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愛人のデザインで賞を取った元夫へ。独立して立ち上げた私のブランド、あなたの会社の下請け契約を切る側になりました  作者: タカケンサンバ


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第3話:雨に沈むミシンの音

深夜の豪雨は、容赦なくアスファルトを叩きつけていた。

水煙で白く濁る視界の中、詩織は重くなったスニーカーを引きずるようにして、ただひたすらに東へと歩き続けていた。

港区の湾岸エリアから橋を渡り、江東区を抜け、墨田区の路地へと入る頃には、肌着まで雨水が完全に浸透し、皮膚に張り付いていた。体温が奪われ、歯の根がガチガチと音を立てて鳴る。手足の指先は感覚を失い、まるで氷の塊を引きずって歩いているかのようだった。

それでも、胸の前に抱え込んだボストンバッグだけは、雨風から庇うように両腕で固く抱きしめていた。

この中には、祖父から受け継いだ庄三郎の裁ちバサミと、血の滲むような思考の結晶であるノートが入っている。これだけは、絶対に濡らすわけにはいかなかった。


スカイツリーの青白い航空障害灯が、低く垂れ込めた雨雲の奥でぼんやりと滲んでいる。

目指す場所は、下町の古い町工場が密集する路地の奥深くだった。

小さな鉄工所やメッキ工場、染色工場がひしめき合うこの一角には、昼夜を問わず機械の唸り声や金属の摩擦音が響き、独特の工業油と鉄の匂いが街の空気に染み付いている。

だが、今夜は違っていた。

激しい雨の音の隙間から聞こえてくるはずの、あの音が何一つ聞こえてこない。

――佐伯縫製。

詩織の服飾大学時代の同期であり、誰よりもミシンの技術に長けていた友人・佐伯朋香(さえき ともか)の実家である、従業員十数人ほどの小さな縫製工場だ。

繁忙期であれば、夜中を過ぎても窓の隙間から黄色い電球の明かりが漏れ、高速で布地を縫い合わせる工業用ミシンのリズミカルな駆動音が、雨音を切り裂いて響いているはずだった。


