当座口座から根こそぎ持ち逃げした現金――八百五十万円。
さらには、ビルの管理会社から届いた、賃料三ヶ月分滞納による即時立ち退き通知と原状回復費用の請求。
すべてを合算した負債総額は、二億八千万円を軽々と突破していた。
それに対して、手元に残された資産は――ゼロ。
会社の当座預金は千円あまりの残高しかなく、ネット通販の売上回収口座はチャージバックの嵐で凍結され、自社ブランドの在庫として残ったのは、地下倉庫と廊下を埋め尽くす数百箱の「悪臭を放つポリエステルのゴミ屑」だけだった。
「間宮……! あの野郎……最初から、最初からこれが目的だったんだ……!」
俊樹は血の滲む拳で、マホガニーの天板を力任せに殴りつけた。
ゴツン、と鈍い痛みが走るが、脳髄を締め付ける絶望の冷たさに比べれば、そんな痛みは何の気休めにもならなかった。
間宮健二の手口は、巧妙を極めた「計画的倒産詐欺」そのものだった。
長谷川が辞めて服が作れなくなったアルカの弱みに付け込み、甘い言葉で中国・広州の粗悪なコピーラインを紹介した。展示会をでっち上げてテレビ局を抱き込み、バズを起こしてネット予約で金を集めさせ、問題が表面化して炎上した瞬間、混乱に乗じて会社の最後の残余資金を香港の隠し口座へ送金させ、自らは煙のように消え去ったのだ。
残されたのは、すべての法的責任と、巨額の債務を一身に背負わされた俊樹一人。
――ガチャリ。
静まり返った役員室の扉が、音もなく開いた。
俊樹がビクッと肩を跳ね上げ、血走った目で入口を睨みつける。
借金取りか。それとも、裁判所の執行官か。
だが、薄暗い廊下から入ってきたのは、ボロボロのサンローランのコートを羽織った立花莉乃だった。
数時間前、オフィスで俊樹と取っ組み合いの殴り合いを演じ、ヒールを折って逃げ出したはずの女。
だが、彼女にはもう、逃げる場所などどこにも残されていなかったのだ。
「……莉乃」
俊樹が掠れた声を出す。
莉乃は何も答えなかった。
濡れ鼠のように乱れた髪、涙とマスカラで真っ黒に汚れた頬。
事務所からも契約を解除され、六千五百万円の違約金を請求され、実家にもマスコミと怒れるファンが押し寄せている彼女にとって、帰る家など東京のどこにも存在しなかった。
莉乃は泥のついた折れたヒールを脱ぎ捨て、裸足のままペルシャ絨毯の上をとぼとぼと歩き、部屋の隅の革張りソファへと力なく崩れ落ちた。
「……事務所の顧問弁護士、電話に出てくれなくなったわ」
莉乃の唇から、感情の抜け落ちた乾いた声が漏れた。
「実家の父親からLINEが来てた。『お前のような恥晒しの娘は勘当だ。二度と敷居を跨ぐな』って。……ネットを開けば、私の本名も、高校の卒アルの写真も、昔の彼氏の暴露話も、全部掲示板に晒されてる。『パクリ詐欺師』『殺人未遂デザイナー』『早く刑務所へ行け』って……毎秒何十件も書き込まれてるのよ」
莉乃は両手で顔を覆い、震える肩を丸めた。
かつて西麻布の個室で、高級シャンパンを掲げながら「私はインスピレーションの塊♡」と自惚れていた傲慢な読者モデルの面影は、そこには微塵もなかった。
他人の才能を奪い、中身のない虚飾で身を飾った代償。
そのツケが、二十三歳の若い女の人生を、一瞬にして圧殺しようとしていた。
「俊樹さん……」
莉乃は指の隙間から、濁った瞳で俊樹を見つめた。
「私たち、どうなるの……? お金、どこかから借りられないの……? ねえ、社長なんでしょ……? 何とかしてよ……」
「借りられるわけねえだろうがッ!!」
俊樹は吐き捨てるように怒鳴った。
「どこに二億八千万を無担保で貸してくれる銀行がいる!? 社員も、パタンナーも、経理のババアも……全員逃げ出したんだよ! 朝来たら、机の上に退職届の山と、労働基準監督署への通報通知が置かれてたんだ! この会社には、もう俺とお前しか残ってねえんだよ!!」
俊樹の怒声が、冷たい壁に反響して虚しく消えていく。
そう、社員は全員逃亡したのだ。
給与の未払いを恐れたアシスタントたち、長谷川の後を追うように辞めていった若い職人たち。彼らは俊樹に労いの言葉一つかけることなく、会社の備品やパソコンのデータを持ち出し、蜘蛛の子を散らすように去っていった。
かつて俊樹が「お前らは俺のプロデュース力で飯を食わせてもらっている駒だ」と見下していた人間たちが、船が沈みかけた瞬間、一秒の躊躇もなく船長を見捨てて逃げ去ったのだ。
その時――デスクの上に置かれていた、唯一生き残っていた固定電話の親機が、けたたましい音を立てて鳴り響いた。
――ジリリリリリリリリッ!
