第1話:光の下の影法師
鼓膜を震わせる重低音のファンファーレと、耳を劈くほどの歓声。
数百台のカメラが一斉に焚くストロボの白い光が、ぶ厚い遮光暗幕の隙間から漏れ出し、薄暗いバックステージの床を不規則に照らし出していた。
「――第32回・ジャパン・モード・クリエイション大賞、最優秀新人デザイナー賞に輝いたのは……『アトリエ・アルカ』、立花莉乃さんです! おめでとうございます!」
司会者の高らかなアナウンスに呼応して、会場全体が割れんばかりの拍手に包まれる。
巨大モニターに映し出されたその光景を、神代詩織は冷たいリノリウムの床に膝をついたまま、ぼんやりと見上げていた。
壇上の中央、眩いスポットライトを浴びて涙ぐんでいるのは、二十三歳の若手モデル兼デザイナー、立花莉乃。
華奢な身体を包むのは、深い真夜中の帳を思わせるミッドナイトブルーのシルクサテンドレス――作品名『宵闇のプリマ』。
歩くたびに波打つドレープが、まるで月光を浴びた水面のように妖艶な陰影を放ち、客席のファッション関係者や海外バイヤーたちのため息を誘っている。
その隣には、仕立ての良いタキシードに身を包み、我が世の春を謳歌するように胸を張る男の姿があった。
株式会社アトリエ・アルカ代表取締役――詩織の夫である神代俊樹だ。
「莉乃の瑞々しい感性と、我が社の妥協なき美学が実を結びました。彼女というミューズに出会えたことこそ、私の人生最大の幸運です」
マイクを握る俊樹の淀みないスピーチに、再び盛大な拍手が沸き起こる。
モニターの中の二人は、美男美女の完璧なビジネスパートナーとして、あるいはそれ以上の甘美な熱を帯びた瞳で互いを見つめ合っていた。
――瑞々しい感性、妥協なき美学。
その言葉が耳を通過するたび、詩織の胸の奥底で、乾いた砂が擦れ合うような鈍い痛みが走る。
詩織は視線を落とした。
彼女がいるのは、華やかなステージの真裏。照明の熱気も届かない、埃とミシン油の匂いが漂う舞台裏の通路だった。
着古して毛玉のついた黒いタートルネックに、作業用のチノパン。手首にはピンクッション(針山)を巻き、床に這いつくばったまま、詩織は手元の一本の縫い針を動かし続けていた。
床の上には、莉乃が本番直前まで身につけていたフィッティング用の予備パーツと、切り落とされた糸屑が無残に散らばっている。
事の発端は、本番のわずか十五分前だった。
楽屋でメイクを終えた莉乃が、姿見の前で不機嫌そうに唇を尖らせたのだ。
『ねえ俊樹さん、このドレス、裾が長すぎて歩きにくいんだけど! ランウェイで転んだらどうすんのよ!』
そう叫ぶなり、莉乃はピンヒールの踵でドレスの裾を踏みつけ、苛立ち任せに力任せに引っ張った。
ピシリ、と不吉な音が響いた。
詩織が三日三晩、一睡もせずにミリ単位の計算を重ねて仕立て上げた裾の折り返し――手縫いのまつり縫いが、莉乃の乱暴な仕草によって無残に引きちぎれた瞬間だった。
『ちょ、莉乃、落ち着けよ! もうすぐ出番だぞ!』
『だって歩きにくいんだもん! こんなの適当に両面テープで留めとけばいいじゃない!』
青ざめる俊樹を前に、莉乃は喚き散らした。
両面テープで留める。
その信じがたい暴言に、詩織の血は一瞬で逆流しかけた。
この『宵闇のプリマ』に使われているのは、イタリアの老舗機屋から取り寄せた、極薄で繊細極まりないシルクサテンだ。しかも布目を四十五度傾けて裁断する「バイアス裁断」を施している。
重力に従って生地が自然に落ちることで、人体の曲線に吸い付くような奇跡的なドレープが生まれる構造になっているのだ。
そんな繊細な生地に粘着テープなどを貼れば、糊が染み出して生地は死に、歩行時の優美な揺らぎは完全に失われてしまう。
『……動かないでください』
詩織は震える声でそう制止し、床に膝をついた。
バッグから取り出した細い絹針に、同色の絹糸を通す。
足元でイラ立ちを隠さず貧乏ゆすりを続ける莉乃の足元に額を擦りつけるようにして、息を止め、一針、一針、引き裂かれたヘムラインを縫い直した。
針のピッチは一・五ミリ。表には決して糸を出さず、生地の織り糸を一本だけ掬うようにして留めていく。
指先が摩擦で熱を帯び、心臓が早鐘のように打つ中、出番を告げるスタッフの声が響く直前、詩織はどうにか最後の糸を玉結びで留め、ハサミを入れたのだった。
