第2話:五拾万円の手切れ金
大型ホールの搬出口から外へ出ると、夜の湿気を含んだ重たい風が頬を打った。
空はどんよりと濁った鉛色に染まり、遠くでかすかに雷鳴が轟いている。
深夜二時過ぎ。
華やかなパーティーの喧騒はとうに遠い夜の街へと消え去り、照明の落とされたイベントホールの裏手には、ただ冷たい静けさだけが広がっていた。
詩織は痛む膝を庇いながら、一人で最後の資材用コンテナの蓋を閉めた。
授賞式が終わった後、俊樹も、莉乃も、そして雇われていた現場スタッフたちも、全員が「西麻布の祝勝会」へと消えていった。誰も撤収作業のことなど気にも留めない。
『詩織さん、車に全部積んどいてね。あ、トルソーの首が折れたら弁償だから気をつけてよ〜』
莉乃がタクシーに乗り込む直前、窓から放ったあの軽い声が耳にこびりついて離れなかった。
重さ数十キロもある移動用の大型ラックを一人で解体し、何十着もの展示用サンプルを埃よけのガーメントバッグに収め、バンタイプの社用車へ積み込む。
手首の腱鞘炎がズキズキと悲鳴を上げ、右手の人差し指に刺さった待ち針の傷跡が、汗で滲みて焼けるように痛んだ。
それでも、詩織は文句一つ言わずに作業をやり遂げた。
どんなに理不尽な扱いを受けようとも、服そのものに罪はない。誰が着ようと、誰が名義を奪おうと、自分が産み落とした服たちを冷たい床に放置して帰ることなど、職人としての矜持が許さなかったからだ。
社用車の鍵をアトリエの駐車場に停めてある予備のキーボックスに納め、詩織は重い足取りで深夜の地下鉄へと向かった。
終電はとうに過ぎている。
タクシーを呼ぶ金などなかった。会社の経費精算用カードは俊樹に取り上げられており、詩織が自由に使える財布の中には、千円札が二枚と小銭が数枚入っているだけだったからだ。
結局、深夜運行の路線バスを乗り継ぎ、最後は三十分近く歩いて、ようやく港区の臨海部にそびえ立つ高層タワーマンションへと辿り着いた。
夫・神代俊樹の自宅であり、株式会社アトリエ・アルカの登記上の本店所在地でもあるその部屋は、最上階に近い四十一階にあった。
全面ガラス張りのエントランスをくぐり、耳がツンと痛くなるほどの高速エレベーターで昇る。
鏡に映った自分の姿は、あまりにも惨めだった。
湿気でうねった黒髪を乱雑に後ろで束ね、ノーメイクの顔には土気色の隈が張り付き、毛玉だらけのタートルネックは埃と汗の匂いに塗れている。
同じ時刻、西麻布の会員制ラウンジでドン・ペリニヨンを煽り、業界の有力者たちにちやほやされているであろう俊樹や莉乃とは、まるで住む世界が違っていた。
(……でも、これで少しは会社も落ち着くはず)
詩織は胸の内で、自分に言い聞かせるように呟いた。
賞を取ったのだ。これでアルカの知名度は上がり、資金繰りも好転するだろう。
俊樹の機嫌が直れば、また以前のように、アトリエで二人きりでお茶を飲みながら、次のシーズンのデザインについて穏やかに語り合える日が戻ってくるかもしれない――。
そんな、どこかで破綻していると分かっていながら捨てきれなかった淡い幻想を抱えたまま、詩織は電子錠に指をかざした。
ピッ、という電子音とともに、重厚な玄関ドアが静かに解錠された。
「……ただいま戻りまし――」
言いかけた言葉が、喉の奥で凍りついた。
玄関の三和土に足を踏み入れた瞬間、鼻腔を突いたのは、甘ったるいバニラとムスクの強烈な香りだった。
立花莉乃が愛用している、フランス製の高価な香水。
その匂いが、まるで部屋の空気を完全に塗り替えてしまったかのように、玄関先から廊下の奥まで濃厚に漂っていた。
床には、莉乃が履いていたはずの赤いルブタンのピンヒールが脱ぎ散らかされ、そのすぐ横には、見慣れない茶色い段ボール箱が二つ、無造作に転がっていた。
段ボールの口は開いていた。
中を覗き込んだ詩織の全身の血が、サーッと音を立てて引いていく。
詰め込まれていたのは――詩織の私物だった。
服飾学校時代から使っているテキスト、数冊のノート、引き出しの奥にしまっていた地味な普段着、そして洗面台に置いてあった基礎化粧品。