――ジリリリリリリリリッ!
暴力的な電子音が、薄暗い部屋の空気を切り裂く。
俊樹の身体が、電流を流されたように硬直した。
液晶ディスプレイに表示されていたのは、見慣れた番号――東都中央銀行・青山支店の代表番号だった。
「……ひ、ヒッ……」
俊樹の喉から、情けない引きつった悲鳴が漏れた。
出たくない。
受話器を取りたくない。
だが、出なければ、今すぐにでも警察や債権者がこのドアを蹴破って押し寄せてくるのではないかという強迫観念が、俊樹の震える右手を無理やり受話器へと伸ばさせた。
「……は、はい……アトリエ・アルカ、神代ですが……」
受話器を耳に押し当てた俊樹の耳に飛び込んできたのは、氷水のように冷淡な男の声だった。
東都中央銀行の融資課長・佐山。
『神代社長ですね。……お待ちしておりましたが、昨日お約束いただいた追加担保の目録、ならびに新たな返済計画書が、期日の正午を過ぎても当行に届いておりません』
「さ、佐山課長……! 申し訳ありません! 今、ちょうど海外のファンドと最終的な資金調達の詰めを行っているところでして……! あと数日、せめて来週の月曜まで待っていただければ、確実に数千万円の手当が――」
『神代社長』
佐山の低く、冷徹な一言が、俊樹の稚拙な嘘を真っ二つに両断した。
『見え透いた虚言はおやめください。……先ほど、貴社が関係していたプロデューサーの間宮健二氏について、当行の調査部を通じて照会をかけました。間宮氏の会社はペーパーカンパニーであり、すでに香港へ資金を逃がして連絡を絶っているとのことですね。……違いますか?』
「う……っ、あ……」
俊樹の喉が詰まり、血の気が完全に引いた。
筒抜けだった。メガバンクの信用調査部門の網からは、何一つ隠し通すことなどできなかったのだ。
『これ以上の猶予は、当行の監査上、一切認められません』
佐山は淡々と、まるで死刑台の階段の段数を読み上げるように告げた。
『本日午後五時を以て、貴社に対する「期限の利益」は完全に喪失いたしました。つきましては、既存融資残高一億八千二百四十万円の全額について、即時弁済を要求いたします。……そして、これが当行からの最後通牒です』
受話器の向こうで、書類をめくる冷たい紙の音がした。
『今週末の金曜日、午後三時までに、全額の弁済、または明確な返済原資を証明する「新たな大口収益契約」の提示がなされない場合……当行は、貴社が振り出している約束手形を、週明け月曜日の手形交換所において【不渡り】として処理いたします』
「ふ、不渡り……!?」
俊樹の膝がガクガクと音を立てて震え出した。
「待ってください佐山課長! 手形が不渡りになったら……銀行取引停止処分になる! 会社が……会社が倒産してしまう!!」
『倒産するのは貴社の経営責任です』
佐山の声音には、一片の慈悲も、同情の欠片も存在しなかった。
『二度の不渡りにより、貴社は法的な破産手続きへと移行します。同時に、当行は債権保全のため、神代俊樹氏個人の連帯保証債務に基づき、ご自宅のタワーマンション、個人名義の預金口座、ならびに社内の全什器に対する仮差し押さえ命令を東京地方裁判所へ申し立てます。……以上です』
ツーツーツー……。
無機質な切断音が、俊樹の鼓膜の奥で反響した。
手から力が抜け、受話器がドサリと絨毯の上に落ちる。
「……今週末……」
