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愛人のデザインで賞を取った元夫へ。独立して立ち上げた私のブランド、あなたの会社の下請け契約を切る側になりました  作者: タカケンサンバ


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第4話:錆びないハサミ

夜明け前の墨田区は、底冷えのする静寂に包まれていた。

吹き荒れていた暴風雨はいつの間にか通り過ぎ、トタン屋根を打ち鳴らす激しい音は止んでいたが、代わりに湿った冷気がコンクリートの隙間から這い上がり、工場の空気を容赦なく冷やしていた。


二階の六畳間に敷かれた湿っぽい煎餅布団から身体を起こした詩織は、借りた作業用のスウェットの袖をまくり、軋む階段を一段ずつ下りて一階の作業場へと向かった。

全身の関節が鉛のように重い。昨夜の雨中行軍と精神的な疲労のせいで、微熱があるかのように頭の芯がぼんやりと痛んだ。

だが、作業場の引き戸を開けた瞬間、冷たい空気が肺腑を貫き、詩織の意識を鋭く覚醒させた。


薄暗い作業場の奥、型紙を引くための巨大な合板の裁断台の前に、佐伯朋香が座り込んでいた。

点灯された裸電球の真下、木製の事務机の上には、昨夜見た請求書や督促状の山が広げられている。

手形期日、銀行からの融資残高証明書、取引先からの契約解除通知、そして父親が入院している下町の総合病院からの治療費見積書――。

朋香は両肘を机につき、両手で顔を覆ったまま、微動だにしていなかった。

指の隙間から漏れ聞こえてくるのは、規則正しい呼吸音ではなく、絶望を押し殺すような、小さく震える嗚咽だった。


「……朋香」


詩織が静かに声をかけると、朋香はびくりと肩を跳ね上がらせ、慌てて袖口で目元を拭った。

振り返った友人の顔は、昨夜よりもさらに土気色を深めていた。目元は赤く腫れ上がり、唇の端は乾燥でひび割れている。


「あ……詩織。起こしちゃった? ごめんね、物音立てないようにしてたんだけど」

「ううん。眠れなかっただけよ」

「そっか……」


朋香は力なく視線を落とし、机の上に散らばる書類を、震える指先でかき集めた。

何の意味もない書類の整理。ただ、手を動かしていなければ、今すぐにでも心が粉々に砕けてしまいそうだから、そうしているだけに見えた。


「もう……限界かも」


乾ききった呟きが、朋香の唇から零れ落ちた。


「計算してみたの。親父の保険金を解約して、この工場の土地と機械を二束三文で競売にかけて……残った借金は、千五百万。自己破産すれば機械は取られるし、親父の入院費も払えなくなる。だから、私がどこかのパートに出て、夜も働いて、少しずつ返していくしかないわ。十年か二十年かければ、なんとかなるかもしれない」


朋香は自嘲気味に口角を歪めた。その笑顔は、あまりにも痛々しく、見ているだけで胸が締め付けられるほどだった。


「情けないよね。服飾大を出て、親父の跡を継いで、日本の職人技を守るんだなんて大口叩いておいてさ。結局、大手アパレルの都合の良いトカゲの尻尾切りに遭って、一瞬でこれよ。……服なんて、もう見たくもない。針を持つ手すら、震えて力が入らないのよ」


