第34話:世界が跪く日
ヴァンドーム広場の八角形の石畳を、薄い朝霧が銀色に包み込んでいた。
一八一八年に建てられた最高級パラスホテル『ル・ムーリス』の最上階。チュイルリー庭園とエッフェル塔をパノラマで見渡すペントハウス・エグゼクティブラウンジには、まだ昇りきらない冬の淡い陽光が斜めに差し込み、磨き上げられた寄木細工の床の上に長大な陰影を描き出していた。
室内には、暖炉の薪がパチパチと爆ぜる乾いた音と、クロワッサンと焙煎仕立てのエスプレッソの香ばしい匂いが漂っている。
だが、その優雅な静寂を破るように、マホガニーの長大なテーブルの上には、世界各国から刷り上がったばかりの朝刊、モード専門紙、そして速報を打ち出す数台のタブレット端末が無造作に積み上げられていた。
「……信じられない。何よ、これ……」
ラウンジのソファの端に座り、フランスの全国紙『ル・フィガロ』の紙面をめくっていた佐伯朋香が、息を呑んだまま震える指先でその見出しをなぞった。
普段ならば政治の重大ニュースや国際情勢が陣取る一面のトップ。そこに、巨大なゴシック体で躍っていたのは、昨夜のルーヴル地下のランウェイを捉えた一枚の写真と、鮮烈なフランス語の賛辞だった。
『――L'APPARITION D'UN GÉANT ANONYME(匿名の巨星の降臨)』
『失われた真のクチュール技術が、東洋の影の中から蘇った。カルーゼル・デュ・ルーヴルを支配した全三十六ルック――それは、現代のファッション界が消費の果てに置き去りにしてきた「人体の尊厳と幾何学」に対する、圧倒的な宣戦布告である』
「こっちも見てみなよ、佐伯」
隣の肘掛け椅子で、真鍮のスケールを指先で弄んでいた長谷川慎司が、アメリカのモード業界紙『WWD』の速報画面を差し出した。眼鏡の奥の充血した瞳が、抑えきれない熱気でギラギラと輝いている。
『――ニューヨーク、パリ、ミラノのメガメゾンに激震。突如としてパリ公式スケジュールに現れた覆面ブランド「L'OMBRE」が、満場のスタンディングオベーションを記録。記号化されたロゴに頼らず、尾州の超高密度ウールと神業の立体裁断のみで世界の頂点を制圧した。世界中のバイヤーが今、この「顔なき天才」のショールームを特定しようと狂乱している』
「フィガロもWWDも、ル・モンドもニューヨーク・タイムズも……全部よ」
朋香の瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ち、新聞の活字の上に小さな染みを作った。
「親父の工場で、夜な夜な油まみれになってミシンを踏んで……大手から『お前らの縫製なんざ替えがきく』って切り捨てられて……。あの悔しさが、全部、全部報われたのよ……! 私たちの縫った服が、世界のてっぺんに届いたのよ、詩織……!」
朋香が顔を覆って泣き崩れるその向こう側。
天井まで届く大きなアーチ窓の前に、神代詩織は一人、静かに佇んでいた。
纏っているのは、昨夜の狂乱のランウェイを終えた後に袖を通した、自作の漆黒のテーラードジャケットとスラックス。
窓ガラス越しに見下ろすパリの街並みは、朝の通勤ラッシュを迎え、セーヌ川沿いを走る車の群れが小さく光を反射している。
その横顔には、世界を制圧した歓喜も、驕りも、一欠片の慢心すら浮かんでいなかった。
まるで、過酷な冬の氷河を渡り終えた旅人のように、ただ深く、冷たく澄み切った静寂が彼女の全身を包み込んでいた。
「……泣くのはまだ早いわ、朋香」
詩織は振り返ることなく、穏やかに、だが背筋を凛と伸ばしたまま言った。
「世界が跪いたのは、私たちの過去の苦労に対してではないわ。奥田さんの織った布の張力と、あなたのミシンの正確さ、そして長谷川さんの引いた線の美しさに跪いただけ。……服作りの戦いは、勝った瞬間から次の過酷な日常が始まるのよ」
「相変わらず、勝利の余韻に浸るのが下手な女性だね」
ラウンジの奥のバーカウンターから、銀のトレイに載せられた二つのフルートグラスを携えて歩み寄ってきたのは、レオン・城崎・ヴァランタンだった。
完璧にタイを結び直したミッドナイトブルーのスリーピースに身を包んだレオンは、淡い黄金色の泡を立ち上らせる最高峰のシャンパン――ドン・ペリニヨン・レゼルヴ・ド・ラベイを、恭しく詩織の前へと差し出した。
「おめでとう、マダム・影。……今朝のパリは、君の名前……いや、君が名乗らない『影(L'OMBRE)』という言葉だけで呼吸しているよ」
「ありがとうございます、レオン」
詩織はグラスを受け取ったが、口をつけることはせず、ただ立ち上る微細な気泡を見つめた。
「でも、あなたが持ってきたのは、この美酒だけではないはずでしょう?」
「フッ……さすがに鋭いな」
レオンは琥珀色の瞳を細め、手元のタブレットをテーブルの中央へと置いた。