『チッ……最初からちゃんと歩きやすい服にしといてよね。これだから裏方のオバサンは気が利かないのよ』
礼の言葉一つなく、莉乃はツンと鼻を鳴らして舞台袖へと走っていった。
そして今――そのドレスが「天才的な若手デザイナーの結晶」として、日本最高峰の賞を総なめにしている。
「……私の、服なのに」
誰にも届かない呟きが、乾いた唇から零れ落ちた。
壇上でトロフィーを抱きしめる莉乃が、涙ながらに語っている。
『私、夜空を見上げている時に、ふとインスピレーションが降りてきたんです。月光に溶けるような、着る人を一番美しく見せるシルエットを創りたいって……!』
嘘だった。
このコレクションの準備が始まった三ヶ月前、莉乃がアトリエのデスクに放り出してきたのは、海外の有名コレクション誌やピンタレストの画像を適当に切り貼りした、わずか一枚のコラージュボードだった。
『なんかこういうフワッとしててキラキラしてて、インスタでバズりそうなやつ! あとは詩織さんが適当に形にしといてよ。私、来週からハワイロケだからさ〜』
そう言って、彼女は一度もメジャーを持たず、生地見本帳すらめくらずに部屋を出て行ったのだ。
デザイン画ですらない、ただの切り抜き。
そこから人体の骨格を割り出し、鎖骨の傾斜からバストトップ、ウエストの絞り位置、歩行時に脚の動きを邪魔しないスリットの深さに至るまで、すべての構造を設計したのは詩織だった。
服飾の名門大学を首席で卒業した詩織にとって、服とは「絵」ではない。
重力と張力、そして人間の可動域が織りなす極限の構造計算――いわば布による建築物なのだ。
三日間、ほぼ固形物を口にせず、栄養ドリンクだけで命を繋ぎながら、型紙に鉛筆を走らせ続けた。
夫の俊樹は、そんな詩織の肩を揉みながら、いつも甘い声で囁いていたものだ。
『頼むぞ、詩織。莉乃には表舞台で客を惹きつける華がある。俺にはそれを金に変えるプロデュース力がある。だが、服を実際に形にできるのはお前だけなんだ。俺たちの会社のためだ。この賞さえ取れば、アルカは国内トップブランドになれる』
その言葉を信じていた。
自分は人前で話すのが苦手で、社交の場に出れば萎縮してしまう。だから、愛する夫の夢を支えるために、自分は影になろうと決めたのだ。
夫の笑顔が見られるなら。二人の会社が大きくなるなら。自分の名前が表に出なくても、自分の仕立てた服が誰かを美しく彩るなら、それでいいと自分を納得させていた。
だが――それは支え合いなどではなかった。
ただの、無慈悲な搾取だったのだ。
授賞式のグランドフィナーレを告げる銀テープが客席に降り注ぎ、華やかな音楽とともに幕が下りる。
やがて、バックステージの重い防音扉が開き、取り巻きのスタッフやカメラマンを従えた俊樹と莉乃が、騒がしい歓声とともに楽屋フロアへと戻ってきた。
「莉乃ちゃん最高だったよ!」「これで次の展示会の別注は確実だな!」「シャンパン開けようぜ!」
「キャハハ! ありがとー! もうトロフィー重たくて腕痛い〜!」
我が世の春を謳歌する笑い声が、狭い通路に充満する。
詩織は立ち上がり、通路の壁際に身を寄せて頭を下げた。
華やかな集団の先頭を歩く俊樹と、ふと視線が交差する。
詩織の胸に、ほんのわずかな期待がよぎった。
――お疲れ様、の一言くらいはあるだろうか。
裾の修復が間に合わなければ、莉乃はランウェイを歩くことすらできなかったのだ。トラブルを未然に防ぎ、完璧な状態で送り出したことに対して、夫として、社長として、何か労いの言葉をかけてくれるのではないか。
しかし。
俊樹の足がピタリと止まった。
その整った顔立ちに浮かんだのは、感謝でも労いでもなく――這い出る虫を見るかのような、あからさまな嫌悪と侮蔑だった。
「……おい」
冷え切った低い声が、騒がしい通路の空気を凍りつかせる。
「俊樹さん……?」
「誰がそこに突っ立ってていいと言った?」
俊樹は眉をひそめ、詩織のみすぼらしい服装を一瞥した。
周りのスタッフたちが、気まずそうに視線を泳がせる。莉乃は俊樹の腕に自分の胸を押し付けるように絡みつき、嘲笑を含んだ目で詩織を見下ろしていた。
「裏方がいつまでもウロウロするな。みすぼらしい格好で莉乃の視界に入るなよ。せっかくの最高の一日に、ブランドの運気が下がるんだよ」
心臓を氷の針で刺されたような衝撃が、詩織の全身を駆け巡った。
息が詰まり、声が出ない。
運気が下がる――?