俊樹の口から、魂の抜けたような掠れ声が漏れた。
「今週末までに……二億八千万を払うか……新しい数億円の契約を持ってこなければ……手形が不渡りになって……破産……」
「破産……?」
ソファの上で、莉乃が目を見開いて息を呑んだ。
「嘘でしょ……? 破産したら、どうなるの……? 俊樹さん、あのタワマンも追い出されるの……? 私の荷物は……!? 私の服やバッグはどうなるのよ!?」
「うるせええええええええッ!!」
俊樹は頭を抱え、床を転がりながら絶叫した。
髪を掻き毟り、自らの額をマホガニーのデスクの脚に何度も何度も打ち付ける。
ゴツン! ゴツン! と鈍い音が響き、額の皮膚が裂けて血が滲む。
「服だのバッグだの知るかァァッ!! 破産なんだよ! 自己破産だ! 信用情報機関のブラックリストに載って、口座もカードも全部取り上げられて、着の身着のままで路上に放り出されるんだよ!!」
俊樹の脳裏を、狂気じみた走馬灯が駆け巡っていた。
業界の笑い者。
落魄れた元社長。
かつて南青山のサロンで、自分を見上げてペコペコと頭を下げていた同業者たちが、手のひらを返して自分を指差し、嘲笑う姿。
『見たかよ、アトリエ・アルカの神代。調子に乗って愛人をデザイナーに担ぎ上げて、最後は中国のパクリ服で一発退場だってよ』
『ざまあみろ、口先だけのペテン野郎が。あいつ、自己破産して日雇いの警備員やってるらしいぜ』
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だァァッ!!」
俊樹は爪を噛み、床の書類を口に含んで噛み破った。インクの苦い味が舌に広がる。
「俺が……この神代俊樹が、破産だと!? そんな惨めな姿、誰に見せられるって言うんだ!! 俺は選ばれた男なんだ! 俺は時代の頂点に立つはずの人間なんだよォォッ!!」
肥大化したプライド。
実態のない虚栄心。
服の構造も知らず、パターンの美しさも理解できず、ただ他人の才能を掠め取って自分の手柄にしてきた男の、あまりにも哀れで、あまりにも見苦しい断末魔の叫び。
その時――。
俊樹の脳裏の暗闇の中に、ふっと、一つの記憶が蘇った。
あの雨の夜。
タワーマンションの豪奢なリビング。
高級ワインをグラスに注ぎながら、床に立つ小柄な妻を見下ろしていた、自分自身の姿。
『莉乃はインスピレーションの塊だ。お前みたいな地味で陰気な女が横にいたら、アトリエ・アルカの格が落ちるんだよ』
『お前はただ言われた通りに線を引いてミシンを踏んでいただけの作業員だろ?』
『勘違いするな。俺の営業力と莉乃の華があるから服が売れたんだ。誰のおかげで今まで飯が食えたと思ってる? 能無しの寄生虫が』
テーブルに投げつけた、五拾万円の茶封筒。
泥水に濡れたボストンバッグを抱え、傘も差さずに、一度も振り返ることなく夜の闇へと消えていった、あの女の背中。
神代詩織。
(……あいつだ)
俊樹の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
(あいつがいた頃は……こんなことにはならなかった。どんな無茶な納期でも、どんな理屈の通らないデザイン画でも、あいつが一晩で完璧な仕様書に仕立て直していた。……生地の縮率も、人体の可動域も、裏地のキセも……全部、全部あいつが一人で計算していたんだ……)
認めざるを得なかった。
