第35話:泥舟の悲鳴
パリの朝が『L'OMBRE』という名の奇跡に跪き、世界中のモード専門紙が一面を飾る賛辞で埋め尽くされていたその時刻。
海を隔てた東京・南青山の空は、重く垂れ込めた鉛色の雨雲に閉ざされ、骨董通りの街路樹を冷たい冬の雨が打ち据えていた。
かつて「新世代の気鋭メゾン」として時代の光を浴びていたアトリエ・アルカの本社ビルは、今や都市の片隅で腐臭を放つ、巨大な泥舟へと成り果てていた。
三階のオフィスへと続く階段を一段上がるごとに、空気が濃密な粘り気を帯びて鼻腔にまとわりついてくる。
それは、安価な化学繊維が湿気を含んで放つ強烈な石油臭と、接着芯から揮発するホルムアルデヒドのツンとした刺激臭。そして、連日の修羅場と恐怖の中で誰もゴミを捨てることすらできず放置された、腐敗したコンビニ弁当の饐えた臭気だった。
「……う、ぐ……クソッ……! 出ろ……! 頼むから電話に出ろ、間宮ッ!!」
社長室のデスクの前で、神代俊樹は血走った目を剥き出しにし、スマートフォンの画面を割れんばかりの力でタップし続けていた。
着用しているワイシャツの襟元は垢と皮脂で黒ずみ、袖口は擦り切れ、無精髭に覆われた頬は骸骨のように削げ落ちている。
爪を噛み砕く癖のせいで、両手の親指と人差し指の先端は赤黒く腫れ上がり、ところどころ皮膚が裂けて血が滲んでいた。だが、その痛みにすら気づかないほど、俊樹の精神は極限の恐怖によって焼き尽くされていた。
――プルルル……プルルル……。
『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため――』
「ふざけるなッ!! ふざけるな、ふざけるなァァッ!!」
俊樹は獣のような咆哮を上げ、スマートフォンをデスクの上のパソコン用モニター目掛けて投げつけた。
バキィッ! と鈍い破壊音が響き、液晶画面に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
机の上に山積みにされていた書類の束が、衝撃でバサバサと床へ散乱した。
床を埋め尽くしていたのは、連日、郵便受けから溢れ返り、配達員によって廊下に投げ込まれていた内容証明郵便の山だった。
白地に赤や黒の警告色で印字された、容赦なき公的文書の数々。
『損害賠償請求書(三ツ星百貨店法務部)――金四千五百万円』
『催告書・売掛金即時弁済の件(株式会社東都テキスタイル連合)』
『下請代金支払遅延に関する抗議および通知書(秋田縫製加工)』
『店舗賃貸借契約解除予告通知書(南青山プロパティマネジメント)』
『東都中央銀行・期限の利益喪失に伴う全額返済請求書――金一億八千二百四十万円』
負債総額は、すでに二億八千万円を超えていた。
展示会が九条志乃の一喝によって崩壊し、ネットで販売した先行予約分のポリエステル製ドレスが「動けば裂ける」「折れ針が刺さって血が出た」と炎上したあの日から、アルカ社を取り巻く世界は、一秒の猶予もなく地獄へと反転していた。
オフィスの廊下は、もはや歩く隙間すら存在しなかった。
全国の怒り狂った購入者たちから「受取拒否」「返品」として送り返されてきた、五百個を超える巨大な段ボール箱。
それらが天井に届くほどの壁となって通路を塞ぎ、箱の隙間からは、引き裂かれた黒いシフォンドレスや、ミミズ腫れのように縫い目が波打った安物ジャケットが無残に垂れ下がっていた。
それは、神代俊樹が「俺のプロデュース力」と誇っていた虚栄の墓標そのものだった。
「間宮……! お前が、広州の工場なら大丈夫だと言ったんだ……! お前が『中国工場に文句を言って、手付金と違約金を全額返金させるから任せてくれ』と言ったんじゃないか……!」
俊樹は床に這いつくばり、散乱する書類の中から一枚の通帳のコピーを拾い上げた。
三日前。
間宮健二は、焦燥に駆られる俊樹の肩を叩き、「現地のラインを押さえている香港のペーパーカンパニーを通じて、工場側に損害賠償を請求して資金を取り戻す。そのための手付金と弁護士費用が必要だ」と甘言を弄したのだ。
藁をも掴む思いだった俊樹は、会社の当座口座に残されていた最後の余剰資金――八百五十万円の振込権限を、間宮に丸ごと預けてしまった。
だが、その翌朝。
間宮のオフィスはもぬけの殻になっていた。
パソコンも、金庫の中身も、書類の一枚すら残されていなかった。
口座の残高照会画面を開いた時、そこに表示されていた数字は――『¥1,420』。
間宮は最初から返金交渉などする気はなく、沈みゆく泥舟から最後の現金を綺麗さっぱり掠め取り、香港の隠し口座へ送金して雲隠れしたのだ。
「騙された……! あいつ、最初から俺の会社を食い物にする気だったんだ……! 全部、全部あいつのせいだァァッ!!」
俊樹が頭を抱えて床を転がり、血の滲んだ爪で自らの頭皮を掻き毟った、まさにその時だった。
――ドォォォンッ!!