画面には、昨夜のショー終了直後から、L&Vホールディングスのアジア・欧州統括本部に雪崩れ込んできた、世界各国の主要リテーラーからのオファーリストがリアルタイムで更新されていた。
「ショーが終わってからわずか六時間。……サックス・フィフス・アベニュー、バーグドルフ・グッドマン、ボン・マルシェ、ハロッズ、レーン・クロフォード。世界五大百貨店をはじめとする全四十二のプレステージ・アカウントから、独占買い付け(バイイング)の正式オファーが届いた」
レオンの指先が、画面をスクロールする。
そこに並んでいたのは、目も眩むような数字の羅列だった。
「コート型、ジャケット型、トラウザーズ型、ドレス型……ファーストデリバリーとしての要求数量、計一万二千着。初期買い付け総額――日本円にして、五十四億八千万円」
「ご……五十四億……!?」
朋香が椅子から転げ落ちそうになり、目を剥いた。
「い、一晩で五十四億円の注文!? ちょっと待って、うちの工場の年商、数千万円よ!? 桁が二つも三つも違うじゃない!!」
「それだけではない」
レオンは静かに告げた。
「L&Vホールディングス取締役会は今朝の緊急会議において、『L'OMBRE』との間で、全世界におけるプレタポルテラインの独占ディストリビューション契約の締結を全会一致で可決した。当グループは初期生産ラインの立ち上げ資金として、三十億円のエクイティ・ファイナンスを即時実行する。……君の創り出した『影』は、今この瞬間を以て、数世紀の歴史を持つ欧州のメガメゾンと肩を並べる、世界のトップランカーへと駆け上がったんだ」
五十四億円の受注。
三十億円の投資。
名もなき日本の町工場から始まった覆面ブランドが、一夜にして世界のラグジュアリー産業の巨星となった。
普通の人間であれば、歓喜に狂い、シャンパンを浴びるように飲み干して勝利を誇るところだった。
だが――。
「……」
詩織は手元のフルートグラスを、マホガニーのテーブルの上へと静かに置いた。
コツ、と澄んだ音が響く。
「……詩織さん?」
長谷川が怪訝そうに眉をひそめた。
詩織はゆっくりと顔を上げ、レオンの目を真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥には、氷海のような冷徹さと、張り詰めた弓の弦のような緊張感が宿っていた。
「レオン。……ここからが、本当の地獄です」
「地獄、だと?」
レオンが片眉をわずかに持ち上げた。
「ええ」
詩織の声は低く、だがラウンジの隅々まで染み渡るような絶対の重みを帯びていた。
「一万二千着。……口で言うのは簡単です。ですが、私たちが昨夜ルーヴルで見せた服は、安価なファストファッションでも、粗悪な海外工場で縫い飛ばされたペラペラの既製服でもありません。奥田さんの織る空気を含んだ極上ウールと、長谷川さんのミリ単位の幾何学パターン、そして佐伯縫製のような神業のミシン目が揃って初めて成立する『本物の服』です」
詩織は自らの節くれだった指先を見つめた。
「もし、この五十四億円という数字に目を眩ませ、生産能力の伴わない粗悪な工場にラインを広げればどうなるか。……縫い目が引きつれ、地の目が狂い、一度袖を通しただけで破れるようなゴミが世界中にばら撒かれる。そうなれば、『L'OMBRE』の神話は一瞬で地に堕ち、私たちはあの神代俊樹と同じ、ただのペテン師へと転落するわ」
神代俊樹。
その名を口にした瞬間、ラウンジの空気がピシリと凍りついた。
南青山の展示会で、海外のデザインを盗用し、中国の格安工場で粗製濫造したポリエステルのドレスを並べ、九条志乃に一撃で断罪された元夫の姿。
自らの身の丈に合わない虚栄心と、現場の職人を軽視した傲慢さによって自滅していった男の無残な末路。
「急拡大する需要に応え、かつクオリティを一ミリたりとも落とさないためには、日本国内に信頼できる最高品質の縫製ラインを束ねるサプライチェーン……強固な『下請け管理網』を早急に構築しなければなりません。……職人を買い叩かず、正当な対価を支払い、私たちの厳しい仕様書を一分の狂いもなく形にできる、国内の生産ピラミッドの元締めとなる組織が必要です」
「その通りだ」
レオンは深く頷き、満足そうに目を細めた。
「数字に溺れず、常に服の骨格を見失わない。……やはり君は、真のクチュリエだ」
レオンはパチンと指を鳴らした。
ラウンジの重厚なオーク材のドアが開き、一人の男が音もなく入室してきた。
寸分の乱れもなく仕立てられたチャコールグレーのスーツ。銀フレームの眼鏡の奥に、剃刀のような怜悧な眼光を宿した男――L&V専属の企業法務・知財専門弁護士、倉田拓海だった。
手には、黒革の薄型アタッシェケースが握られていた。
「お待たせいたしました、詩織さん。東京との回線暗号化、ならびに国内各省庁への情報収集を終え、たった今シャルル・ド・ゴール空港から到着いたしました」