アルカ社がこれまで国内外の賞を取り、百貨店の一等地に服を並べ、億単位の金を動かすことができていたのは、自分の「プロデュース力」などではなかった。
自分が「能無しの寄生虫」と罵り、足蹴にして追い出した、あの元妻の圧倒的な技術と、狂気的なまでの職人魂があったからこそだったのだ。
自分こそが――その才能に張り付いて甘い汁を吸っていた、正真正銘の寄生虫だったという残酷な真実。
だが、その真実を自覚した瞬間、俊樹の胸の奥底で湧き上がったのは、後悔や贖罪の念ではなかった。
「……詩織……お前が……お前が俺の元を去ったからだ……!」
歪みきった逆恨み。
自らの無能と傲慢を棚に上げ、すべての元凶を、追い出した元妻のせいに仕立て上げようとする浅ましい責任転嫁。
「お前が俺の傍で、黙って型紙を引き続けていれば……俺がこんな目に遭うことはなかったんだ! お前が俺を裏切ったんだ! お前のせいで、俺の城が壊れたんだよォッ!!」
俊樹は床を叩き、血生臭い唾を吐き捨てた。
誰もいない役員室に、男の濁った呪詛が木霊する。
すべてを失い、借金に追われ、金曜日の破産宣告という断頭台の刃が首筋に触れているというのに、男のプライドだけは、腐敗した死骸のように肥大化し続けていた。
その時だった。
デスクの上の、画面が蜘蛛の巣状に割れたノートパソコンが、微かな電子音を立てた。
ファンが激しく回転し、スリープモードから復帰した画面の右下に、一本の更新通知が表示される。
先ほど俊樹が見つめていた、国際経済ニュースサイトのフラッシュ速報。
割れた液晶の隙間から、鮮烈な青いバナーが光を放っていた。
――『【L&Vホールディングス、世界を席巻する覆面ブランド「L'OMBRE」の国内一次サプライヤー公募エントリーを本日より受付開始】』。
――『契約規模:年間最大五億円。自社工場を持たずとも、国内の縫製ライン・生地産地を束ねる生産管理実績を持つ企業を対象とする』。
「……五億……」
俊樹の濁りきった瞳が、吸い寄せられるようにその数字を凝視した。
止まっていた心臓が、再びドクドクと狂ったように脈打ち始める。
金曜日までに必要なのは、明確な返済原資を証明する「新たな大口収益契約」。
もし、このL&Vという世界最大のラグジュアリーコングロマリットが公募している「一次サプライヤー」に滑り込むことができれば。
年間五億円の受託金。
その内定通知書が一枚あれば、東都中央銀行は手形の不渡りを撤回せざるを得ない。
自社ブランドが売れなくとも、あの謎の覆面ブランド『L'OMBRE』の下請けの元締めとして入り込めば、会社は息を吹き返すことができるのだ。
「……これだ」
俊樹は立ち上がった。
膝の震えを力づくで止め、血の滲んだ手で、机の上の割れたパソコンを引き寄せる。
「これしかない……! 俺には、詩織が残していった過去五年間の仕様書がある! 地方の工場との連絡網がある! それを俺の実績として書類を整えれば、外資のファンドなんざ簡単に騙せる……!」
男は自ら、底なしの奈落へと通じる蜘蛛の糸へと、血走った目を剥いて手を伸ばした。
その糸の先で、冷徹なハサミを構えて待っているのが、かつて自分が雨の夜に捨て去った元妻・神代詩織であるということも知らずに。
背信の爪痕が深く刻まれた南青山の廃墟で、破滅へのカウントダウンが、狂気のリズムを刻み始めていた。