それらがまるで、生ゴミでも放り込むかのような乱雑さで、段ボールの中に押し込められていたのだ。
「……何、これ……?」
震える声で呟きながら、廊下を抜けてリビングへと進む。
広大なリビングの照明は落とされ、バルコニーの窓の外に広がる東京湾の夜景だけが、青白く室内を照らし出していた。
その窓を背にして、巨大なカウチソファに深く腰掛けている人影があった。
「帰りが遅かったな、詩織」
暗がりの中で、氷の触れ合うカランという音が響いた。
俊樹だった。
まだ授賞式のタキシードを着たまま、ネクタイを緩め、バカラのグラスに注がれた深紅のワインを揺らしている。
祝勝会のアルコールでわずかに赤ら顔になった男の顔には、勝ち誇ったような、そしてすべてを見下すような冷酷な笑みが張り付いていた。
「俊樹さん……あの段ボールは、一体どういうことですか? それに、莉乃さんの靴が……」
「見れば分かるだろ」
俊樹はワイングラスを大理石のローテーブルへと無造作に置いた。
カツン、と乾いた硬質な音が室内に響く。
テーブルの中央には、あらかじめ用意されていた一枚の書類が置かれていた。
緑色の明朝体で印刷された、その文字を認識した瞬間、詩織の視界がぐらりと揺れた。
――『離婚届』。
夫の欄にはすでに、流麗で見慣れた俊樹の署名と、赤い実印が鮮明に捺されていた。
「サインして、今すぐここを出て行け」
俊樹は何事もないかのように、平然と言い放った。
まるで、明日の朝食のメニューを決めるような、あまりにも軽々しい口調だった。
「……離婚……? 何を言っているの、俊樹さん。冗談でしょう?」
「俺がこんな夜中に、お前相手に冗談を言うと思うか?」
俊樹は鼻を鳴らし、ソファの背もたれに体重を預けた。
「莉乃はインスピレーションの塊だ。あいつといると、俺のビジネスに新しい風が吹く。あいつこそが、アルカのブランドを世界へ羽ばたかせる本物のミューズなんだよ」
詩織は足元から這い上がってくる冷気で、全身がガタガタと震え出すのを止められなかった。
「莉乃さんが……ミューズ? 何を言っているの? 今日の『宵闇のプリマ』だって、型紙を引いたのは私よ! 生地を選んで、縮率を計算して、徹夜で縫い上げたのは私じゃない! 彼女は何もしていないわ!」
詩織の叫びに対し、俊樹の眉が不快そうにピクリと跳ね上がった。
男はゆっくりと立ち上がり、詩織の前へと歩み寄ってきた。
長身の影が、詩織の小柄な身体をすっぽりと覆い隠す。
アルコールと高価なシガーの匂い。かつては安心感を覚えたその匂いが、今は吐き気をもよおすほどに禍々しく感じられた。
「お前、本当に図々しいな」
俊樹の口から紡ぎ出されたのは、毒蛇のように冷たく湿った声だった。
「型紙を引いただの、縫い上げただの……それがどうした? お前がやったのは、莉乃の頭の中にある素晴らしい世界観を、言われた通りに作業して布に落とし込んだだけだろ。ミシンを踏むだけの作業員が、クリエイター面するなよ」
「作業員……!? そんな……! 彼女のデザイン画はただの雑誌の切り抜きだった! 服の骨格すら成り立っていなかったものを、人体の構造に合わせて一から立体裁断したのは私よ!」
「うるさい!」
俊樹の怒声が、静まり返ったリビングを震わせた。
男は冷酷な眼差しで、詩織の顔を上から下まで、品定めするように舐め回す。
「勘違いするなと言ってるんだ、詩織。お前みたいな地味で陰気な女がアトリエの横に立っていたら、それだけでブランドの格が落ちるんだよ。服なんてものはな、誰が着て、誰が語るかで価値が決まるんだ。莉乃の圧倒的な美貌と華、そして俺の卓越した営業力とプロデュース力――それがあるから、アルカの服は何十万という高値で売れるんだよ」
俊樹は一歩、また一歩と詩織を追い詰めるように間合いを詰めてくる。
その瞳に宿るのは、絶対的な自己陶酔と、妻に対する底知れぬ見下しだった。