オフィスの重い防火扉が、けたたましい音を立てて蹴破られた。
「神代俊樹ィィィッ!! いるんでしょッ!! 隠れてないで出てきなさいよッ!!」
静まり返ったオフィスを劈く、甲高いヒステリックな絶叫。
飛び込んできたのは、立花莉乃だった。
だが、その姿には、かつて数十万人のフォロワーを従え、「新時代のミューズ」としてテレビ画面の向こうで微笑んでいた美貌の面影など、微塵も残っていなかった。
ボサボサに乱れた金髪混じりのロングヘアは、何日も洗っていないのか油で束になり、額に張り付いている。
目元のアイラインとマスカラは涙と脂水でドロドロに溶け崩れ、頬に沿って黒い墨汁のような筋を描いていた。
身に纏っているのは、かつて俊樹にねだって買わせたサンローランの毛皮のコート。だが、泥水に濡れて裾は汚れ、足元の高級ピンヒールは左足のヒールが根元から折れ曲がり、歩くたびに無様なカックンという異音を響かせていた。
「莉乃……!?」
俊樹が床から顔を上げた瞬間、莉乃は手にした巨大なブランド紙袋を、俊樹の顔面目掛けて力任せに投げつけた。
バサァッ!
中から飛び出したのは、何十通にも及ぶ白い封筒と、裁判所からの通知書の束だった。
紙吹雪のように舞い散った書面が、俊樹の頭や肩の上に容赦なく降り注ぐ。
「これを見なさいよッ!!」
莉乃は折れたヒールを引きずりながら大股で詰め寄り、俊樹のデスクの上の書類を薙ぎ払った。
ガラガラとペン立てや灰皿が床に落ちて割れる。
「今朝、所属事務所の顧問弁護士から内容証明が届いたのよ!! 『立花莉乃が自己の利益のために独断で粗悪なパクリ商品をプロデュースし、ブランド名義を貸したことにより、事務所の社会的信用を著しく毀損した』って! 今抱えてるファッション誌の専属契約解除に伴う違約金、CMの損害賠償、合わせて六千五百万円を一週間以内に全額支払えって書いてあるのよ!!」
莉乃の唇が、怒りと恐怖で紫色に震えていた。
彼女は俊樹の胸ぐらに飛びかかり、尖った付け爪を俊樹の首筋に食い込ませて、狂ったように前後に揺さぶった。
「どうしてくれるのよ俊樹さんッ!! 六千五百万よ!? 私の貯金なんて、あんたに買わせたブランドバッグをメルカリで全部売ったって一千万にもなりゃしないわよ!! 親の家にも、実家の父親の会社にも、朝から晩まで『詐欺師の娘を出せ』って嫌がらせの電話が鳴り止まないのよ!! 私の人生をどうしてくれるのよ!! あんたが社長なら、今すぐこの金を払いなさいよッ!!」
「離せッ……! 離せ、このアマッ!!」
俊樹は激昂し、莉乃の手首を力任せに捻り上げた。
骨が軋む音とともに、莉乃が「痛っ!」と短い悲鳴を上げて手を離す。
俊樹は莉乃の肩を乱暴に突き飛ばした。
「払えるわけねえだろうがッ!! 口座の金は間宮に全部持ち逃げされたんだよ! 手元の現金は千円ちょっとしかねえんだ! 俺だって東都中央銀行から二億の一括返済を迫られて、今月末で破産確定なんだよ!!」
「破産……!? あんた、破産する気なの!?」
莉乃の目が、信じられないものを見るように見開かれた。
彼女は床に散らばる返品段ボールを指差しながら、キーキーと耳障りな声で叫び立てた。
「ふざけないでよ! あんたが社長でしょ!? あんたが『俺のプロデュースに乗れば、莉乃は世界のセレブになれる』って言ったんじゃない!! 『あんな地味で陰気な詩織なんて捨てて、お前のような華のある女と組むのが俺の成功の道だ』って、ベッドの中で何度も甘い言葉を吐いてたくせに!! 金がなくなったら自己破産!? 無責任にもほどがあるわよ! 何とかしなさいよ、この甲斐性なしの能無し野郎!!」