曲がり角を曲がると、古びた二階建てのモルタル作りの建物が見えてきた。

外壁のトタンには赤錆が浮き、錆びついた看板にはかすれた文字で『佐伯縫製株式会社』と刻まれている。

その建物の前で、詩織の足が止まった。

一階の作業場のシャッターが、地面から数十センチの隙間を残して、半分以上下ろされていたのだ。

漏れ出る光は微かで、工場の中からは何の物音もしない。

まるで、息を引き取った機械の墓場のように、不気味な静寂が建物を支配していた。


「……朋香……?」


寒さで強張った唇から、掠れた声が漏れる。

詩織は震える指先で、シャッターの脇に取り付けられた錆びたインターホンのボタンを押した。

ジリリ、と低くくぐもったブザーの音が、冷え切った工場の中に響く。

何の反応もない。

もう一度、今度は指に体重をかけるようにして押し込んだ。

数秒の沈黙の後、奥の階段をドタドタと駆け下りてくるサンダルの音が聞こえてきた。


「……誰ですか? もう今日の営業は終わってますよ! 督促なら明日の朝にしてくれって言ったでしょ!」


シャッターの向こうから響いてきたのは、苛立ちと怯えの混ざり合った、甲高く嗄れた女性の声だった。

詩織はその声に、胸を締め付けられながら答えた。


「朋香……わたし。詩織よ」

「え……?」


内部の鍵がガチャリと外され、重い鉄のシャッターがガラガラと大きな音を立てて跳ね上げられた。

蛍光灯の白い光が、雨の降る暗い路上へと扇状に広がる。

そこに立っていたのは、紺色の作業用エプロンを着た佐伯朋香だった。

学生時代は誰よりも快活で、日に焼けた肌とよく通る笑い声がトレードマークだった友人。

しかし、目の前にいる朋香の顔は青白くやつれ、両目の下には鉛色の深い隈が張り付いていた。頬は削げ落ち、髪は乱暴にヘアゴムで束ねられているだけだった。


「詩織……? 嘘でしょ、あんた、その格好……!」


朋香の目が限界まで見開かれた。

目の前に立つ詩織は、頭から爪先まで泥混じりの雨水に濡れそぼり、唇は紫色に変色し、今にもその場に倒れ込みそうなほど小刻みに震えていたからだ。

ただ事ではないと察した朋香は、即座に詩織の濡れた肩を抱き寄せた。


「何突っ立ってんのよ! 早く入りなさい、凍え死ぬ気!?」


朋香の力強い腕に引かれ、詩織はふらつく足で工場の中へと踏み入れた。

背後で、再び重たい音を立ててシャッターが下ろされ、外の雨音が遠のいた。


工場の内部は、底冷えがするほど冷え切っていた。

広々としたコンクリートの土間には、数十台の工業用本縫いミシンやオーバーロックミシン、裾上げ用のすくい縫いミシンが整然と並んでいる。

だが、そのすべての機械の上に、埃除けの透明なビニールシートが被せられていた。

大型のバキュームアイロン台の電源は落とされ、裁断台の上には布地の一反すら置かれていない。

漂っているのは、冷えたコンクリートの湿気と、乾ききったミシン油の匂いだけだった。


「座って! 今、ストーブつけるから!」


朋香は工場の隅にあった反射式の石油ストーブの点火レバーを押し下げた。

ボッ、という小さな破裂音とともに、青い炎がオレンジ色の暖かい光へと変わり、微かな灯油の匂いが立ち上る。

朋香は奥の事務所から乾いたバスタオルを二枚抱えて戻ってくると、詩織の頭から乱暴に被せ、濡れ鼠になった髪と肩を力一杯拭い始めた。


「服、脱げる? 私の作業着の替えがあるから。……って、手、氷みたいじゃない! ちょっと待ってて、お茶淹れるから!」


手際よく湯沸かし器でお湯を沸かし、朋香は湯呑みに熱いほうじ茶を注いで詩織の掌に握らせた。

熱い陶器の感触が、感覚の麻痺していた掌にジリジリとした痛みを呼び戻す。

詩織は震える両手で湯呑みを口元へ運び、ほうじ茶を一口すすった。

香ばしい熱気が喉を通り、胃の腑へと落ちていく。その温かさに触れた瞬間、張り詰めていた神経の糸がぷつりと切れ、目頭の奥から熱いものが込み上げてきた。


「……ありがとう、朋香」

「礼なんていいわよ。それより、一体何があったの? 今夜、アルカの授賞式だったんじゃないの? ネットの速報で見たわよ。立花莉乃が新人大賞を取ったって」


朋香はパイプ椅子をストーブの前に引き寄せ、眉をひそめて詩織の顔を覗き込んだ。

職人の鋭い観察眼が、詩織のただならぬ憔悴を見逃すはずがなかった。


「……俊樹と、別れたの」


詩織の声は、自分でも驚くほど乾いていた。


「別れた……? 離婚したってこと? あんたたち、二人三脚でアルカを立ち上げて、これからって時じゃない」

「二人三脚なんかじゃなかったのよ」


詩織は湯呑みを見つめたまま、今夜起きた出来事を、感情を押し殺した淡々とした口調で語り始めた。

受賞したドレス『宵闇のプリマ』の型紙を一から引き、徹夜で縫い上げたのは自分であること。

莉乃が本番直前に癇癪を起こして裾を引き裂き、それを床に這いつくばって直したこと。

受賞の栄光の陰で、俊樹から「地味でみすぼらしい女がいるとブランドの運気が下がる」と罵倒されたこと。

そして、深夜のタワーマンションで突きつけられた、俊樹の署名捺印済みの離婚届。

通帳の資金をすべて持ち去られ、手切れ金として五十万円の茶封筒を投げつけられ、家も仕事も奪われて夜の街へ放り出されたこと――。


詩織が言葉を紡ぐにつれ、工場の空気が張り詰めていくのが分かった。

ストーブの炎が爆ぜるパチパチという音だけが、やけに大きく響く。

すべてを話し終えた時、朋香は固く握りしめた拳を、作業台の上へと叩きつけていた。


――ドォン!