朋香の言葉は、諦めと無力感で完全に濁っていた。

かつて学生時代、誰よりもミシンのスピードが速く、誰よりも正確に、楽しそうに布を縫い合わせていた少女の面影はどこにもなかった。

巨大な資本の暴力と、理不尽な市場の論理によって、彼女の魂は完全にすり潰されてしまったのだ。


詩織は何も言わず、作業台の脇に置いてあった自分のボストンバッグへと近づいた。

夜の雨に打たれてぐっしょりと湿ったバッグのジッパーを開ける。

中から取り出したのは、昨夜、神代俊樹のタワーマンションの段ボールの底から救い出してきた、あの黒い牛革のケースだった。


革の留め具をパチンと外す。

中から現れたのは、黒光りする重厚な鋼のハサミ――「庄三郎」。

刃渡り二百六十ミリ。鍛造で鍛え上げられた最高級の安来鋼(やすきはがね)が、工場の裸電球の光を吸い込んで、青白い冷徹な光を放っていた。


詩織はハサミを両手で持ち上げ、朋香が広げていた書類の山の真ん中――机の上のわずかな隙間へと、音もなく静かに置いた。


ことり、と硬質な金属音が響いた。


「……詩織? これ……」

朋香が怪訝そうに眉を寄せる。


詩織は作業台の縁に手を置き、朋香の瞳を真正面から見つめ返した。

その視線には、昨夜の涙の痕跡など微塵もなかった。

かつて夫の影に隠れ、おどおどと他人の顔色を窺っていた気弱な女の面影は消え失せ、そこには自らの技術の深淵を知り尽くした、一人の孤独な職人の覚醒があった。


「朋香。服を作るのに、本当に必要なものは何?」


詩織の静かな、だが芯の通った声が、工場の冷気を切り裂いた。


「え……?」

「テレビの密着取材? インフルエンサーのフォロワー数? それとも、西麻布のラウンジで飲むドン・ペリニヨンや、大手アパレルの役員への根回し?」


詩織は机の上のハサミを指先で示した。


「違うわ。服を作るのに本当に必要なのは、あの男たちが弄んでいるような虚飾じゃない。人体の骨格を寸分の狂いもなく捉える『型紙』。布の命を殺さずに切り拓く『ハサミ』。そして、ミリ単位のズレも許さずに布と布を縫い合わせる、あんたの『ミシン技術』よ」


詩織の言葉に、朋香の呼吸が止まる。


「あの男たちは、私たちの技術の上に胡座(あぐら)をかいて、さも自分たちが服を生み出しているかのような顔をしていた。でもね、生地の表裏も分からない立花莉乃にも、口先だけの神代俊樹にも、布の一片、針の一本すら動かす力はないのよ。彼らが持っているのは、ただの『メッキ』よ。……私たちは、家も地位も会社も奪われたかもしれない。でも、この指先に刻み込まれた技術だけは、誰一人として奪えなかった。私たちは、何も失っていないの」


詩織はスウェットのポケットに手を突っ込み、昨夜、俊樹から投げつけられた茶封筒を取り出した。

手切れ金と書かれた、薄汚れた紙の束。

詩織はそれを、作業台の上――庄三郎のハサミのすぐ隣へと、叩きつけるように置いた。


バサリ、と鈍い音が響く。


「……五十万よ」

詩織の唇が、冷たい笑みを刻んだ。

「あの男が、私を『無能な寄生虫』と見下して投げつけてきた手切れ金。あの男にとっては、端金(はしたがね)のゴミ同然のお金よ。でもね、この五十万があれば、最高の布が買える」


「最高の……布……?」

朋香が掠れた声で呟く。


「そうよ。このお金で、最高のウールギャバジンを、ほんの数反だけ仕入れるの。大手アパレルがコスト優先で切り捨ててきた、日本の職人が織り上げた本物の高密度織物よ」


詩織は作業台に身を乗り出し、熱を帯びた瞳で朋香を射すくめた。


「朋香。私たちは今まで、誰かの指示に従って、誰かのコスト計算の中で、小さく縮こまって服を作らされてきた。でも、もう違う。妥協も、コストカットも、クライアントの顔色も一切関係ない。私の持っているすべての構造計算と、あんたの持っている最高の縫製技術を全部注ぎ込んで……世界中を黙らせる、完璧な服を一着だけ作るのよ」


「一着だけ……? でも、詩織、そんなもの作ったって、売り先も、展示会を開くお金もないのよ!? 今月末には手形が落ちて、この工場は……!」

「手形なんて、破綻させてたまるもんですか!」


詩織の鋭い声が、工場の天井に木霊した。

その迫力に気圧され、朋香が息を呑む。


「売り先がないなら、作ればいい。展示会が開けないなら、世界中の人間が見ている場所へ直接叩きつければいい。……服そのものに圧倒的な力があれば、人は必ず足を止めるわ。私の仕様書と、あんたのミシンがあれば、絶対に道は開ける。私が証明してみせる。あの男たちのプロデュースなんて、最初から一欠片の価値もなかったんだってことを!」


詩織の言葉は、単なる強がりではなかった。

長年、彼女の型紙を縫い続けてきた朋香だからこそ、理解できた。

神代詩織というデザイナーが、どれほど異常な執念で服の構造を突き詰めてきたか。

他のデザイナーが描く曖昧なニュアンスのイラストとは違い、詩織の引くパターンは、重力、人体の筋肉の動き、布の縮率、縫い糸のテンションまでが完璧に計算された、恐るべき精密機械の設計図なのだ。