「いいか? お前一人で部屋に籠もってどれだけ完璧な型紙を引こうが、そんなものは一円にもなりゃしないんだ。誰のおかげで今までこのタワマンに住めて、飯が食えてたと思ってる? 俺が外で頭を下げて、金を引っ張ってきてたからだろうが。お前はただ、俺に寄生してミシンを踏んでただけの無能な寄生虫なんだよ」
――寄生虫。
無能な、寄生虫。
その言葉が、詩織の胸を深々と抉った。
結婚してからの五年間。
朝から晩までアトリエに籠もり、土日もなく、新しいコレクションのたびに指から血を流しながら針を握り続けてきた。
自分の服飾学校時代の賞金も、貯金も、すべて「俊樹の会社を大きくするため」と差し出し、自分の服など一着も買わず、美容院に行く時間すら惜しんで型紙を引き続けてきた。
その結果が、これだった。
男は詩織の骨の髄まで搾り取り、愛人の手柄として受賞したその夜に、彼女を「寄生虫」と罵って切り捨てるのだ。
「……もう、いいわ」
詩織は震える唇を噛み締め、俯いた。
涙は出なかった。
あまりの理不尽と侮蔑に、感情の限界値を超えてしまったのか、脳の奥底が急速に氷のように冷え切っていくのを感じていた。
「別れましょう、俊樹さん。でも……私が過去に作った服の著作権と、これまでの労働対価、そして私の個人口座に入っていた資金は返してください。あれは私の両親が遺してくれた――」
「ハッ、何寝言言ってんだ?」
俊樹は嘲笑混じりに鼻を鳴らし、スーツの内ポケットから分厚い茶封筒を取り出した。
そしてそれを、詩織の胸元へとバサリと投げつけた。
封筒が詩織の胸に当たり、床の上へと滑り落ちる。
封の開いた隙間から、万札の束がわずかに覗いていた。
「手切れ金だ。五十万入ってる。お前みたいな無能の退職金にしちゃ、破格の金額だろ」
「五十万……? ふざけないで! 私の通帳には、独立前の資金を含めて八百万円以上入っていたはずよ! それに、これまでの売上の配当だって――」
「あの金はすべて、会社の正当な『運転資金』として使わせてもらったよ」
俊樹は冷たい笑みを浮かべ、平然と言い放った。
「お前名義の口座の管理権は、会社設立時に俺に一任するという書類にサインしたはずだぞ? あれはすべて、アトリエの賃料や今回のコレクションのプロモーション費用として消えた。帳簿上、残高はゼロだ。文句があるなら裁判でも何でも起こせばいい。もっとも、一文無しの無能なお前に、弁護士を雇う金があればの話だがな」
完璧な罠だった。
最初から、詩織の技術だけでなく、資産のすべてを奪い尽くすように仕組まれていたのだ。
俊樹の言葉を疑いもせず、渡された書類に唯々諾々と判を捺し続けてきた、自らの甘さと愚かさが呪わしかった。
「さあ、話は終わりだ。今すぐ荷物を持って出て行け」
俊樹はあごで玄関の段ボールを指した。
「莉乃は今、寝室で疲れて寝てるんだ。あいつを起こすなよ。明日は朝から、大手百貨店との大型コラボの打ち合わせがあるんだからな」
寝室のドアの隙間から、規則的な寝息が聞こえていた。
詩織が命を削って仕立てたドレスを雑巾のように脱ぎ捨てた女が、詩織のベッドで、何食わぬ顔で眠っている。
そしてその女のために、詩織はこの夜の闇の中へ、無一文で放り出されようとしている。
詩織は床に落ちた茶封筒を、無言で見つめた。
拾い上げる指先が、屈辱で小刻みに震える。
――これを投げ返してやれたら、どれほど誇らしいだろうか。
だが、今の詩織には、その五十万円を拒絶する力すらなかった。これを突き返せば、今夜雨風を凌ぐ場所すら見つけられない。
生き延びるために。
いつかこの男たちを、この手で地獄の底へ叩き落とすその日のために。
詩織は唇から血が滲むほど強く噛み締めながら、床の茶封筒を拾い上げ、コートのポケットへとねじ込んだ。
「……最後に一つだけ、荷物を取らせて」
「勝手にしろ。ただし、会社の備品には指一本触れるなよ」
俊樹が見張るように腕を組み、冷ややかな視線を背中に突き刺してくる中、詩織は玄関の段ボールの前へしゃがみ込んだ。
中を掻き分け、底の方に押し込められていたものを取り出す。