鈍く重い打撃音が、静かな工場に木霊した。


「……ふざけんんじゃないわよ……ッ!」


朋香の顔は、激しい怒りで真っ赤に染まっていた。

その瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。


「あの男……! 神代俊樹……! 昔からそうだった! 大学の卒業制作の時だって、詩織が徹夜で組んだトワルを横から見て、さも自分が思いついたみたいに講評会で偉そうに語ってた! 詩織の優しさと大人しさに甘えて、ずっと、ずっとあんたの才能に寄生してたくせに……!」


朋香はエプロンの裾で乱暴に涙を拭い、詩織の肩を掴んで揺さぶった。


「寄生虫はお前の方だろってのよ! 誰の腕で飯食ってきたと思ってんの!? あんたが引くパターンの美しさを、世界で一番知ってるのは私よ! 生地の目を一ミリも狂わせずに、着た人間の身体を一番綺麗に見せるあのラインを、あんな口先だけの男や、インスタで愛想振りまいてるだけの小娘に引けるわけがないじゃない! なんで……なんであんたがそんな目に遭わなきゃいけないのよ……!」


悔しさに声を詰まらせ、自分のことのように泣いて怒ってくれる友人。

その温かさに触れ、詩織の胸の奥底で固まっていた氷が、音を立てて溶けていくようだった。

タワーマンションの冷え切った部屋で、どれほど理不尽に罵られようとも流せなかった涙が、詩織の瞳からも溢れ出し、温かいほうじ茶の湯気の中へと落ちていった。


「……ごめんね、朋香。こんな夜中に押しかけて。でも、行く場所が……思いつかなくて」

「馬鹿言ってんじゃないわよ! 来なかったら承知しなかったわ! 今夜はここに泊まりなさい。二階の私の部屋、万年床だけど布団はあるから」


朋香は鼻をすすりながら、力強くそう言って立ち上がった。

だが――その時、詩織の視線が、工場の壁に掛けられた一枚の大きなカレンダーへと留まった。


黒い太マジックで、今月末の日付に大きく赤い丸がつけられている。

その丸の横には、殴り書きのような文字で『手形期日・決済資金』と記されていた。

そして、作業台の隅に無造作に積まれた、十数通に及ぶ催促状と内容証明郵便の束。

埃を被ったミシン。

静まり返った工場。

詩織の頭の中で、断片的な違和感が一本の線となって繋がっていった。


「……朋香。この工場、一体どうしたの?」


詩織の問いに、朋香の背中がピクリと強張った。

立ち上がりかけた朋香の足が止まり、彼女は力なく視線を落とした。

先ほどまでの燃え盛るような怒りが潮が引くように消え去り、その横顔には、底知れぬ疲労と絶望が影を落としていた。


「……見れば、分かるでしょ」


朋香は弱々しく笑い、ビニールシートの被せられたミシンにそっと手を触れた。


「仕事が、ないのよ。一本も」

「仕事がない……? 佐伯縫製といえば、国内でも指折りの高密度縫製ができる優良工場じゃない。大手アパレルのコートやジャケットのラインを、何年も一手に引き受けていたはずでしょう?」

「その大手アパレルに、殺されたのよ」


朋香の口から漏れたのは、乾ききった呟きだった。


「春先から、理不尽なコストカットの要求がエスカレートしたの。『中国やベトナムの工場ならこの半額で縫うぞ。嫌なら他へ回す』って。工賃を三割削られ、それでも工場の職人たちに給料を払うために、泣く泣く受けたわ。でも……先月よ」