その才能を、夫である俊樹に封じ込められ、愛人の踏み台にされてきた女が、今、すべての枷を脱ぎ捨てて牙を剥こうとしている。


朋香の視線が、机の上の庄三郎のハサミへと吸い寄せられた。

黒光りする鋼の刃。

長年、研ぎ澄まされ、油を差され、大切に使われてきた職人の魂。

それは、どんなに雨に濡れようとも、決して錆びることはない。


(……私は、何を怯えていたんだろう)


朋香の胸の奥底で、冷え切っていた灰の下から、小さな火種がパチリと爆ぜた。

親父が倒れ、職人を解雇し、借金に追われ、もうすべてが終わったと思い込んでいた。

だが、一番過酷な裏切りを受け、すべてを奪われて放逐されたはずの詩織が、前を向いてハサミを握っているのだ。

この友人を前にして、自分が泣き言を言って逃げ出すことなど、できるはずがなかった。


「……ウールギャバジンって言ったわね」


朋香の声から、震えが消えていた。

彼女はゆっくりと立ち上がり、机の上のハサミを見つめた。


「糸の打ち込み本数が多くて、生地が硬いから、普通の工場じゃ針が通らなくて嫌がるのよ。ミシンの送りを少しでも誤れば、目飛び(ステッチの飛び)やパッカリング(縫い縮み)が起きる。……縫い手の腕が、そのまま露骨に出る生地よ」

「ええ。だからこそ、あんたの腕が必要なの」

詩織が静かに頷く。

「あんたのミシンでなければ、私の設計する立体的なドレープは縫い上げられない。大手アパレルの量産ラインじゃ絶対に真似できない、一ミリの狂いもないステッチを打てるのは、墨田区で佐伯朋香ただ一人よ」


「……乗せるのが上手いんだから、あんたは」


朋香の唇の端が、不敵に吊り上がった。

瞳に宿っていた絶望の影は完全に消え去り、そこにはかつて「下町のミシン小僧」と恐れられた、気骨ある職人の光が戻っていた。


「やってやろうじゃないの。どうせこのまま座ってても、月末にはすべて奪われるんだ。……だったら、最後に日本の職人の底力ってやつを、世界中に見せつけてから散ってやるわ!」


朋香は乱暴に袖を捲り上げ、作業台の上に置かれていた茶封筒を鷲掴みにした。


「この五十万、私が預かるわ。浅草の馴染みの生地問屋の親父に掛け合って、倉庫の奥で眠ってる最高級のデッドストックのウールギャバを、原価で引っ張り出してくる! 尾州で織られた、今じゃもう二度と手に入らない極上の生機(きばた)があるはずよ!」

「頼むわ、朋香」

「その代わり、詩織!」

朋香は詩織の胸元を指差した。

「あんたは、その頭の中にある最高傑作の型紙を引きなさい。私のミシンが悲鳴を上げるくらいの、とんでもない仕様書を書き上げてみせなさいよ!」


「言われなくても、そのつもりよ」


詩織は微笑んだ。

それは、過去五年間、俊樹の前では一度も見せたことのない、冷徹で誇り高いプロフェッショナルの笑みだった。


朋香が上着を羽織り、問屋街へと飛び出していく足音が、朝の路地に力強く響き渡る。

静まり返った工場に残された詩織は、深呼吸を一つすると、埃を被っていた巨大な木製作業台の雑巾がけを始めた。

冷たい水で濡らした雑巾で、長年積もった埃を拭い去っていく。

やがて、滑らかに磨き上げられた合板の表面が、朝の光を反射して輝き始めた。


詩織はボストンバッグから、黒表紙のスケッチブックと、硬度2Hの製図用鉛筆、そして寸分の狂いもないスチール製の長定規を取り出した。

作業台の上に、純白の型紙用の方眼紙を大きく広げる。


カチリ、と鉛筆の芯が方眼紙の上に触れた。

頭の中に、すでに完璧な立体の輪郭が浮かび上がっていた。

目指すのは、ただの服ではない。

着る人間の身体を優美に包み込み、歩行に合わせて光と影を交錯させる、彫刻のような一着。

無駄な装飾で目を眩ませる偽物たちを、一瞬で過去のものへと葬り去る、圧倒的な「骨格」を持つ服。


詩織の手が動いた。

定規を当てるまでもなく、滑らかな曲線が、迷いのない筆致で白い紙の上に刻まれていく。

シュッ、シュッ、と鉛筆が紙を擦る乾いた音だけが、朝の工場にリズミカルに響き始めた。


夫に切り捨てられ、奈落の底へと突き落とされたサレ妻の逆襲。

その最初の設計図が、今、静かに産声を上げようとしていた。

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