「ご苦労様、倉田さん」
詩織が会釈すると、倉田はアタッシェケースを開け、テーブルの上に一組の分厚い公募企画書の束を取り出した。
表紙には、日本語と英語でこう記されていた。
――『L'OMBRE グローバル展開に伴う、日本国内一次サプライヤー(下請け管理統括会社)緊急公募要項』。
「詩織さんのご指示通り、罠の設計はミリ単位で完了しております」
倉田は眼鏡の位置を中指で直しながら、冷徹な笑みを浮かべた。
「現在、南青山の株式会社アトリエ・アルカは、完全に破滅の淵に立たされています。メインバンクである東都中央銀行からの融資打ち切り、三ツ星百貨店からの損害賠償請求四千五百万円、そして間宮健二氏による会社資金八百五十万円の持ち逃げ。……アルカ社の手元資金は底をつき、今月末の手形期日まで残り三週間を切りました。このままでは確実に二回目の不渡りを出し、銀行取引停止処分――即時倒産です」
「……ええ。あの男の性格なら、今頃、壁に頭を打ち付けて狂乱しているはずよ」
詩織の唇から、冷たい吐息が漏れる。
「はい。そして神代俊樹氏という男は、自らの非を認めることも、地道に頭を下げて再起を図ることもできない人間です」
倉田の指先が、公募要項の募集条件の欄をトントンと叩いた。
「ですから、この公募要項の条件設定には、意図的に『あの会社』が喉から手が出るほど飛びつきたくなるような、甘美な毒の枠組みを完璧に施しました」
倉田が読み上げる条件を、長谷川と朋香が息を呑んで聞き入る。
「一、契約規模:年間最大五億円規模の生産受託費用の前払い保証。
二、業務内容:自社工場を持たずとも、国内の優秀な協力縫製工場・テキスタイル産地とのネットワークを保有し、それらを統括・管理できる企業であること。
三、過去五年間にわたり、国内主要百貨店または大手アパレル向けにハイエンドな婦人服の生産管理実績を有すること」
「……完璧ね」
朋香が思わず声を漏らした。
「自社工場を持たないアルカ社でも応募できるようにしてある……! しかも、過去五年間の実績なんて、詩織がアルカ社で血を吐きながら作ってきた百貨店向けの納品実績そのものじゃない!」
「その通りです」
倉田の瞳に、獲物を追い詰めた処刑人の光が宿る。
「アルカ社は現在、自社ブランドが完全に崩壊し、新しい服を作る能力も信用も失っています。しかし、過去に詩織さんが築き上げた地方工場との連絡網と、詩織さんが作成した仕様書のログだけは、書類上、今も会社のデータベースに残っている。……俊樹氏の浅ましい脳味噌であれば、こう考えるはずです。『自社ブランドが売れなくても、L'OMBREの下請けの元締め(一次サプライヤー)に入り込めば、年間五億円の金が手に入る。過去の詩織の実績を自分の手腕として粉飾してプレゼンすれば、外資の投資ファンドなど簡単に騙せる』とね」
「……ええ」
詩織は静かに目を伏せ、そして再び開いた。
その瞳の奥には、氷のような冷笑が浮かんでいた。
「かつて、あの男は言いました。『下請けなどいつでも替えがきく駒だ』『現場の職人風情が生意気な口を利くな』と。……中小の工場を買い叩き、手形を踏み倒し、自分は何一つ服の構造を知らないくせに、甘い汁だけを吸い続けてきた。その男が、生き残るために、今度は自らプライドを捨てて『下請けの元締め』の座へ縋り付いてくるのよ」
自らの手で掴み取ったと思った最後の蜘蛛の糸。
破滅の淵から這い上がるための、唯一の希望。
だが、その糸を垂らしているのが、他ならぬ自分たちであるとは、俊樹は夢にも思わないだろう。
「公募のプレスリリースは、明日の午前十時、L&Vホールディングスの名義で日本国内の全経済メディアへ一斉配信されます」
倉田が書類をフォルダーへと収めた。
「選考は書類審査による一次選考、そしてL&Vジャパン本社最上階での最終プレゼンテーション審査。……俊樹氏が申請書を提出してくる確率は、九十九・九パーセントです」
「十分よ」
詩織は立ち上がり、テーブルの上のシャンパングラスへと手を伸ばした。
細い指先が、冷えたクリスタルを包み込む。
彼女はグラスを持ち上げ、窓の外の青空へ――遠く海を越えた、東京の空へと向けた。
「レオン。倉田さん。長谷川さん、朋香」
詩織の凛とした声が、静まり返ったラウンジに響き渡った。
「パリでの戦いは終わりました。……日本へ帰りましょう。私たちの誇りを奪い、泥水に捨てたあの男たちに……自らの浅ましさで組み上げた処刑台の上で、本物の絶望を教えてあげるために」
カラン、と澄んだ音が響いた。
レオンが、長谷川が、朋香が、そして倉田が、それぞれのグラスを掲げ、詩織のグラスへと静かに打ち合わせた。
世界が跪いた日の朝。
栄光の光の真下で、偽りの城を完全に解体するための、見えない影の包囲網が、音もなく完成した瞬間だった。