朋香は奥の棚から、分厚い発注書の控えを引っ張り出してきて、作業台に放り出した。


「秋冬物のウールコート、五千着の大型発注。資材を仕入れて、職人を総動員して、夜通しミシンを踏んで半分以上縫い上げたところで……突然、先方の都合で『全量キャンセル』を通告されたの」

「全量キャンセル……!? そんなの、下請法違反じゃない!」

「そうよ。明らかな違法行為よ。でもね、向こうの言い分はこうよ。『納品された初期ロットのボタン付けの強度が基準に達していない。よって契約解除、損害賠償を請求する』って」


朋香の唇が、悔しさで震えていた。


「うちの検品でボタン付けに不備なんてあるはずがない! 要するに、暖冬の予報が出てコートの売れ行きが怪しくなったから、在庫のリスクを下請けの工場に全部押し付けて切り捨てたのよ! 資材の仕入れ代金も、工賃も、一円も支払われないまま……出来上がった何千着ものコートの山だけが、工場の倉庫に残された」


残酷なアパレル業界の闇。

巨大な資本を持つ元請け企業が、立場の弱い町工場を使い捨ての駒として買い叩き、リスクをすべて擦り付ける。

俊樹が詩織に対して行った搾取と、構造はまったく同じだった。


「親父はね……」

朋香の声が、かすかに震えた。

「そのキャンセルの通知書を見た日の夜、事務所で倒れたの。脳梗塞だった。一命は取り留めたけど、右半身に麻痺が残って、もう針を持つことはできない。職人たちも……給料が払えなくなる前に、全員に頭を下げて解雇したわ。退職金もろくに出せなかった」


朋香はカレンダーの赤い丸を、虚ろな目で見つめた。


「今月末の手形が落ちなければ、うちは不渡りを出して倒産よ。負債総額は二千万円。この土地と建物を競売にかけても、借金が残る。……私はね、詩織。この工場を畳んで、どこかの夜の店にでも出て、親父の入院費と借金を返すしかないのよ」


冷たい風が、工場のトタンの隙間から吹き込んできた。

ストーブの熱気など一瞬で吹き飛ばしてしまうような、過酷な現実の冷気が、二人の女を包み込む。

神代俊樹にすべてを奪われ、着の身着のままで放逐されたデザイナー。

大手アパレルの横暴によって父親を倒され、歴史ある工場を潰されようとしている縫製工の跡取り。


二人は、それぞれの場所で、自らの技術と魂を踏みにじられ、世界のどん底へと叩き落とされていた。


「……笑っちゃうわよね」

朋香が自嘲気味に笑った。

「学生の頃、二人で夢を語り合ったじゃない。詩織が世界一の型紙を引いて、私がそれを世界一の技術で縫い上げて、いつかパリのランウェイに並べようぜって。……現実はこれよ。私たちはただの、使い捨ての歯車だったのよ」


朋香の言葉は、重たい鉛のように工場の床へと沈んでいった。

ミシン油と埃の匂いが、死んだ工場の臭気のように鼻を突く。

外では、雨が依然として激しくトタン屋根を打ち鳴らしていた。

世界から見捨てられたような、暗闇の底。


だが。

その沈黙の中、詩織はゆっくりと顔を上げた。

濡れた前髪の隙間から覗くその瞳の奥には、先ほどまでの涙の痕跡は微塵も残っていなかった。

灯油ストーブの赤い炎を映し出し、研ぎ澄まされた刃物のように――冷たく、鋭い光が宿っていた。


詩織は足元に置いていたボストンバッグに手を伸ばし、そのジッパーを静かに引き開けた。

金属の噛み合う音が、静まり返った工場に小さく響く。

すべてを失った女たちの夜は、まだ終わっていなかった。

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