黒い革のケースに収められた、一挺のハサミ。
日本の伝統的な鍛冶職人が手作業で焼き入れを行った、最高峰の裁ちバサミ――「庄三郎」。
服飾学校へ入学した日、早くに亡くなった祖父が「本物の職人になりなさい」と買い与えてくれた、詩織の唯一無二の宝物だった。
どんなに薄いシルクも、どんなに分厚いメルトンウールも、刃を滑らせるだけで吸い付くように断ち切る、狂いのない鋼の刃。
俊樹にとっては、ただの「古臭いハサミ」にしか見えなかったのだろう。だからこそ、処分されずに段ボールの底に残されていたのだ。
詩織はケースからハサミを抜き、刃の輝きを確かめた。
油の匂い。寸分の狂いもない噛み合わせ。
この刃がある限り、自分の手詰まりではない。
続いて、段ボールの隅に押し込まれていた数冊の黒表紙のスケッチブックを引っ張り出した。
表紙をめくれば、そこには世界各国の生地の特性、洗濯縮率の実験データ、人体の骨格とドレープの相関関係を記した、詩織独自の膨大な幾何学計算式がびっしりと書き込まれていた。
俊樹や莉乃のような「雰囲気」だけで服を語る人間には、到底理解できない暗号の羅列。
だがこれこそが、あらゆる服を美しく成立させるための、世界に二つとない「骨格の設計図」だった。
詩織はハサミとノートを、ボストンバッグの奥深くへと詰め込んだ。
着替えなど、どうでもよかった。
技術と、それを形にする道具さえあれば、服はいくらでも作れる。
「それだけか? ならさっさと鍵を返せ」
俊樹が横柄に手を差し出してきた。
詩織は無言で、キーホルダーからマンションの電子キーを外し、男の掌へと落とした。
チャリン、と冷たい金属音が鳴る。
「じゃあな、詩織。お前もせいぜい、どこかの安縫製工場のパートで、一生ミシンでも踏んで暮らすんだな。まあ、お前にはそれがお似合いだよ」
俊樹は嘲笑いながら、詩織の目の前で乱暴に玄関ドアを閉ざした。
バタン、という重い重低音とともに、オートロックの施錠音がガシャリと響く。
閉ざされた扉の向こうからは、二度と何の音も聞こえてこなかった。
五年間尽くし続けた結婚生活の終わりは、あまりにも呆気なく、そして残酷だった。
外に出た瞬間、激しい閃光とともに雷鳴が轟いた。
滝のような豪雨が、容赦なく夜の東京を打ち据えていた。
パラパラと音を立てて降るような生ぬるい雨ではない。
視界を真っ白に染め上げるほどの土砂降りの中、傘すら持たない詩織は、一瞬で頭から足の先までずぶ濡れになった。
冷たい雨水が、タートルネックの襟元から背筋をつたって流れ落ち、体温を容赦なく奪っていく。
ボストンバッグを両手で抱きかかえるようにして、詩織は歩き出した。
雨水に打たれて重くなったバッグの底で、鋼のハサミがカチリと音を立てる。
水たまりを踏み抜くたびに、靴の中に冷たい泥水が染み込んできた。
高層マンションの窓を見上げると、四十一階の部屋の明かりはすでに完全に消え去っていた。
冷たい。
凍えるように寒い。
だが――詩織の胸の奥底で、何かが静かに、赤黒く燃え上がっていた。
『お前は言われた通りにミシンを踏んでいただけの作業員だ』
『誰のおかげで今まで飯が食えたと思ってる?』
『一生、安工場のパートでミシンでも踏んで暮らすんだな』
俊樹の吐き捨てた侮蔑の言葉が、豪雨の音に混ざって、耳の奥で何度も、何度もリフレインする。
「……見ていなさい、神代俊樹」
雨水が顔を濡らし、口の中へと流れ込む。
詩織は足を止めず、暗い夜の路上を、前へ、前へと進み続けた。
「私の引いた線がなければ、あなたたちは服の一着も作れない。私の設計がなければ、あなたたちの服はただのゴミ屑よ。……その浅ましい骨の髄まで、思い知らせてあげる」
放逐された女の瞳に宿っていたのは、絶望の涙ではなかった。
すべてを奪われた暗闇の底で、研ぎ澄まされた刃のような――冷酷で、静かなる復讐の炎だった。
降りしきる雨の中、詩織は下町の路地裏――かつて自分を唯一の友と呼んでくれた、あの場所を目指して歩き続けた。