「甲斐性なしだと……!? 能無し野郎だと……!?」
俊樹の脳の血管が、ブチリと音を立てて千切れた。
目の前が真っ赤に染まる。
俊樹は足元に転がっていた木製の椅子を力任せに蹴り飛ばした。
ガシャァン! と窓ガラスに当たって甲高い音が響く。
「うるせえッ!! 誰のせいでこんな粗悪品を売る羽目になったと思ってんだッ!! 元はと言えば、お前の描いてきた無能な落書きのせいだろうがッ!!」
俊樹の怒声が、静まり返ったオフィスをビリビリと震わせた。
俊樹は床から、莉乃が描いたあの杜撰な企画書――ピンタレストの画像を糊で貼っただけの紙屑を拾い上げ、莉乃の顔面に叩きつけた。
「これを見ろ! 寸法もない、縫い代もない、人体の可動域も計算できない、ただの少女漫画の落書きだ! お前が『インスピレーションが降りてきた♡』だの『服はキャンバス♡』だの、電波を使って調子こいた嘘八百を並べ立てたから、長谷川は辞表を叩きつけて出て行ったんだ! 国内の工場にも全部見放されて、展示会に間に合わせるために、間宮の中国ラインに頼るしかなかったんだろうが!!」
「私のせいにする気ッ!?」
莉乃の顔が屈辱と憎悪で真っ赤に膨れ上がった。
彼女は床に落ちていた石油臭いポリエステルのドレスを掴むと、俊樹の胸元へ投げつけた。
「あんたが私を利用したんじゃない!! 詩織がいた頃は、あいつが全部裏で型紙を引いて、仕様書を完璧に整えてたから服が作れてたんでしょ!? あんた自身には、服の構造も、生地の目も、何一つ見抜く才能なんて最初からなかったんじゃない!! あいつを追い出した瞬間、自分じゃ何一つ服が作れなくなって、慌てて中国の粗悪工場に丸投げしただけのくせに!! 一番無能なのは、詩織の才能に寄生して社長面してたあんたじゃないのよッ!!」
「黙れッ!! あの寄生虫の名前を出すなッ!!」
「図星だから叫んでるんでしょッ!!」
莉乃は一歩も引かず、唾を飛ばして俊樹を指差した。
「詩織を捨てて私を選んだのはあんたよ! 『莉乃の美貌があれば億が稼げる』って、私を矢面に立たせて、自分は後ろでふんぞり返って甘い汁を吸おうとしてただけのダニじゃない! 詩織の引いた線がなきゃ一円も稼げないペテン師のくせに! 全部あんたの責任よ! 私の違約金六千五百万、あんたの腎臓でも売って払いなさいよォォッ!!」
「このクソアマがァァァッ!!」
俊樹は理性を完全に失い、莉乃の髪を掴んで引き倒した。
莉乃が悲鳴を上げながら床に転がり、俊樹のワイシャツの胸元を引き裂く。
二人は床の上に散らばる返品の段ボールの山、埃、そして割れた陶器の破片の上を転がり回りながら、爪を立て、殴り合い、噛みつき合った。
ボタンが弾け飛ぶ。
俊樹の頬から再び鮮血が滴り落ち、莉乃の引き裂かれたサンローランのコートから羽毛が舞い散る。
かつて南青山の高級サロンで、冷えたシャンパンを掲げて「私たちは時代の頂点に立つ選ばれし者」と互いの虚栄心を舐め合っていた男女の姿は、そこには微塵もなかった。
泥水に塗れ、互いの肉を食い破り、責任を押し付け合う、哀れで醜悪な野良犬の共食い。
他人の才能を奪い、自分の手で布の一片すら触れることなく、見栄と虚飾だけで身を飾ってきた者たちの、これが真の結末だった。
土台のない砂上の楼閣は、最初の一撃で崩壊し、残された者たちは、その瓦礫の中で互いの喉元を締め上げ合っていた。
「死ね! 破産して路頭に迷って、ホームレスになって死んじゃえばいいのよ!!」
「消えろ! 二度と俺の前にその汚い面を見せるなッ!!」
俊樹が莉乃の腹を力任せに蹴り飛ばした。