そのドレスの型紙を引いたのは誰だ。
そのドレスの糸を通し、ミリ単位で縫い上げ、莉乃の引き裂いた裾を床に這いつくばって直したのは、一体誰だと思っているのか。
「あ、俊樹さぁん、もういいじゃないですかぁ」
莉乃が甘ったるい声で口を挟む。だがその瞳は、冷酷な嘲笑に満ちていた。
「詩織さんだって、私のおかげで自分の縫った服がスポットライトを浴びて、感謝感激で言葉が出ないんですよ。ねー、裏方さん?」
莉乃はそう言い捨てると、身につけていた『宵闇のプリマ』のフロントホックを乱暴に外した。
「あー、肩凝った! 重たくて邪魔!」
彼女は脱ぎ捨てたドレスを畳みもせず、通路の床――埃の積もったリノリウムの上へと、まるで雑巾のように放り投げた。
「あ……」
詩織の口から、掠れた悲鳴が漏れた。
世界最高峰のシルク。三日間の魂の結晶。
それが、泥のついた靴が行き交う通路の床に、無残に打ち捨てられている。
「さ、俊樹さん、アフターパーティー行きましょ! 西麻布の会員制ラウンジ、業界のVIPがみんな待ってるんだから!」
「ああ、行こう。今夜は俺たちの勝利の夜だ」
俊樹は莉乃の肩を抱き寄せ、一度も詩織を振り返ることなく歩き出した。
取り巻きの連中も、床に落ちたドレスを踏みそうになりながら、我先にと二人の後を追っていく。
あっという間に、通路からは人の気配が消え失せた。
遠くから、パーティー会場へと向かうエレベーターのチャイムと、彼らの嬌声がかすかに響いてくる。
静寂が戻った薄暗い舞台裏で、詩織は一人、立ち尽くしていた。
膝から崩れ落ちるようにして、詩織は床に散らばったドレスへと手を伸ばした。
拾い上げ、埃をそっと手で払う。
かつて自分が愛した男は、自分の技術を、魂を、そして妻としての尊厳を、何一つ見てなどいなかった。
彼にとって詩織は、莉乃という新しい愛人を輝かせるための、都合の良い「無名の踏み台」に過ぎなかったのだ。
「っ……、う……」
喉の奥から、押し殺した嗚咽が込み上げてくる。
悔しさと情けなさで、視界が涙で滲んだ。
胸を掻きむしりたくなるほどの屈辱。だが、どれほど涙を流そうとも、自分がこれまで捧げてきた年月と努力は戻ってこない。
ふと、指先にツンとした痛みが走った。
見ると、右手の人差し指――本番直前、莉乃の裾を大急ぎでまつり縫いした際に誤って刺した待ち針の痕から、ぷつりと、赤い血が一滴滲み出ていた。
鮮血は、シルクサテンの深い青の上へと、音もなく零れ落ちる。
痛い。
肉体の痛みなどよりも遥かに深く、魂の芯が軋むように痛かった。
だが――その冷たい痛覚が、涙で濁っていた詩織の視界を、急速に研ぎ澄ましていく。
詩織は血の滲む指先を強く握りしめた。
床に這いつくばるだけの自分は、今、この瞬間に死んだのだ。
「……私の服を、二度とゴミのように扱わせない」
乾いた声が、静まり返った通路に低く響いた。
床に落ちていた愛用の裁ちバサミを拾い上げ、ボストンバッグの底へと仕舞い込む。
重厚な鋼の冷たさが、手のひらを通して、凍りついた心臓へと真っ直ぐに伝わってきた。
この夜が、すべての破滅の始まりであり――
名もなき影が、偽りの光を切り裂くための、最初のプロローグだった。