莉乃は激しく咳き込みながら、床の返品段ボールの山へと突っ込んだ。
バリバリと音を立てて段ボールが崩れ、中から異臭を放つポリエステルドレスの山が、莉乃の身体を覆い隠すように雪崩れ落ちる。
莉乃は破れたストッキングから血を流しながら、這うようにして立ち上がった。
その瞳には、もはや俊樹に対する愛情のかけらもなく、ただ底知れぬ憎悪だけがギラギラと澱んでいた。
「……覚えてなさいよ」
莉乃は掠れた声で、呪詛のように吐き捨てた。
「事務所の弁護士に全部話してやるわ。私はあんたに脅されて、無理やり名前を使わされた被害者だって、警察にも週刊誌にも全部ぶちまけてやる! あんたを絶対に、刑務所に送ってやるから……!!」
莉乃は折れたヒールを片足で引きずり、ボロボロになったコートをかき抱きながら、狂ったように叫び声を上げてオフィスの扉から逃げ去っていった。
階段をドタドタと駆け下りる足音が、やがて階下のエントランスの重いガラス扉の閉まる音とともに消え去る。
オフィスに、再び死のような静寂が戻ってきた。
「……ハァ、ハァ……ハァ、ハァ……」
俊樹は破れたワイシャツを押さえ、床に膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
首筋からは血が流れ、口の中には鉄の味が広がっている。
誰もいない。
社員も、パタンナーも、プロデューサーの間宮も、愛人の莉乃も、全員が去った。
残されたのは、二億八千万円の負債と、あと二週間余りで訪れる破産の審判。
そして――オフィスを埋め尽くす、数百着の粗悪な服の死骸だけだった。
「俺が……この俺が、こんなところで終わるわけがない……」
俊樹は床に散らばる書類の中から、壊れかけたノートパソコンを震える手で引き寄せた。
液晶に走った亀裂の隙間。
そこに、先ほど表示されていた国際経済ニュースの画面が、奇跡的にまだ消えずに残っていた。
――『【世界最高峰の覆面ブランド「L'OMBRE」、世界展開に伴う日本国内生産サプライチェーンの全面再編を発表】』。
――『年間契約規模:最大五億円。国内一次サプライヤー(下請け管理統括会社)を緊急公募』。
「……これだ」
俊樹の濁りきった瞳に、再び狂気の光が宿った。
男は血まみれの指先で、画面に映る『L'OMBRE』の文字を強く撫でた。
「これしかない……! この下請けの元締め契約さえ取れれば、すべてが逆転する……! 年間五億円の金が入れば、二億八千万の借金なんて一発で完済できる! 銀行も手のひらを返して平伏す! 三ツ星の違約金も払える! 逃げ出した間宮も、莉乃の小娘も、全員俺の前に土下座させてやるんだ……!!」
かつて自分が「下請けなど虫けらだ」「替えの利く駒だ」と嘲笑っていた、その下請けの座。
自らのプライドも、誇りも、服飾の倫理もすべてドブに捨てて、男は今、その泥の蜘蛛の糸へと、血走った目で手を伸ばそうとしていた。
俊樹は狂ったように立ち上がり、引き出しの奥から、詩織がかつて残していった過去の仕様書ファイルと工場の連絡帳を引っ張り出した。
「俺の実績だ……! 詩織の引いた線も、アルカの過去の栄光も、全部俺のものだ! 外資のファンドなんざ、この書類で簡単に騙せる……!」
男は知らなかった。
その甘美な蜘蛛の糸の先で、冷徹なハサミを構えて待っているのが。
かつて自分が雨の夜に五拾万円の手切れ金とともに捨て去った、あの元妻・神代詩織本人であるということを。
泥舟は、自ら選んだ最後の航路――完全なる処刑台へと向けて、音を立てて加速し始めていた。




